この記事は、単独で記事を立てるには短すぎる土木物件を紹介するための記事です。ときたま更新します。
この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。
訪問時点で、何らかの史跡指定や歴史的建造物の指定がなされていないものを主として扱います。 歴史的な土木遺構は、たいてい別の記事で扱うでしょう。
>単独記事を立てるまでもない史跡の訪問ログ | 桝席ブログ
http://www.masuseki.com/wp/?p=28
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犬山の景観は守られたのか変えられたのか 犬山頭首工(愛知県犬山市)
訪問日:2017-08-13
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7882#inuyamatousuikou
鵜沼駅から犬山城に向かう場合、大雑把に言って、ふたつのルートがある。
つまり、犬山橋を渡って左岸を歩いて行くか、右岸を歩いて行って犬山頭首工ライン大橋を渡るか、である。
これの正解は「どっちも楽しめ」であって、行きに右岸を歩いたら帰りに左岸を楽しめばよいのだ。
が、中には帰りに鵜沼駅へ戻らず名鉄犬山駅に行く(あるいはその逆で名鉄犬山駅から犬山城を鑑賞したのち鵜沼駅へ向かう)という人もいるだろうから、強いて選ぶなら、右岸 + 犬山ライン大橋(犬山頭首工)を楽しむルートがお勧めだと申しあげておこう。
どっちが右岸でどっちが左岸かわからない人に説明すると、下流に向かって自分から見て右が右岸で左が左岸だ。なんでそんな説明するかって?そりゃもちろん、自分が間違えていたという苦い経験があるからですよ。
まず、川を防衛線にした城である以上、城を攻める敵方の目線で、対岸から城を見るのは基本だ。 だから、どうしたって右岸へは行きたい。
2010 年に初めて訪れたときは、そんな基本がわかってなかったから、木曽川を渡ったりしなかった。後悔したものである。
失敗したなら、やり直せばいい。今回、わたしはそうした。右岸も左岸も満喫した。
第二に、犬山頭首工ライン大橋のかかる犬山頭首工が、見どころたっぷり、考える要素たっぷりだからだ。
犬山頭首工。犬山城天守に登ればいやでも目に入る、木曽川をゆるくせき止めた堰堤とセットになった利水施設だ。
あなたは、頭首工が何かご存じだろうか。私は知らなかった。という以前に、この世に生を受けて初めて聞いた言葉だった。 ほかに材料もないので自分を基準にして、おそらく世のほとんどの人が頭首工とは何か知らないという前提で説明しよう。
水利施設・土木技術|川上頭首工
http://www.maff.go.jp/kyusyu/nn/new/17/gijyutu/gij03a.html
簡単に言えば、農業用水を得るための堰と水の取り込み口やら整備のためのあれやこれや工夫がいっぱい詰まった利水施設が頭首工ということだ。
水路の末端を手足に見立て、水の取り込み口を肝心かなめの頭や首に見立てたというわけだ。 「~工」で終わるのがなんだか不安になるが、人形細工、貝殻細工、などと同じ使い方の工(ただし読みは「コウ」)だ。日曜大工(動詞)で作ったものも日曜大工(名詞)と呼んだりするが、それに近いだろう。
単なる水門じゃなくて、いろいろな工夫や知恵が詰まった取水口である、ということだろう。
これは想像に過ぎないが、取水口の口をとって、頭首口にと名付けようとしたら、なんだか妖怪みたいな感じになってしまって、しかたなく「頭首工」に変えたのではないだろうか。もう一度言うが、想像だ。
こういう施設は橋が架かっていても管理者用の橋で一般人が利用できない場合が少なくないが、よろこばしいことに、この堰堤の上に架かる橋は、犬山ライン大橋という名前で、車道橋も人道橋も、一般人が通行ができる。
犬山城を撮るのにも良い場所なので、ぜひとも足を延ばすべき橋だ。
2017 年の落雷で破壊された鯱瓦が片方(左)、1ピクセル欠けている写真。
右岸にあった機械。なんだかわからない。そもそも、この時点で頭首工が何かわかってなかったのだから当然だ。
頭首工が何か調べた今、なんとなくの想像であるが、たまった土砂をなんとかするための機械だろうと思う。
