雨だったけど喜多院行ってきた。
毎年、夏に川越市の喜多院へ行こうと思ってた。なぜかというと喜多院にはかつて江戸城の御殿の一部であり、家光が生まれた部屋が移築されているからだ。
家光が生まれたのは慶長九年七月十七日(旧暦)。太陽暦に直すとまあ、8月だろう。 そんな時期的なことまで気にする理由はないのだけど、 そんな理由付けでもないと、なかなか重い腰が上がらなくて。
そんなわけで、8月も終わりにちかい 26 日に川越に行ったのだった。ちなみに夜は飲み会の予定だったので、あんまりゆっくり見られなかった。
川越駅到着。ママチャリで群馬まで行ってたこの私が電車とはヤキが回ったものだ。
ちなみに川越に来るのは人生3回目。一度目はバイトで川越夜祭りの警備をしたとき。二度目は前述のママチャリ旅行のとき。このときの目的は川越城。
そのママチャリ旅行のときも、喜多院にも寄ってはいた。しかい、朝早かったので客殿はまだ入場時刻になってなかったのだ。
自転車シェアリングを利用してみたよ!初めてでも簡単とはいかないね!
レンタルサイクルみたいなもんだろ~と、利用法の下調べをほとんどせず、駅からいちばん近いサイクルポートに向かって、そこで途方に暮れた。うん、貸し出し手続きを行ってる場所がサイクルポートの近くに見当たらない。
川越市/川越市自転車シェアリングを実施しています
http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1385516507381/
ようするに、こういうことだ。web を使って事前に登録を済ませておくか、クレジットカードを持っていれば、運営事務局又は提携窓口まで行かずともサイクルポートにある端末で貸し出し手続きができる。
ところが私のように、レンタルサイクルの延長で考えてて、当日、現金で貸し出し手続きをするつもりでいた人間は駅から 1km ほど離れた運営事務局又は提携窓口まで行かねばならないと。
下調べをちゃんとしなかった自分が悪いのだけど、せめて川越駅の近くに提携窓口は用意できなかったのか。駅から喜多院までが、せいぜい 1.5km なのだ。川越市は玄関駅が川越駅と本川越の2つに分かれるので難しいのはわかるのだが……。
いつもの私の旅行よりは歩く距離を減らそうと思ったのに、結局たいして減らなかった。
なお、自転車は見た目はオシャレだったけど、空気が甘いのがあった。 備中松山城を見に行ったときみたいに、ブレーキが壊れてないだけマシと感謝すべきだろう(よかった探し)。
ところで、駅前のサイクルポートから、最寄の提携窓口へ向かう途中、ちょっとした巨樹があった。
「出世稲荷神社」という名前がすでに通称っぽいのに、通称は「いちょう神社」
さて、小雨が降る中、喜多院へ向けて出発。
途中、マンホールの蓋などを。個人的にはあまりそそられないジャンルなのだけど、たしなみ的に。
公団ゴシックとも、また違うね。(左:GD-高速道路ゴシックJA)
現場向きベクトルフォント [路面標示の描き方] – higuchi.com blog
http://www.higuchi.com/item/778
なるほど。
ベジェ曲線もスプライン曲線も使わず、コンパスとチョークで、しかも固定幅のストロークで再現できる、現場向きベクトルフォント。
これは小夏のデザインコンセプトに非常に近い。私の琴線に響くわけだ。
雨の喜多院
堀の内側には土塁。喜多院もまた、有事の際の川越城の出城の役目があったと考えるのが普通か。
しかし、川越城とは関係なく、自衛のために城郭化したのかもしれない。単なる想像なので眉にツバして読んでほしい。中世の寺院は僧兵がいて、武士と同じように所領を守るために戦った。 結局は武士に敗北し幕府の支配体制に組み込まれるのだけど、それでも境内内部の自治権・治外法権は江戸幕府の開幕以降もある程度、認められていた。
くだんの泥棒が逃げ込んだのは、喜多院が天領だったからとは限らない。逃げ込んだ犯罪者を行政に引き渡すかどうかは寺が決めること……そういうケースが日本中にあった。 寺に裁量が認められていたからこそ、夫と離縁したい女性の逃げ込む「駆け込み寺」などが成立できたのだ(そして多くの場合、犯罪者に対して「慈悲」をかけるのが宗教組織としての寺の有り様だった)。
しかし、たびたび犯罪者(や社会的弱者)が逃げ込むのであれば、それを追う者が力づくで奪い返そうとすることも多々あったのではないか。自衛権と治外法権があるということは、裏を返せば行政が介入できない場所でもあるということだ。
城下町にある寺社は、有事の出城に使えそうな防衛設備を持ってるところが多いけど、 意外に、実は、有事の出城だけが目的ではなかったのではないか。自衛のためにそうした面もあるのではないか…そんな気がする今日このごろという話。
ぜんぶ、机上の空想だ。
そんなことを考えてるうちに、喜多院慈恵堂に到着。一部、修理中だった。
大きな地図を表示
喜多院 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E9%99%A2
ところで、雨だったので前に自作したウォータープルーフを使ってみたけど、”長いこと埃を被っていて細かいキズだらけ+オートフォーカスのままで撮ったからピントが合ってない」”ために、クソ写真を量産してしまった。
仙波東照宮の随身門(国重文)も、このヘッポコぶり。素直に防水デジカメで撮ってたらなんぼかマシだったろうに……
これは防水デジカメで。黒潰れした。天気悪いしね(と天気のせいにする)。
本日の目的。江戸城紅葉山御殿の一部を移築した庫裏・客殿・書院
ちなみに内部は撮影不可。入場料 400 円もするわりに、そりゃないぜベイベー! 川越城本丸御殿なんか 100 円で大広間以外撮り放題なのに!
