蘆花恒春園(東京都世田谷区)に残る徳冨蘆花旧宅の訪問記です。
訪問日は2016-12-10。徳冨蘆花の旧宅だそうです。徳冨蘆花。名前は知ってる。読んだことないwwww恥ずい……でもないか。あなただって読んでないでしょう?(勝手な決めつけ)
え?読んだことある? わかった私の負けでいい(えらそう)
ついでにいうとお兄さんの徳富蘇峰も読んだことがありません。だってさあ(以下56億行ほど自主検閲)
まあ、そのへんのことはともかく、東京都に残る現存古民家なので、古民家訪問が趣味の一つである私は粛々と訪問したのでした。さすがに世田谷ともなると、板橋からはなかなかの距離で、ママチャリだと行くのが面倒に感じます。
そんな気分を吹き飛ばす、蘆花恒春園のこの景色!これは期待大ですわ。
徳富蘆花が自宅に雅名が欲しいと思って、名付けたのが恒春園。現在は徳富蘆花旧宅の残るこの一帯が公園化され、蘆花恒春園の名で呼ばれています。
恒春園の名の由来は、台湾の南端にある恒春という地名から。あるとき、蘆花は恒春に土地を持っていると噂を流され、噂を信じた人から仕事を斡旋してほしいと依頼されたそうです。思いもよらぬことながら、まあ、地名がいい感じだったので、あやかって自宅の雅名を恒春園としたのだと。
もともとの地名は粕谷であり、村人は蘆花の家を「粕谷御殿」と呼んで笑っていたといいます。
茅葺屋根をざっくり切った感じが面白くて水平が取れてない筆者。
村人は蘆花の家を「粕谷御殿」と呼んで笑っていたというのは、本人の弁だから書いてもいいでしょう。
つまり、この家は普通の古民家とは、ちょっとばかり、様相が違います。
この母屋は蘆花本人が記したところによれば、蘆花が買い取って移築したものです。最初の家主は素性の知れぬ捨て子で、養親から与えられた安普請の家。次の持ち主は大工で、妾を住まわせたらしいものの、大工のくせにちゃんと修理をしなかったらしいという、そういう民家でした。
当時、超がつくほどのベストセラー作家だった徳富蘆花です。どんくらい売れてたかというと、『吾輩は猫である』の百倍は売れてました。言うなれば、ドラゴンボールやワンピースのように漫画賞の受賞は少ないけど販売部数では圧倒的――それが蘆花の『不如帰』だったのです。
瓦葺の建物は江戸後期には江戸では珍しくなかったわけですから、蘆花が移築した明治期には世田谷のような江戸近郊でも、瓦葺への移行が進んでいたことでしょう。
そこへ、大金持ちであるはずのベストセラー作家である蘆花が、わざわざ安普請のボロ家を移築して引っ越してきたわけです。
なぜか。
なぜなから蘆花はトルストイに憧れており、トルストイのようになりたかったからです。
トルストイのような、質素で晴耕雨読の生活をするために、わざと郊外にボロ家を移築して移り住んだのです。
まあ、村人だって見ればわかる、ワナビが形から入ったなんちゃって晴耕雨読であり、蘆花本人もそれに自覚的であったからこそ、「村人は笑っている」と記したのでしょう。
東京市の中心では家庭用のガス事業が展開されていたかもしれませんが、粕谷村ではまだだったのでしょう。仮にガスが来ていたとしても、トルストイ生活にあこがれる蘆花が利用したかどうかはさておき。
しかし、内風呂のありがたさからは逃れ難かったようです。てやんでぃ、ベストセラー作家様が銭湯へ通えるかいっ!
炬燵でしょう(4年前の訪問で説明なども撮ってないので推測するしかない)。
明治にもなれば、庶民の家のふすまだって、ちょっとくらいは装飾してたと思うのですが。
が、蘆花はそれができません。なぜならトルストイのような質素な生活を(以下略)
そう、質素な生活に憧れてはいるものの、超が付く売れっ子であり、忙しいのであり、すなわち大量の使用人が必要なのです。
主人のなんちゃって清貧生活につきあわされて(当時としては)田舎の世田谷の農村まで連れてこられ、安普請のボロ家に住まわされた愛子夫人や使用人の気持ちを想像すると泣けてきます。
目的は「質素」であって、20世紀初頭に生まれたモダンデザインの流れを受けて、装飾を排したわけではないでしょう。結果的には純度の高いモダニズム建築な内装になってますが。
しかしこれも、現代の我々が見ると凝った造りの窓に見えてしまいますが、当時の技術では大きな板ガラスを作ることができません。大きさの異なる板ガラスを極力、ムダにせずに使うために必然から生まれた様式と思われます。装飾が優先されてこの形になったのではなく、この時代における機能美を追求した結果でしょう。
さて、ボロ家を移築して修理して住んだ蘆花でしたが、何度も言った通り、ベストセラー作家です。 使用人も数多くいて、ボロ家一軒では、とてもじゃないけど手狭で困ってしまったのでした。
しかし、せっかく手に入れた憧れの農家住まいの晴耕雨読の生活は止められません。田舎暮らしに憧れた脱サラが現実に直面して早々に都会に逃げ帰るようなマネを蘆花はしませんでした。蘆花には現実をねじふせる財力がありました。
したがって、質素には憧れているけど不便は求めていなかった蘆花は、近隣で手ごろな農家が売りに出されると購入して移築するという作戦に出ました。お金さえあれば~なんでも手に入る~。
渡り廊下が出来たのは後年のことで、移築してしばらくは渡り石で建物間を移動していたとのこと。
渡り廊下とは別に、日本建築らしい部屋を囲む長い廊下がそこかしこにあります。
長い廊下は好物なので、たまりません。好き好き大好き愛してる。
二棟目を移築したころには「質素しばりプレイ」も緩んできたのか、ピアノとかが現れます。
電話もまあ、庶民が個人宅に持つものじゃなかったと思いますが、売れっ子作家ですからね。しかたありませんね。
蘆花が父から贈られた横額。飾らないわけにはいきません。さすがの蘆花もトルストイ的生活より人として当たり前を選びました。
横額は薩摩の書家・鮫島白鶴翁。西郷隆盛の書の師匠だったとのこと。
つまりは来客をもてなす座敷が必要で、床の間なんかも必要で、多少の装飾が必要だったのでした。
質素な書斎でロウソク一本の明かりで執筆したかった。日本のトルストイになりたかった。しかし、蘆花はトルストイほど他人に厳しくなく、お金が嫌いだったわけでもなく、家族と妥協できる人だったのでしょう(トルストイは最低限の収入以外をなるだけ得ないことを望み、家族を養うためにお金が必要だと考えた妻・ソフィアと対立していきました。ソフィアは世界三大悪妻のひとりに数えられています)。