これは渇水時にでも堰の下に水を流し、増水時には水が流れすぎないようにする、流量を調節するためのゲートであろう。
素人丸出しの感想で申し訳ないのだけど、こういう監視塔って、橋脚ごとに必要なん?カメラとモニタじゃだめなん?停電とか非常の際の保険とかなんだろうか。
左側のぐねぐねした流路は水の勢いを殺すためのもの。そのままの速度で落とすと、川底が削れていくらしい。このへんが単なる水門や取水口ではなく、わざわざ頭首工と呼ばれる所以だろうか。
人道橋が上流側、車道橋が下流側。なので、人道橋から下流側を見ようとしても、こういうのばかりが見えて川面があまり見えない(泣)
ひび割れから水が漏れていた。老朽化が深刻になりつつあるらしい。
さて、ここから少し、真面目な話を。
この犬山頭首工、完成は昭和 39 年だ。完成して、この周辺に安定して水が供給されるようになったのだ。 犬山城の城下に住む農民たちの悲願がついにかなったのだ。
逆に言えば、昭和 39 年以前にこの堰はなく、当時の犬山城の風景は、いまとやや異なっているということだ。
昭和 39 年以前の風景が見たいなら、
日本ライン 古写真 – DuckDuckGo
https://duckduckgo.com/?t=palemoon&q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%80%80%E5%8F%A4%E5%86%99%E7%9C%9F&iax=1&ia=images
とでも検索するといい。昭和・戦前の古写真が多く、パブリックドメインかどうか不明なので転載は避ける。
私たちは現代の、犬山頭首工によって満々と水を湛えた木曽川に映える、湖上の城にも似た風景しか知らないが、昭和 39 年以前は、いつもそうとは限らなかったのだ(そういうときもあった)。
渇水期には川底が現れ、増水期には荒々しく勢いよく流れ、なるほど、後ろ堅固の城であると実感できたことだろう。
いま、ゆるい人口湖と化したおだやかな川面を見ていると、
「そりゃあ、対岸から舟で渡って攻めるよね」
と思いがちだが、戦国の当時は、大井川や天竜川同様に、天候次第では渡れない場所だったはずである。
木曽川のこのあたりは通称、日本ラインと呼ばれる。志賀重昂によってライン川にちなんで命名されたとあり、なんだか恥ずかしい欧米コンプレックスのようであるが、正確には命名したわけではない。
彼は、木曽川の風景に感激し知人への手紙に「ライン川に似た美しい景色だった」と記しただけである。
のちに、彼は『日本風景論』という著書を刊行し、ベストセラーになった。有名作家の手紙ということで、かの手紙も世人の知るところとなり、誰言うとなく、いつのまにか日本ラインの言葉が定着したらしい。
いま、湖のような木曽川越しの犬山城を見ると、なるほど、ドイツやフランスあたりをゆったり堂々と流れるライン川に似ているようにも思える。が、志賀重昂が似ていると思ったのは、スイスやオーストリアあたりの、もっと渓流にちかい木曽川だったのかもしれないのだ。
ここは尾張の国境、対岸は美濃なのだ。里から山へ変わる境目の土地だ。
昭和 39 年以前の木曽川の姿の痕跡は、犬山頭首工より下流の部分に、わずかにうかがえる。
もし次に来る機会があれば、伊木山からそのへんをねちっこく歩いてみたい。
で、風景が若干、近代以前と変わってしまったのはわかった。私はそれを非難したくて、こうしてくどくど書いているのだろうか。実は、そうでもなかったりする。
犬山頭首工によってこの地域の農業が発展したことは述べた。 私は城が好きだし、文化財は原則、現状保存だと思っている。 が、それもこれも、地域の人々の生活の犠牲の上になりたってはならない。
犬山頭首工はたしかに川面の様子を変えてしまったかもしれない。 しかし、その一方で、絶えて久しかった木曽川の鵜飼が今でも続いているのは、犬山頭首工が水量を適切に調節できているからだ。
明治になって復活した木曽川の鵜飼であるが、川の水量で漁ができたりできなかったりしては、観光産業として平成まで維持できたとは思えない。
自分がはじめて見て感激した犬山城の景色が、犬山頭首工以後であるゆえに、甘くなってしまう点は否めない。昭和 39 年以前の荒々しい木曽川の向こうの犬山城も素晴らしく、それはそれで見たいとは思う。
そうはいっても、今の犬山城も素晴らしいのであって、これはこれで受け入れたいと思う私なのだった。
