史跡は文明の歯石である …… エグザンプル・コム(架空の歴史家)
この記事は、単独で記事を立てるほどでもない小さな史跡を紹介するための記事です。
項目数が 20 に到達したので、本エントリでは打ち止めとし、続エントリを立てました。
>史跡の軌跡 2 | 桝席ブログ
http://www.masuseki.com/wp/?p=9292
この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。
日記から転載した部分が含まれるので、サイト内に重複する記事があるかもしれません。
ページ内ジャンプ
- 栗山東照宮(栃木県日光市野門)
- 浄栄寺の山門「甘露門」(東京都新宿区市谷)
- 下蔵垣の古戦場跡の碑(兵庫県養父市大屋)
- 藤堂高虎ゆかりの郷記念碑(兵庫県養父市大屋)
- 馬琴終焉の地(東京都新宿区)
- 鎌倉橋の弾痕(東京都千代田区)
- 日比谷公園の石桝(東京都千代田区)
- 北条氏政・氏輝の墓(神奈川県小田原市)
- 四谷大木戸跡とその周辺史跡(東京都新宿区)
- 東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡(東京都板橋区)
- 代々木八幡山遺跡(東京都渋谷区)
- 高輪大木戸跡(東京都港区)
- 阪本天山屋敷跡(長野県伊那市高遠)
- 猿楽町住居跡公園(東京都渋谷区)
- 和泉町ポンプ所(東京都千代田区)
- 弥生式土器発掘ゆかりの地(東京都文京区)
- 本多作左衛門重次墳墓(茨城県取手市)
- 閘門橋(東京都葛飾区)と二郷半領猿又逃樋(埼玉県三郷市)
- 佐久間象山砲塾跡と渋沢栄一宅跡(東京都江東区永代)
- 高田馬場跡(東京都新宿区)
こんな山奥と家康に何の関係が!?栗山東照宮(栃木県日光市野門)
訪問日:2017-10-04
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#KuriyamaToshogu
場所はここ↓。
栃木県日光市野門 – OpenStreetMap
出張で、ひと仕事終わって移動中に、上司のはからいで寄ってもらった。 路線バスもないようなガチの山奥なので、免許を持ってない私には非常にありがたい。 (上司は東照宮に同行しなかった。タバコ休憩がしたかったらしい)。
上司もちゃんと来たことはないらしく
「このあたりに家康の里という看板があるんですよ。栗山東照宮だそうです。寄ってみますか~?」
という前情報だった。
家康の里。え?こんな、奥日光の山奥で?こんなところに家康が来てたっけ?
上杉征伐に北上した後、光成謀反の報を受けて小山評定を行った小山は栃木県だったはずだけど、ずっと南だよね?
あやしい……とてつもなく、あやしい……。強く興味がわいたので、返事二つで連れて行ってもらったのだ。
東照宮という言葉から抱くイメージとは裏腹に、境内ひとつに小さな社があるだけの、村のちいさな神社だった。
しかし、説明板には、この地がなぜ家康の里なのか、いわれが説明してあった。
野門村。実は、平氏の落ち武者の隠れ里のひとつだという。この地に、家康が存命中に足を踏み入れたことはない。
それから約270年後の幕末。戊辰戦争。
こんな寒村が交通の要衝ってことはなかったので、会津藩の武士が駐留するということはなかった。
そうはいっても、ここから会津藩への細い山道はあるにはあったので、幕府方の会津藩は、野門村の村民を徴用し、新政府軍の侵攻に抵抗するよう命じたのである。
長州が民兵なら会津も民兵だ!これで互角だ!(そうか?)
実際、戦闘は発生し二名の負傷者があったそうだ。
さて、そんな重い任務を命じるのだから、精神的後ろ盾がなくてはならない。
そこで会津藩は日光東照宮から家康の坐像と日光三社権現坐像をひそかに持ち出し野門村へ奉持(ささげもつことの意)した。
…え?それってつまり泥棒じゃねーの?
