かつて山陰一の名城と呼ばれた米子城に行ってみた。
訪問日は 2016-12-31。
伯耆《ほうき》国。私は歴史マンガに手を染めるまで、読み方も知らなかった。
古代より鉄生産で有名な地域で、国宝・御物の日本刀を何本も生み出した鉄生産拠点として重要な国なのだけど、どうも白うさぎの因幡と国引きの出雲に挟まれて、子供に古代史を教える際に省かれる損な役割を食っている気がする。
そして、西から出雲・伯耆・因幡とあった三国を無理やり島根と鳥取にしたもんだから、
「米子はどっちだよ!浜松や姫路よりもわからんわ!やっと西が島根で東が鳥取と覚えたのに、新たな難題が!」
と頭を抱える、悩ましい土地である(正解は鳥取県)
そんな米子の米子城に行ってみたのは時間に余裕があったから、駅から近いし見に行けそうだと思ったからだ。予備知識は少なく、下調べはゼロだった。
- 天守は残ってない
- 山陰一の名城と呼ばれていた
- 平山城だったっけ?
くらいの知識で攻城した。駅から近いし平山城だと思っていたので、荷物をコインロッカーに預けなかったが、後悔するハメになった。安土城や伊予松山城なみに、けっこうな登山をさせられたからだ。
米子城遠望。途中、飯盛山(出丸がある。戦国時代はこちらが本城だった)を米子城のある山だと間違えかけた。
南の防衛線であったであろう、加茂川に沿って進んだ……のはいいが、なかなか登城口にたどり着けず難儀した。結局、搦手から登ることに
大手門、搦手門というのが江戸時代になっての軍学者の生み出した概念だとかなんとか。大手・搦手の言葉という言葉は、少なくとも太平記に出てくるので平安末期にはあった。しかし、戦国時代から江戸時代初期くらいまでは軍の前(大手)・後ろ(搦手)くらいの意味で、門や道に用いるものではなかったとかなんとか。芭蕉の頃になると、城址の搦手を見学したとかなんとか書いてるから、そのころまでに今と同じ使い方になったようだ。
このへん、興味深いので最近、調べたり考えたりしてるけど、手掛かりがつかめず難儀している。 「とかなんとか」と、あいまいな言い方なのも、自分の記述に正確性に欠けるからだ。 読者諸氏におかれては眉に唾をドラッグアンドドロップしていただきたい。
登城道にたどりついたら、ハイキングレベルの山道だった。標高 90 メートル。聞いてないよ(←調べてないよ)
ちなみに山にはあちこちに四国八十八か所の寺を勧請した石仏があり、全部めぐるとインスタント遍路になるそうだ。時間がないので全スルーしたが。
今回の旅行は山城を避けて、トレッキングシューズもステッキも持っていかなかったというのに。
備中高松城でも、秀吉本陣跡まで結構な登山だった。事前の計画で湿地の城や都市の城を選んだはずなのに、なぜこんなことになるのか。
道幅1mになり、落ちたら危ないレベルの崖になってきたんだが。
と思ったら石仏めぐりの道に迷い込んでいたのだった。さすがに本丸へ向かう道は、常に馬が通れるくらいの幅はあった。
おそらく、岩盤の形状に合わせて法面処理(石垣)を築いたらこうなった、ということだろうが、面の向きがそれぞれ違って、十重二十重の大迫力となっていた。
言葉もなかった。
「ド名城やんけ……」
やっと、それだけ脳内で言う。
ほかに、この場所に出た瞬間の私の圧倒され具合を言い表す言葉はなかった。
思わず Caplio G4 wide の線画モードでも撮る。
備中高松城を攻城中に主力デジカメの液晶を割ってしまったので、サブ機の Optio W90、サブサブの Caplio G4 wide、液晶の割れた GXR を均等に駆使した。液晶の割れた GXR も撮影機能はちゃんと生きていたのだけど、ライブビューで確認できずに撮ってる(しかも設定を変更できない)ので、写真の出来栄えはアレだった。
ちなみに米子城は、天守どころか建物という建物が無かった。いっそすがすがしいほどに。 城域だけでない。城下町含めて、武家建築が1棟しか残っていないというのだから、 おそれいる。そんなに嫌だったのか?武士文化が。調べても、よくわからんのだが。
>米子城の歴史/米子市ホームページ
http://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm
石垣や縄張りについて思うところは多かったが、下調べもせずに来たのだし、適当な憶測は書かずに次へ進もう。
本丸。これくらい建物が無いのだったら、いっそドローンOKな史跡としてドローン特区にしてみたらどうですかね。ドローンがぶつかって爆発炎上したって、石垣ならそうそう壊れやしないだろうし。
都会に現れた竹田城の感がある。竹田城、まだ行ったことないけど。
今回の旅行で思わせられたのは、伯耆から出雲まで、ずっと都市であるな……ということ。 このへん、成り上がりの大和朝廷が京都に移ったらあっさり田んぼに戻ってしまった飛鳥・奈良とちがう風格があった。おそらく大和朝廷に主権を奪われるまで、かなり長い年月、日本を支配していた出雲朝廷が存在していたのだろう。そして首都の座を譲った後も重要な都市であり続けた。そう、現在の京都・大阪のような立ち位置に松江・米子はあったのだろう。
もちろん、大和朝廷以前に出雲朝廷が存在し日本を支配していたというのは、すべて筆者の思い込みにすぎず、確証はない。しかし、神無月の存在、諏訪の神だけが神無月に出雲へ行くのを免除されていたという神話は、筆者には古代の納税・参勤だと思えてならないのだ。
大山《だいせん》は、残念ながら頭が雲にかくれたままで、この旅行中、最後まで全貌を見ることがかなわなかった。
そもそも、無知でもうしわけないが、読みが「だいせん」であることを、この旅行で初めて知った。
おおお、これがあの、富士山と高さ比べをした大山か。なるほど、ひけをとらない名峰であることよ……と感激したものの、心の中では「おおやま」と呼んでいたのだ。 子供の時に読んだ、その高さ比べの逸話にルビが振られてなかったので、最初に自分で判断した読みが訂正されることなく何十年も居座ったのだった。だいせん申し訳ない。