……て、あれ?いま調べたら慈恵堂と五百羅漢の入場料も含むって書いてあるな。 五百羅漢は見たけど、慈恵堂の内部は見なかったぞ?あれ?
ガーン!
……いま、文化財保存工事にともなう現在の拝観休止されてる部分があるらしいし、慈恵堂の切り妻の下に作業テントがあったから、自分が順路を間違ったんじゃなく、今は行けないようになってたんだと思う。そう、思いたい。いや、いいんだ、目的の「家光生誕の間」と「春日局の間」は見れたのだから……
それはともかく、「内部撮影禁止」のプラスチックプレートがいたるところに、建物の柱や梁に直接ペッタリ貼られてるのはゲンナリした。紅葉山御殿の一部じゃない部分かもしれんけど、古建築の一部にはちがいないだろ……
昭和の修理の痕跡か、柱に白インクで「東2左(※ママ)」なんて書いてあったりね。 アラビア数字なんである。江戸時代の修理痕ではあるまい。
写真撮影不可なのでメモをとるのだけど、説明板にわからないところがあり、職員に聞いたものの答えられなかったりね。正直、400 円をとるだけの仕事はされてないと思った。
わからなかったのは「蟻壁長押」とはどの部分なのか?帰宅して検索した。 スマホがあればその場でわかったのにね。
誰もがスマホを持つ時代になったら、史跡から説明板が消えてQRコードがあるだけになったりするんだろうか。 景観を考えたら説明板なんて無いほうがいいんだよね。 説明をウェブに置いた方が多言語対応もラクだし。
自分以外の観光客が渡っているのも見なかったので、やはり立ち入り禁止だったのだろう。
建物内部は撮影不可。ところで建物内部から外を撮るのはダメなんだろうか。 たぶんダメだと思って撮らなかった。職員が常時監視してるわけでもなく、撮ろうと思えば撮れたけどね。守ろうルール。
家光生誕の間(客殿)は、まあ、古びてはいたけど、それなりに豪華。 欄間に明り障子ってのは素敵やね。 それが徳川の好みだったのかどうかわからんけど、 曲がった木材をそのまま使ってる部分は少なかった。 きっちり面取りされた角材ばかり。豪華だけど、詫び寂びへの理解はない感じ。
12.5畳wwwフリーダムwwww
湯殿には風呂桶を置いてほしかった。なんで、日本の展示って生活臭を消そうとするんだろうね (ミニチュアで復元するのは熱心なのに)。
客殿(徳川家光公 誕生の間) – 川越大師 喜多院
http://www.kawagoe.com/kitain/history-culturalasset/cultural-asset/spot01.html
蟻壁長押 とは – コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E8%9F%BB%E5%A3%81%E9%95%B7%E6%8A%BC
春日局の間(書院)はさほど豪華でもない。 これは現代人が見た感覚であって、畳があって天井があって床のがあるってのは、江戸前期の江戸の建物としては破格に豪華なんではないかという気がしないでもない。 移築したさい、書院だから装飾を排したのかもしれない。
書院(春日局化粧の間) – 川越大師 喜多院
http://www.kawagoe.com/kitain/history-culturalasset/cultural-asset/spot02.html
さすがに移築されたからか、柱や梁には無数の釘穴があった。まあ、江戸中期~明治あたりに考え無しに、なにかをぶら下げるためのクギやフックを打ち込んだのでもあろうと思った。
良かったのは庭園。書院の横の遠州流庭園ではなく、客殿から見える方。 なんか、自然石を積んだ絶壁のようなものが見えて迫力があった。
歴史の町-鎌倉と川越:喜多院の庭 – livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/koike631/archives/51309302.html