……と思う気持ちもうやむやに、野門村の小栗久右衛門に与え、アーンド会津主松平容保のお墨付きも与え、さらに象牙の白笏を授けて「守護職」を命じたのである。
「おまえたちには家康公がついてるぞ!だから、おそれずにがんばれ!」
というわけだ。
平氏の子孫なのに。
徳川は源氏(自称)なのに。
盗み出したご神体の加護のもと。
もう、むちゃくちゃでござりまするがな。
その後、盗み出されたご神体の坐像たちは返却されずに小栗家が所持し続けた。そして、この事実を広く世に伝えんと(別の言い方をすると、村の観光PRに利用しようと)昭和45年に「栗山東照宮奉安殿」を建立して「家康の里」を名乗り、今にいたるというわけだ。
坐像は、日光市の指定文化財になっている。ただし、私がいったときは見ることはかなわなかった。
御開帳は、例年10月第四日曜日だということだ。
>東照公坐像 日光三社権現坐像 日光市の指定文化財|BUNKAZAI.EDU.NIKKOCITY.JP
http://bunkazai.edu.nikkocity.jp/list_d.html?0:207
浄栄寺の山門「甘露門」(東京都新宿区)
訪問日:2013-11-26
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#Kanromon
東京都新宿区市谷薬王寺町27 – OpenStreetMap
様式にくわしくないから、正直、16cから19cまで、私にはぜんぜんわからない。
せいぜい、薬医門だということくらいは説明がなくてもわかる程度。
正直、お寺の門として、そこまで珍しいものかというと……である。民家ならいあざしらず、寺社建築で江戸時代以前って、そんなに少ないわけではない。
この門を文化財たらしめているのは、浄栄寺が太田南畝ゆかりの寺であるという点だろう。
若干の齟齬は、太田南畝は浄栄寺そのものを別名として「甘露門」と呼んだのであって、この門にそう名付けたわけではないということ。
甘露とは、仏の教えの別名だ。そのままの意味で採れば、自分たちの会合の会場を「仏の教えの入口」と呼んだのだ。たわいのない、太田南畝にしてはひねりのない名称で、わざわざこんな別名をつける必要がどこに?と首をひねりたくなる。
ここで、思い起こされるのは蛮社の獄で弾圧された小歯科医、じゃなかった、尚歯会。これも「歯を大事にする会」の意味で、健康クラブみたいなあたりさわりのない名前だ。
実態は蘭学情報交換の会だったが(吉宗以降ある程度、解禁されたとはいえ)、蘭学の研究は幕府にとって好ましからざるものだった。 そこで、表向きは健康クラブを称して、高齢の学者の会を装ったのだ。
甘露門という名称も、この線で考えられるのではないか。 一見すると当たり障りのない、隠れ蓑の名前だったのではないか。 太田南畝は尚歯会よりひと世代上だけど、逆に言えばひと世代しか違わない。
「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」
の作者とみなされて、南畝は釈明をよぎなくされた件がある。日頃から、御政道批判の中心に近い人物とみなされていたのだ。
中国史は唐の時代。甘露の変という事件があったという。
>甘露の変 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2%E3%81%AE%E5%A4%89
唐朝の 17 代皇帝が、台頭してきた宦官を誅殺しようとし、失敗して逆に宦官による政治支配が絶対的なものになった事件だ。
宦官が台頭したのは、彼らが軍事権をもたない文官(文吏)であったからだ。軍事力をもたないがゆえに、皇帝から重用され、いつのまにか、彼ら抜きに政治が立ち行かなくなったのだ。
そして、太田南畝は漢文の造詣が深い教養人であり、徹底して文官だった。
下蔵垣の古戦場跡の碑(兵庫県養父市大屋)
訪問日:2017-08-11
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#Shimokuragaki
藤堂高虎の出世のあしがかりになった地、兵庫県養父市大屋をめぐるの旅の続き。栃尾氏館を見た。田和城を見た。ゆかりの地記念碑を見た。加保城は見なかった。そもそも存在を把握してなかった。 大杉城(伝・藤堂高虎屋敷跡)では一歩手前で夕立になったのであきらめて撤退した。
そして、雨が上がったので、古戦場あとと伝わる蔵垣の地にやってきた。ここまで、バスのタイミングが合わず、徒歩である。
バイパスを進むと、大きなカイコのオブジェがあって、おもわずぎょっとする。
近くにある、上垣守国養蚕記念館と、かいこの里の看板だ。
江戸時代の後期、養蚕先進国の福島から質の良い蚕種を持ち帰り、但馬に蚕の品種改良に努めた上垣守国の記念館。彼は養蚕のノウハウを書物に記し出版するという偉業をなしとげた。著作権の概念が今ほどうるさくなかった明治時代、その内容は翻訳され海外で絶賛された。
……という、狭い日本の狭い但馬の、日本史上たいして重要でもない古戦場よりもはるかに世界史に与えた影響の大きい上垣守国の記念館なのだけど、時間が無いのでスルーした :-P
>養蚕の神様 上垣守国/養父市
http://www.city.yabu.hyogo.jp/3471.htm
ちなみに上垣さんのご子孫だと思うが、このあたりで但馬牛やら豚やらアイガモ農法やらと、肉からコメまで手広く生産なされているようで、大屋では
「上垣さんちの〇〇」
で通用する、ちょっとしたブランドになっていた。
広く流布している伝承によれば、藤堂高虎と土豪・栃尾祐善の連合軍は押し寄せた小代勢を、加保城や田和城や栃尾城館などで迎え撃った。激戦の末、形成は逆転し、小代勢は撤退した。藤堂勢は追撃し、この蔵垣の地で皆殺しにしたのだという。
これらの水路が当時からあったかどうかは私にはわからないが、棚田に伴う水路は当然にいくつかあっただろう。それらは、小代勢の撤退を難しくしたにちがいない。
そしてもちろん、大屋谷を形成する大屋川を渡らないと、小代谷には帰れない。
そんな古戦場を記念して、下蔵垣の地、県道48号沿いに、古戦場の碑がある。
これはストリートビューで確認できるので、事前に調べて置けば、迷うことはない。
で、この蔵垣古戦場跡の碑から南に行ったところに、がんどう塚なる、小代勢を指揮した小代大膳(通称おじろがんどう)を祀ったか埋めたかした、がんどう塚があるらしい。
らしいというのは、すっかり存在を忘れてスルーしてしまったからだ。
「山手に塚あり」。俺はいったい何を見ているのか(見ていない。読んでいない)
ところで、秀吉の但馬侵攻時にはほかにも「がんどう」なる人物が出てくる。堀尾吉晴に倒されたという、「射添強盗」(いそうがんどう)である。
この、射添というのは兵庫県美方郡香美町村岡にある地名で、簡単にいうと小代谷の隣村くらいの場所にある。
とすると、「射添強盗」≒「小代強盗」の可能性が高い。
いったい、小代がんどうを倒したのは藤堂高虎なのか堀尾吉晴なのか。このへん、ぐちゃぐちゃで、よくわからんのである。
いちばんありそうなのは、射添強盗、小代強盗は小代谷に逃げ込み野盗と化した太田垣氏の家臣たちの集団を指していて、そのうちの一人が小代大膳だったということではないだろうか。
藤堂高虎ゆかりの郷記念碑(兵庫県養父市大屋)
訪問日:2017-08-11
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#TodoKaboMonument
そもそも、2017 の夏旅行で養父市大屋に行ったのは、大屋のあゆ公園というレジャースポットに藤堂高虎ゆかりの記念碑があると知ったからだった。
>まちの文化財(18) 加保村の藤堂高虎/養父市
http://www.city.yabu.hyogo.jp/3489.htm
調べていくうちに、べつにこの碑がある場所に、なにか遺構が残ってるわけでもなく、単に公園だから記念碑が作られた程度のものとはわかった。史跡として重要そうな場所ではない。
が、田和城の対岸だから、そこが合戦地だったことは濃厚だ。それに田和城からすぐ近くなんだから、あえて見逃す手もなかった。
この日、夕方に一時雨と言う予報が、いよいよ真になろうとしていた。
字が読めるよう、明度を調整してみた。左右の低い石柱は、単なるデザイン上の都合で付いたオブジェらしい
先述した養父市の記事では4mの杉の丸太とあったが、石柱だったので、やや戸惑った。探したが杉の丸太は見当たらず、碑に刻まれた文字は同じだったので、おそらく風雨に弱い丸太から石碑に変えられたのだろう。
あゆ公園の駐車場。加保・蔵垣野合戦地の加保側。なるほど合戦に最適だ(?)