いまや、犬山頭首工と赤いじゅうたんがあってこその犬山城だ。なくすな!とは思わないが、なくせ!とも思わない。
三郷放水路(埼玉県三郷市)
訪問日:2016-08-30
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=7882#misatohousuiro
ダムや水門は守備範囲じゃないのですが、行程の途中にあるなら、見ておこうくらいの興味はあります。で、今回は行程の途中に三郷放水路があった。
放水路。洪水を防ぐための、言わば水のバイパスですな。本来、別々の川を無理くりつないでしまおうってんだから、川にとっては乱暴な話だ。
日本には古代から暴れ川を「〇×太郎」と呼んで擬人化する風習がありますが、そう考えると放水路というのはキメラチックというか猟奇同性愛的というか、いやはやなんとも(妄想がたくましすぎる)
吉田戦車先生の『伝染るんです』にあった、
「お若いあなたと中年の私の尿の流れが、今ひとつに」「やめてくれえっ!」
を、髣髴《ほうふつ》とさせ……ないか。ないな。
上京してずっと、三郷市のことを「さんごうし」と呼んでいた私。誰にも訂正されたことがなかったから、過ちに気づかずずっと生きてきた。
今回、はじめて三郷市を訪れ「みさとし」であることに驚愕した。誰かおしえてくれたっていいじゃないか……。
そして、三郷市《みさとし》の二郷半という地名の読みは「ふたごうはん」ではなくて「にごうはん」であることに、矛盾とモヤモヤを感じずにはいられなかった。
放水路の西端、中川側の流入口である三郷水門。絵ハガキの定番構図(ねーよ、絵ハガキなんか!)
水門のそばに自転車を置いて、徒歩で境木橋を横断し、中川を眺める。なにがあるというわけでもないが。
歩道が無く路側帯だけなので、ビュンビュン行き交う自動車がちょっと怖かった。向こうだって普通はいない歩行者がいて迷惑だったろうが、まあ、路面には「スピード落とせ」と書いてるのにカッ飛ばしているわけだから。どっちもどっちだ。
三郷水門そばの、二郷半歩道橋。ええやん!この古びた感じ、最高!
三郷放水路を見物して、自分の中でいちばん盛り上がったのが、この二郷半歩道橋だった気がする。
それほど期待していたわけじゃないけれど、基本的には変化の少ない、それほど古びてもいない、ごく普通の水路だった。
もうちょっと土木の知識があれば楽しめたのかもしれないけどね。
排水機場というだけあって、ポンプでくみ上げて、中川の水を江戸川に流す施設。ということは、こちらの方が高いはずなのだけど、江戸川から放水路への流入を防ぐ門扉は見当たらなかった。
ウィキペディアを見ても、どうも門扉はないようだ。そういうもんなのか。江戸川からの流入はないのか。ふーむ。
>三郷放水路 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%B7%E6%94%BE%E6%B0%B4%E8%B7%AF
反対側から見たかったが、高い江戸川の堤防を降りるほどでもないかと思って、あきらめた。
というか江戸川河川敷が災害時の非常用通路としての利用を想定してるらしく、自転車で河川敷まで降りられる道が近くになかった。
さて。
水門に樋管。
なんだ、これは、ここへ来る直前に見たばかりの、閘門橋と二郷半領猿又逃樋の後継者だったのではないか。
中川と江戸川にはさまれた低地であるこの二郷半領は、冠水しやすく水はけが悪く、水害に悩まされてきた土地だということだ。
中川の支流である大場川は、悪水路などと呼ばれていたほどだ。
閘門橋と二郷半領猿又逃樋を作った人々は、その名もずばり、弐郷半領用悪水路普通水利組合なのである。
悪水路普通水利。悪水路を普通にして利水安定化する、の意味だとすれば、三郷放水路の存在理由とまったく同じだ。
あんがい、明治は遠くなりにけっていなかった。などと考えると、そう期待はずれでもなかったかなという気がしないでもない。
が、あとから調べて以後の感想であって、当時その場では、
「期待したほど面白くはなかった」
というのが率直なところだった。
三郷放水路の兄弟のように、綾瀬川と中川をつなぐ綾瀬川放水路、江戸川と坂川をつなぐ坂川放水路もあるらしいので、そのふたつも見てコンプリートさせたい気持ちが湧かなくもないけど、ぶっちゃけ、今は
「機会があればね……」
という消極的目標な感じ。