これでおおむね以上であり、上のプレートの内容をも少しくわしく書いた説明板があったけれども、屋敷跡だとかそういうものは、やっぱりないのであった。
そして、藤堂高虎が籠って戦ったであろう加保城は、このあゆ公園から 400m ほど南西、市立大屋中学校の裏山にあった。
このとき私はその情報を知らず、帰宅後に知り、
「もう一度、あの、アクセスの悪い所へ行かねばならんのか……?」
と、頭を悩ませている。
もっとも、二度、三度、と行きたくなるほど素敵な土地ではあった。
馬琴終焉の地(東京都新宿区)
訪問日:2017-09-02
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#bakins_demise_place
本人が名乗ったこともなく、通称としても馬琴存命中は使われていなかった『滝沢馬琴』なる珍妙な合成名を使うのはやめようってのがここ20年の流れだと思うんですけどね。曲亭馬琴(=くるわでまこと。一夜の夫婦ごっこに興じる、遊郭と言う偽りの世界で、まことを貫く野暮な奴という意味)の洒落が成立しなくなるわけだし。平成25年にもなって、なあ……
著作者として最も使われた筆名は曲亭馬琴、当時の人口に膾炙していたのも、その名前。 なぜ、それが滝沢馬琴に変えられたかというと、曲亭がすなわち遊郭を意味するので、教育上よろしくないって配慮があったのだろうと言われている。
でもいまどき、曲亭で遊郭を連想しないしねえ。そもそも
「パパ、ゆうかくってなに?」
てなもんだろという。
なるほど!『ラーメン発見伝』にかかってるわけだな!(←ちがう)
鎌倉橋の弾痕(東京都千代田区)
訪問日:2016-06-05
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#kamakurabashi
しかし、首都高なんて遮るものがなかった 1944 年の 11 月、ここには機関銃の弾が降り注いだ。その傷痕は、橋のコンクリに今も残っている。
まあ、つまり、なんだ。いまこの項を書いている 8/9 は長崎に原爆が投下された日だし、終戦記念日も近いことだし、戦争の残照でも貼って、思いを馳せようかという。
ぶっちゃけ、日本全国、空襲の痕、機関銃の弾痕はけっこう残ってて、珍しいものではない。
ただ、あちらさんとて仕事は仕事。ただ遊びで橋のコンクリに向けて機関銃を撃つわけもなく、橋のうえにコンクリじゃない血の通った二本足で歩く存在がいたというわけだ。そこまで想像すると、やっぱり、ふーん、以上のなんともいえぬ気持が沸いてくるね。
コンクリートとは、セメントに砂や砂利などを混ぜたものだ。この、混ぜる砂や砂利を、骨材という。
弾痕のよってあらわになった骨材の、石英だの長石だのの白さ。これが戦争の痕跡だと思うと、その名の通り骨のようにも見えるし、死体に沸くウジのようにも見える。
そんな、たわいないことをブログに書いて過ごせる日々が長く続いてほしいと、切に願う。
日比谷公園の石桝(東京都千代田区)
訪問日:2014-04-15
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#hibiyaishimasu
なんかコンクリ製の貯水槽(?)のわきに説明板があって、なんでやねんと思ったらコンクリ製でもないし江戸時代の遺物だった。
型にコンクリを流し込んで作ったように見えるが、巨石をこの形にくりぬいたものなのだそうだ。すごい!すごいぞ江戸時代!ヒューマンパワーの無駄使い!
つまりこれは江戸の上水道の溜水桝で、当時はこういうものが江戸市内の要所にいくつかあった。そして木の樋で江戸市内の各所に水が送られていったのだという。
さすがに樋菅を石でくりぬいて作ろうとは思わなかったらしい。よくわからないのは、なぜ瓦の技術を使って管を作ろうとしなかったのか。試みても精度や強度が足りなかったのか、それとも思いつかなかったのか。
この写真を撮った時は江戸の水道にさして興味もなかったし、造形的にも面白くなかったので、さほど感銘は受けなかった。 いまは、ちょっとは興味があるので、なんでも撮っておくものだなあ、と過去の自分に感謝している。
北条氏政・氏輝の墓所(神奈川県小田原市)
訪問日:2012-12-26
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#hojos_tombs
18きっぷで高知城に行ったら天守と御殿は休館日だった | 桝席ブログ…の出だし、ムーンライトながらを待つために小田原に着いたあと。
電車の時刻まで数時間あったので、小田原城までは行かないが周辺の史跡などを回ることにした。いや逆だ、周辺の史跡を回るために数時間も早く小田原に着くよう出発したのだ。
写真中央の二つの小さな五輪塔。右が氏政で左が氏輝の墓だそうだ。
夜なので写真が暗くてわかりにくいが、墓の前に切腹するときに座った石(と伝わる)がある。写真右手の大きな五輪塔は氏政夫人の墓だと伝わるが確証はない。そもそも、この墓所自体、すべて江戸時代になってから整備されたものらしい。
2017 になって写真を整理しようとしたら、これが何かわからなくなってた。
ネットで調べても判明しなかったので、特に重要なものではないのだろうと思うが。まあ、そういうこともままある。
ここを見たあと、
「やっぱ日没後じゃ史跡めぐりしても(写真がアレなことになるので)つまらんな。駅でダラダラしよう」
と戻ったものの、下着類をまとめていた袋をまるっとカバンに入れ忘れたことに気づき、小田原市のドンキまで走ることになった。
氏政・氏輝の墓の前で敬虔な気持ちになるでもなく、
「ふーん(写真パシャー)」
したバチであろう(と、雑なまとめ)。
四谷大木戸跡とその周辺史跡(東京都新宿区)
訪問日:2013-11-26
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#yotsuyaokido
高輪大木戸跡(東京都港区)の説明板には、>四谷大木戸はすでにその痕跡を止めていない
とあった。そう、まったくといっていいほど痕跡はなく、いまや、あるのは記念碑のみだ。
しかも、実際に四谷大木戸があった場所から、西に 80m ほどずれた場所にある。
実際の四谷大木戸跡は、現在の四谷四丁目交差点にあった。史跡指定されているのも、その場所であって、この碑ではない。 碑は、玉川上水水番所跡に立っている。
これは実に適切な判断だ。四谷四丁目交差点のような交通量の多い五差路のド真ん中に碑と説明板を設置するわけにもいくまい。欧州ではラウンドアバウトが流行っているらしいが。
交差点の中心じゃなくても、分岐の境目に説明板や碑を置くのも考え物だ。事故や渋滞の元となる。交差点にあった碑や説明板で急停止してヒヤリハットを何度も経験した私がソースである。ダライアスで言ったらAとBを選べないまま激突死するようなアホの子も同然。自慢することじゃない。止まるときは周囲に注意してからにしよう。
さて、玉川上水水番所跡。こちらも史跡だ。有名な玉川上水は、この四谷大木戸のあたりで暗渠になった。したがって、ここに管理施設があったのだ。ゴミだのなんだので水道を汚すやつがいないか見張る。暗渠が詰まらないよう定期的に掃除する。江戸の生活用水を守る、重要な仕事だ。
そのあらましは明治時代に石碑に刻まれた。
この碑は新宿通りに面していて、高さも4mを超える大きな碑なので、目にしたことのある人も多いのではないだろうか。私も何度か目にしていた。
そして戦前の石碑がたいがいそうであるように、篆刻で書かれた表題と堅苦しい文体に怖れをなして、何の碑かもわからないまま、読まずに通り過ぎたのではないだろうか?私は何度かそうした。
これが玉川上水のあらましを記した碑だとわかったあとも、結局は刻文を読んだりはしなかった。そんなもんだ。明治の人、すまんのうすまんのう。
この、水道碑記があるからだろうか。ここが玉川上水水番所跡だと示す碑は無かった(もしかしたら私が見逃しただけかもしれないが、とりあえず碑はないものとして話を続けよう)。
先ほどの四谷大木戸跡碑をもう一度見てほしい。碑にしては妙な形だと思わないだろうか?うん。おもわないかもしれないが、ここはひとつ空気を読んで、思うと言ってほしい。
え?思うって?そうだろうそうだろう。実は、この四谷大木戸跡碑、玉川上水の暗渠に使われた石樋をリサイクルした碑なのだ!どうだ驚いたかべらぼうめ!
ああ、驚いた腰が抜けただって?そうだろう、そうだろう。
というわけで、四谷大木戸跡碑は同時に玉川上水の遺構という、実にお得な石碑だという話である。
余談:Google Map を見ると、四谷大木戸跡碑のある四谷区民ホールに「旧四谷区役所跡」と表示されるので、もしかしたら獲得経験値は4にできるのかもしれない。
さて、ついでに、史跡をもうひとつ。まとめた理由は、玉川上水水番所跡からほど近く、私が同じ日に訪問したからというだけだ。
新宿一丁目の花園公園の一角に碑と説明板がある。写真のじいさんが熱心に説明に読みふけり、なかなかどいてくれなかった。そんなことばかり記憶に残るね。
東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡(東京都板橋区)
訪問日:2013-09-28
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#nizou
この、建物の正面を切り取って寝かせてテラスにしたようなものは何だろうか?
正解は”建物の正面を切り取って寝かせてテラスにしたもの”だ。
かつてこのあたり…板橋区加賀一丁目・二丁目に、東京第二陸軍造兵廠の板橋製造所があった(そして、加賀という地名に現れている通り江戸時代には加賀藩の下屋敷があった)。通称で二造と呼ばれていたそうだ。
二造は火薬製造所であったようだ。したがってここにはレンガ造りの耐火倉庫がいくつもあった。
戦後、施設は払い下げられ、学校や工場や研究所に使われたものの、結局は解体された。貴重な近代建築遺産として、一部をモニュメントとして残す形で……というわけだ。
残されたのは、正面壁の、さらに 8% とか、それだけとなった。しかも直立させず地面に寝かせて。こんな状態で残すくらいならとも思うし、でもやっぱり一部だけでも残って良かったとも思う。難しいところだ。
……が、そう、嘆くこともない。二造があったということは、一造もあったということだ。そして、一造は本来の姿をおおむねとどめて今も残っている。そう、現在の北区中央図書館が、元・東京第一陸軍造兵廠の弾薬工場だ。
>中央図書館ご案内|東京都北区
http://www.city.kita.tokyo.jp/chuo-tosho/bunka/toshokan/riyoannai/ichiran/chuo/annai.html
現在の北区中央図書館赤レンガ倉庫を見ると、モニュメントとして一部が残された二造と、ほぼ同じ建物に見える。クローンと言っていいほど似通っている。倉庫なんてそんなものだ。
一造が残っているから二造を壊したのか、それとも関係なく北区と板橋区の意識の差があらわれたのか、それは私にはわからない。
とはいえ、ドローンでもなきゃ難しい角度から撮れるのだから、”建物の正面を切り取って寝かせてテラス化”も、そんなに悪くないのかもしれない。
代々木八幡山遺跡(東京都渋谷区)
訪問日:2013-08-13
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#yyg8man_ruin
だんだんわかってきたぞ。復元竪穴式住居、あんがい、多いな?日本。
説明板を撮り忘れたらしい。そもそも説明板が無かった可能性もあるが、まず、見逃しだろう。なので、区のサイトから引用しよう。
代々木八幡遺跡 – 渋谷区/区指定文化財
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/town/kubunka.html#yoyogi8
代々木5-1-1 代々木八幡宮
標高約32mにある代々木八幡宮の境内を昭和25年に調査したところ、多数の遺物とともに住居跡とその中に掘られた柱跡が発見されました。
同時に出土した加曾利E式土器から、この住居には、約4500年前の人が住んでいたと推測されます。
現在、この住居跡には、当時の古代住居を復原したものが展示されています。
金網の柵は、猿楽町住居跡公園(東京都渋谷区) の復元住居が消失した(放火の可能性が高いと言われている)の反省からか。残念だが仕方がない。
最近、復元竪穴式住居というものは、意外とあちこちにあるということがわかってきた。
が、それらがどの程度、史実に忠実な復元かというと、正直、あんまり……ということもわかってきた。 構造材の固定にボルトを使ってるような復元竪穴式住居すらあった。もはや外見さえそれっぽければOKの世界だ。
これ、どうみても300年前の農家の屋根部分の工法で竪穴式住居を作りましたってやつじゃないか。実際の 4500 年前の縄文式竪穴住居が、こんな風で、江戸時代のかやぶき屋根そっくりの立派な棟を持っていたとは、私には思えない。
鉄器も銅器もない時代だ。屋根材のカヤの収穫は小さな石包丁だ。おそらく、こんな厚みのある屋根ではなく「やや強い雨」程度で雨漏りするような薄い屋根だったのではないか。ガンギという屋根材を押し込むための精巧な道具があったのかどうか。押し込む必要があるほどカヤを調達できたのだろうか。
縄文時代に、棟を抑えるためのエビを作るまでの技術の進歩があっただろうか。屋根受けを杉皮で?黒曜石の小さなナイフや斧で杉皮を剥いだ?信じがたい。
ビジュアルとして、登呂遺跡のメージが強烈に刷り込まれてるから、しかたない部分、あるけどね……
高輪大木戸跡(東京都港区)
訪問日:2013-03-17
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#takanawa_okido
実質的には、江戸時代というのは藩という小国家の集合した共和制だ。実質的には、と書いた。もちろん建前上は以下略。
それぞれの藩は、もちろん徳川領も、実質的には独立国であるから、国境を越えて怪しい外国人(ここで言う外国人とは相模人や武蔵人や下総人のことだ)が入ってこないように警戒するわけだ。物資の運搬に適した大きな通りでは特に警戒が必要となる。したがって、江戸の国境の要所に石垣を築き、巨大な門(木戸)を設け、夜間の通行を封じたのだった。
江戸の外郭の残骸はお茶の水や飯田橋や市ヶ谷や赤坂やなにかかにやと、わりとあちこちに残っている。
歴史やお城に興味がなくても東京に住んでたらしょっちゅう目にしている可能性が高い。歴史やお城に興味を持つと
「お!」
と楽しめてブログのネタにもなって、大変おとくである。
ただし、大木戸の遺構としては、四谷大木戸はすでに跡形もなく、高輪大木戸は往時の姿をかろうじて留める、貴重な土木史跡だ。
東京の地理に詳しくない人に説明しよう。高輪とは皇居の南、つまり東京駅からだいぶ南、品川駅のちょっと北のところにある。
高輪大木戸跡 – OpenStreetMap
だいぶ南というのがどれくらいかというと、つまり、東京駅から品川駅くらいまで南、だ。
1950 年くらいまでは、漁村の風景の広がっていた、つまり、今の光景からは信じがたいが東京が東京市だったころの、郊外だった。
説明板には、江戸時代後期には大木戸は廃止されたとあった。意外。明治を待たずしてか。
ガス灯の普及より早く大都会・江戸は眠らない物流を必要としていたのか。あるいは、徳川に木戸番を維持するような予算が無かったか。前者であろうと思う。中世とは人件費こそ安い時代だ。
高輪大木戸跡 – Wikipedia によると、伊能忠敬がこの高輪大木戸を全国測量の起点としたという。あんがい、こんなところがオーキド博士の名前の由来なのかもしれない。
阪本天山屋敷跡(長野県伊那市高遠)
訪問日:2010-04-08
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#sakamototenzan
2010 年に高遠城を見に行った時のもの。いま、古い写真の整理中なのだ。
ネットの情報によれば、井戸跡が残っているらしい。私は帰りがけにいかにも生活道らしい狭い歩道へ入り込んでみたら、説明板があったので、とりあえず撮ったというだけ。正確な場所は覚えていないが、高遠交番の裏だということ。
阪本天山は周発台という日本初の旋回砲台を発明した砲術家・学者。殖産や治水にも功績があった人らしい。失脚して蟄居を命じられているが、簡単に検索した限りでは失脚の理由はわからなかった。彼の砲術は辞書によっては、”西洋砲術に唯一、通用した和式砲術”などと書かれている。
>坂本天山(サカモトテンザン)とは – コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%A4%A9%E5%B1%B1-509203
残念ながら、ライフリングのある西洋の大砲と滑空砲のままだった日本の大砲では、射程が10倍以上ちがう。とてもじゃないけど「通用した」と言えるレベルだったとは思えない。距離が 100m 以下での砲撃戦ならば互角だったかもしれない。が、それは逆説的に、そんな特殊な状況を想定してやらないと互角にならないということだ。
旋回と仰角が自在に設定できる周発台が発明されたのが大砲の伝来から 200 年くらい後。 この事実が、日本の大砲にとって、旋回や細やかな仰角設定を要しない、つまりそれが活用できるほどの射程がなかったことを物語っている。
でもまあ、野暮なことはいいなさんな、てことかもしらんね。
書けば高遠藩の恥になるから婉曲に表現されてるが、結局のところ阪本天山は強引に隠居させられて、蟄居が解けた後もなんらかの指導者として高遠藩から雇用されたりはせず、別天地で活躍したということだ。
周発台は高遠町歴史博物館にあるらしい。私は見ていない。私は何しに高遠城まで行ったのか。お城めぐり初期によくあることだが、私もこの時期、天守風のなんちゃってコンクリ建造物を嫌悪していたので、入りたいと思わなかったのだ。
巨大な空堀や藩校や高遠閣など、他にみるべきものがたくさんあった。時間が惜しかった。……と思って、絵島囲み屋敷を見逃したのだから、浅はかだったというほかない。
もう一度、高遠城に行く理由ができてよかったじゃないか、自分。そのもう一度がいつになるかわからんけど。
なお、阪本天山屋敷跡はポータルになっている。
阪本天山屋敷跡 Portal in Takatō Nagano Japan | Ingress Intel
https://ingress-intel.com/portal/%E9%98%AA%E6%9C%AC%E5%A4%A9%E5%B1%B1%E5%B1%8B%E6%95%B7%E8%B7%A1/
猿楽町住居跡公園(東京都渋谷区)
訪問日:2013-03-17
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#sarugakucho_ancient_ruin
かつてここには古代人の住居があり、消え、復元され、焼失した。
つまり、ここで古代人の生活の痕跡が見つかったわけだ。縄文人や弥生人の土器やらなにやらの破片が。
それを知った地元住人は、これは目玉になるわい…と、ほくそえんだのだろうか。古代人の住居を作り、猿楽町住居跡公園を作った。
しかし、二年後には焼失した。軽く検索してみたら、放火という(当時の)噂を聞いたというページがあったが、伝聞は伝聞だ。公式には失火か放火かは書いていない。
だが。
発掘調査では、他の地域で見られる住居跡よりも大型で珍しいものもあったという。
しかし、現在残る砂を抜かれた砂場のような竪穴を見ると、とても、そのような巨大な弥生式住居が復元されていたようには思えない。むしろ、縄文的な柱一本の、我々が古代人の住居と聞いて真っ先に想像するステレオタイプなやつがあったのではないかと……
ネットでは昭和の写真が見つからなかったので、好き勝手にほざいている私。
そんなことを思ったのも、未練がましく展示してある復元のつもりらしい民具を見たからだ。
弥生時代に、こんな精度のたかい木製食器があるかい。綺麗に整った刃の鍬があるかい。先割れ刃の備中鍬があるかい。柄を自然木にすれば古代の道具になるわけじゃねえぞ。古代と中世をごっちゃにすんない。古いもんはみんな同じだと思いやがってよう。
というわけで、トホホな公園としてぶらっと通り過ぎるぶんには、なかなか悪くない史跡だと思うわけです。
なんちゅーか、古代より昭和について考えてしまう、そういう史跡公園でした。
和泉町ポンプ所(東京都千代田区)
訪問日:2013-02-24
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#izumipump
たまたま通りがかって、
「お!赤レンガやんけ!」
と反応し(条件反射)、とりあえず写真は撮ったどー、のパターン。
関東大震災を耐え抜いた、大正11年に建てられた鉄筋コンクリートのポンプ所だ。
古い建物であるが、2016 年9月現在、行政からの史跡認定、文化財指定はされてないようだ。追記:2023-06-14……解体が決まり2023-05-29より解体工事が始まりました。まあ、ポンプ所としての稼働が1922でも、建物は途中で立て直して外観だけレンガ張りとかでしたからね。
ポンプ所。あたりまえだが、下水は重力を利用して高い方から低い方へ流している。自然の摂理に反するような無駄なことはしない。
したがって、下水は下流の方ほど低く(深く)なっていく。当然、そのままでは処理場などに送れないので、ところどころにポンプ所を設置して、くみ上げるというわけだ。
ちなみに、現役で働いている。見学施設ではないので、中に入ってポンプを見ることはできなかった。
ポンプはさすがに当時のままではあるまいが。
え?鉄筋コンクリート?レンガ造りじゃないの? ……そう、建物は古くなっったのでレンガ貼りに外観補修されたらしい。
周囲に本物のレンガ塀が残っていたから、建物の外観を合わせたのか。
となると、タイルが貼られる前の状態を見たいものだけど、残念ながらネットの上では見つけられなかった。
>一般社団法人 千代田区観光協会 > 観る > 歴史的建造物 > 和泉町ポンプ所
http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/1400/Default.aspx
神田和泉町のランドマーク的存在でありながら、都指定文化財も都市景観重要建築物も受けていないのは、たまたまなのか。あるいはレンガ風タイルによる外観補修が理由で低評価を食らってしまったのか。
私も、どちらかといえば、そういうフェイク的な外観補修は好きじゃない。が、通りすがりにレンガっぽいのが見えなかったら、はたして立ち止まって近づいて鑑賞しただろうか?とも思う。いたしかゆしだ。
ましてや、和泉町ポンプ所は現役のポンプ所だ。そこで働く人たちが、小奇麗な外観の建物で働きたい。だから予算の範囲内で目的に合うよう外観補修する……というのを、止めることはできない。
びょーんびょーん。
弥生式土器発掘ゆかりの地(東京都文京区)
訪問日:2013-02-24
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#yayoishikidoki
【 弥生式土器発掘ゆかりの地 】
文京区、根津へ、ヘナヘナ迷い込んだあたり。
「そ-なのかー」
と空虚な感想以外、なにも出てこなかった。無。びっくりするくらい、無。
「おおお、ここがあの、教科書に載った弥生式土器の……」
とか、そういう気持ちが一切わいてこないという。
それが技術的にひとつのターニング・ポイントであったことは疑いようがないけれど、変で不便そうでオリジナリティだけはやたらめったある縄文式土器にくらべて、味も素っ気もなくて、つまらんもんな>弥生式土器。
「薄い!軽い!無駄がない!」
という 2000年前のモダン・デザイン。
あれかね。バウハウスは実は間違っていたということで、ひとつ(そんな!)
そもそも、弥生という地名は明治維新後の地名だという。縄文時代は土器に縄の文があったからでわかりやすい。しかし弥生時代は、最初に土器が発見されたのが東京都の弥生だった、というだけであって、名前と内容が結びつきにくい。土器から縄の文様が消えたのだから『つるぺた土器』だの『つるぺた時代』だのと呼べばよかったのだ。
しかし、言ってもはじまらない。土器の総称は地名からとられ、地名は水戸斉昭の歌碑からとられた。彼は、この地にあった水戸藩の江戸中屋敷に石碑を立て、
ことし文政十余り一とせといふ年の やよいの十日 さきみだるさくらがもとに かくはかきつくこそ
名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなきはなの影かな
と彫ったのである。万葉や平安の時代の有名な和歌ではない。水戸徳川家の先祖の詠んだ和歌でもない。
斉昭が!本人が!自分の詠んだ和歌を!わざわざ石碑にした!…のだ。
書画の自画自賛は珍しくなかった時代だけど、さすがに自分の和歌を自分で碑にしちゃうようなお茶目さんは江戸時代でも珍しかったのではなかろうか。
だが、後世に伝わる斉昭の人柄を知れば、いかにもそういうことをやりそうな人なのだ。草を禁じえない。
ちなみに、和歌の意味は、私にはよくわからなかった。
そして、「弥生」は和歌の部分に入っていないのを知り、どういうこっちゃねん?とぼやく私。 なにも、「この和歌は何年の何月に詠みました」の部分から、地名をとらなくてもよさそうなもんだが。
すみからすみまで「御一新」でなければならぬという明治政府の空回りが見て取れるようだ。
うん、とくに何も感じない史跡でも、話を膨らませようと思えば、なんとかなるもんだね。
本多作左衛門重次墳墓(茨城県取手市)
訪問日:2016-09-01
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#onisakuza
まだ朝日がまぶしい早朝に訪問。運よく迷わずにすんだけど、取手市のページにある Google Map 上の指定は 20m ばかし間違っていた(2016-09-11 時点で確認)し、案内板はあるのだけど、目立たず、しかも UI が悪くてかえって迷いかねない、あまりよくない案内板だった。
AM 6:25。お日様は顔を出したばかり。逆光すなわちバックライト・ディスプレイ イン リアルワールド。
本多重次 – Wikipedia。通称、鬼作左。ウィキペディアでは通称の由来を剛邁で怒りやすいので
なんて、ただの短気な脳筋みたいに書いてて、いかがなものかという。
当時の俗謡に
「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」
とあるので、奉行としての振る舞いから鬼と呼ばれたのかもしれない。
いやいや、そうではなくて、すでに鬼と呼ばれるほど武勇に秀でていたからアダ名が鬼になり、そこから俗謡が生まれたのだ、とも考えられる。
まあ、アダ名なんてものはひょんなことから決まるものだから、由来を気にしてもしかたあるまい。
「鬼武蔵(森長可)」「鬼柴田(柴田勝家)」「鬼五郎左(丹羽長秀)」あたりを見て、うちにも鬼が欲しいなァと思った家康が
「よし、作左衛門。お前は今日から鬼作左だ!」
と、ウルフ高橋みたいな決まり方をしなかったと、誰に言えようかいや誰も言えまい。言えまいと言い切れるだろうかいや言い切れまい。
なんでわざわざ、ここへ寄ったかというと、それはまあ単なる寄り道なのだけど。
一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく
原文ママだとこうなるらしい(本多重次 – Wikipedia)。一筆啓上で始まる、一般に膾炙している文とは、だいぶ印象が変わってしまう)。この、日本一短い手紙で有名な、お仙が、のちの初代丸岡藩藩主の本多成重。
本多成重が丸岡城の改築その他に、なにか関与したということはないのだけど、ともかく藩祖である。一筆啓上と言えば丸岡藩。丸岡藩と言えば現存十二天守のひとつ丸岡城。
とすれば、本多作左衛門重次墳墓は丸岡城の関連史跡ではないと、誰に言えようかいや誰も言えまい。言えまいと言い切れるだろうかいや言い切れまい。
……程度のこじつけで、いちおう城クラスタの人間として見ておこうかと立ち寄った次第。
昭和九年。1934 年。この史跡を示す石柱自体が、あと 20 年もすりゃ 100 歳になるというね。
閘門橋(東京都葛飾区)と二郷半領猿又逃樋(埼玉県三郷市)
訪問日:2016-08-30
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#koumonbashi
こういうものがあるとは知らずに、通りがかりました。おっ!と思ったらすぐに止まって見物できるのがチャリ旅行の良いところ。
閘門橋。もともとの名は二郷半領猿又閘門。閘門というからには、つまり、水位を調整するロックゲートだったわけですな。
明治 42 年に完成。1980 年に大場川水門が完成し、車道橋としても併走する葛見橋ができたので本来の役目を終えた。現在は歩行者・自転車用橋として利用されている、と。
土木学会の選奨土木遺産になっている。
説明版によると、都内でも貴重なレンガアーチ橋だとのこと。銅板鋳造レリーフと思われる説明文の数文字が、あとからむりやり削って消した跡があったので、 おそらく最初は「都内唯一の」などと書いていたんだろうなと思った。
どうも葛飾区、水元公園の説明版にも”東京都でただひとつの「水郷」と呼ぶにふさわしい公園”と書いちゃったり、大丈夫か?そんなこと言って。いろいろカドが立つぞ……と心配せずにいられない。
で、この閘門橋。上流側と下流側でアーチの数が違う、という面白構造があると知ったのは、帰宅してこのエントリを書くために先述の土木学会のページを読んでから。
こんなブロンズ像なんて要らないから、もっと説明板を、さあ……。
しかし、ものは言いようというか、説明版には、
改修にあたって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました
なんて書いてるんだから。ンモー。
なんなの?居直り?全部壊さなかっただけマシだと思え?むしろアーチ部分は手をつけなかった俺をもっとほめろ、みたいな?
史跡は現状維持が基本原則。手を入れるのは損壊の怖れがある部分や事故の起こりかねない部分だけが望ましいってことを、義務教育で教えてほしい。
閘門と聞いて、見たいなあと思う部分は当然ながら、その、かつての存在理由である閘門の閘門たる部分なのだ。
これこれ。こういう部分。色々言ったけど、ここが無事なら、まあ、許す。
ここに、かつては鉄だか銅だかの分厚い、水をせき止めるための設備があったのだなあ。よくわからないモニュメントなんかより往時の古写真でも飾っててくれたほうがよっぽど嬉しい。古写真がなかったのかもしれんけどね。
ところで、ここから20メートルも離れてない場所に、関連する土木遺産がある。
これだ。二郷半領猿又逃樋。その名の通り、増水時の被害を最小限に食い止めるための余水吐だ。
二郷半領猿又閘門が完成したすぐあと、木製の逃樋が大破してしまったため、こちらもレンガアーチで作り直され、大正元年に完成したらしい。
こちらのサイトに詳しい。
>二郷半領用水逃樋
http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/nigouhan1/index.html
ある意味、閘門とちがって、本来の役目を現役で果たしているとも言えるのかもしれない。
ただ、ひとつ、問題がある。
閘門と逃樋、距離は 20m も離れてないのに、閘門は葛飾区で逃樋は埼玉県三郷市なのだ。
したがって、葛飾区の閘門の説明版に、
「すぐ近くに逃樋があるよ~」
なんて書かれてないし、三郷市の逃樋の説明版に
「すぐ近くに閘門があるよ~」
なんてことも書かれてないのだ。
縦割り行政のダークサイドでござった。
閘門橋 – OpenStreetMap
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.79503&mlon=139.85988#map=19/35.79503/139.85988
二郷半領猿又逃樋 – OpenStreetMap
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.79569&mlon=139.86021#map=19/35.79569/139.86021
佐久間象山砲塾跡と渋沢栄一宅跡(東京都江東区永代)
訪問日:2015-11-01
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#sakuma_and_shibusawa
永代一丁目と二丁目に分かれているが、水路をはさんで西と東。公園化されていて建物とかはなかったと思う。2015-10-26
佐久間象山砲塾跡(江東区永代1-14付近)と渋沢栄一宅跡(江東区永代2-37) http://www.openstreetmap.org/#map=17/35.67457/139.79100
高田馬場跡(東京都新宿区)
訪問日:2015-10-19
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#takadanobabaato
現在は、そこそこ年季の入った中規模マンションが林立している。
馬場跡マニア(いるのか?そんなマニア)なら、かつての馬場の痕跡を発見できるのかもしれないが、私には無理。看板から往時に心を馳せるのみ也。
高田馬場跡(東京都新宿区)- OpenStreetMap http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.71008&mlon=139.71628#map=19/35.71008/139.71628