訪問日は2016-09-25。
この日、まあ、デジカメ散歩したい。しかし、遠出するには寝過ごした。近場でなにか適当に……ということで、ほぼノープランで中野区・杉並区方面に向かったのでした。
いちおうは、杉並区の『城山と七つ井戸』が目的地ではあったのですが、まあ、それとて説明板があるだけのようでしたので、さほど期待も無く。
とりあえず、妙正寺川に沿って上流に向かえば、なにかあるだろう、くらいのゆるい感じで出発したのでした。
川に沿っていけば何かある、という経験則は、まずまず外れたことがありませんね。川沿いには過去の人間の営みの痕跡があり、水辺には現在の生命の営みの躍動がありますから。
池袋の北の界隈は築50~70年クラスの古い建物が多くて良いです。中にはこんな廃屋もあったりしますが。
椎名町駅そばのガード下。いつ通ってもホレボレするガード下。スコーンとしててね。いいんですよ。
妙正寺川に沿って……という計画だったけど、べつに神田川との合流点から辿ったりはしません。そんなガチなやつではなかったのです。
調節地は好物ですが、この日は看板を撮っただけ。以前に訪れた時に何枚か撮って、ここは地下調節池で、地上から見える部分にそんなに面白いものは無い、と記憶してたからじゃないかと思います。
このへんはもう中野区。江古田大橋。大橋の がいねん が みだれる!
ここで、江古田合戦遺構をいくつか見て回りました。この部分だけ、過去にエントリにしています。
>[史跡] 史跡の軌跡 2>江古田合戦遺構 | ブログ桝席
http://blog.masuseki.com/?p=9292#egotakassen
妙正寺川のゴミの塊のようなものが、巨大なワニのようにもみえました。
ゴミのようでもあり、金属の網目のようなものが見えたので、蛇篭かもしれません。ただ、蛇篭だとすると、ここに設置する意味がよくわかりません。
気にも留めてなかったものに、あえてズームアップすると新鮮な驚きがありますね。なんだこの風景。
平和の森公園。江戸末期の間知積のような石垣が見えますが、さて。
平和の森公園(中野区)は、旧中野刑務所の跡地です。大正時代に立てられました。
その頃の石垣なのでしょうか?大正時代なら、江戸時代の技術が使われても不思議はないような気もします……が。
いやいやいやいや。刑務所はレンガ造り。石垣なんて古い技術は使わないでしょ、という気もします。 とすると、公園化に際して現代の技術で作られたイミテーション石垣かしらん。そういう風に見ると、隅角が算木積みになってないし……
結局、ネットで雑に調べた範囲では、この石垣の正体は、よくわからなかったのでした。明治時代の地図を見ても、旧中野刑務所が出来る前に石垣を必要とする施設があった感じではなかったですね。
さて、
「川に沿って行けば、なにかしら面白いもんが見つかる」
というオレオレ説。その主張は正しかったのでしょうか。
私は、やはり正しかったと思いましたね。この、みはと公園で、そう確信しました。
実は滑り台。全国の滑り台をめぐる滑り台マニア垂涎の珍品……かどうかはわかりませんが、滑り台も多少は守備範囲ですよ~な私にはニンマリの逸品でした。
いまいち鳩っぽさが足りないのは、鳩ムネのデフォルメが足りないからのように思えます。鳩サブレーに学ぼう!
程近くに、なぞの手形が。おすもうさん?にしては手が小さいな。
2002年ノーベル物理学賞を受賞した、小柴昌俊氏の手形でした。
あやかれ、あやかれ~(完全に非科学的な、ノーベル物理学賞の対極にある行動であることは気にもとめていない私)
とすると、さっきのゾウやアヒルその他も小学校の生徒の作品かもしれません。でも、あるいは単に、角材でなんでも作っちゃうおじさんがいるだけかもしれない。
妙正寺川に戻ると、水源である妙正寺池と妙正寺公園に着きました。いい公園。
神田上水は江戸幕府が最初に整備した上水道です。したがって、神田川に合流する妙正寺川・善福寺川も神田上水の一部であり、水源地として認識されていたということになります。
雰囲気は良い公園でしたが、池の規模は小さく、見どころはそれほど多くありませんでした。
妙正寺。家光が鷹狩りの際に祈願に立ち寄っています。鎌倉~室町期の板碑があるとのこと(私は未見)
昭和の再建時のときのものなので古さは感じられませんが、造形は好きです。
この指定文化財標柱から左手に進み、正面の石碑の手前を石畳に沿って右に曲がり、左手に見える階段のある墓域内にあります。
RPGのクエストかですか?しかも墓域に到着したら、そっから先は自力で探せと。
いちおう、説明された場所に行ってみましたけど、パッと見じゃわからず、聞こうにも寺人はおらず、墓石の字をひとつひとつ読んで探すほど暇でも興味があるわけでもなく、そもそもお墓はあまり守備範囲じゃなく、本因坊六世知伯が誰かも知らず。
このへんが説明された墓域、という写真を撮って退散したのでした。
ちなみに検索したところ、植栽の向こうに見えるエリンギのような笠のある墓石がそれだったようです。
ここに限らず、有名人の墓石って
「これです!この墓石です!」
みたいな、わかりやすい表示がされてないのが半分以上。
まあそれは、観光物件じゃねえぞ、興味本位で見てんじゃねえ、敬意を示せ敬意を!ということなんでしょうけど……うーん、なんとかならないんでしょうか。
>本因坊知伯 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%9F%A5%E4%BC%AF
さて、妙正寺川は水源に到着したので、善福寺川へと向かいます。
ゆるキャラが服を着ると「つまり論理的に通常はすっぽんぽんなんやな」と思え、だんだんエロティシズムが感じられてくるようになりますね(←同意を求めないように)。
ザ・中華。なんだけど、「絶対美味」とか「笑門福来」とか、日本人やん>オーナー、と思いました(日本人だったらいけないというわけではないけど)。
笑う門に福来るは、まず間違いなく日本生まれの言葉。そこを百歩譲って中国由来だと仮定しても「来門来福」なんじゃないかなあ、中国語の文法的には……。知らんけど。
シラサギがおった。都心でも、まあ、ちょくちょく見ますね>シラサギ。
目的地である城山と七つ井戸の説明板。一時的に陣を張った程度でも城址を言い張る所も少なくないので、荻窪八幡が荻窪城と呼ばれていても不思議はないのだけれども、幸いに(?)そうはならず、付近一帯が城山と呼ばれるにとどまりました。
いちおう暫定的に決めた目的地訪問は果たしましたが、当然にこんなのでは満足できないので、善福寺川の水源を目指します。
もう水源近く。コンクリ水路化されてますが、湧水地点がいくつかあるみたいな説明板がありました。
ていうか、善福寺池も妙正寺池も三宝寺池(石神井公園)も、湧水地点が池になったものです。
きんどーさん口調で「あらやだまーまーまーまー、いいじゃないのいいじゃないのー」と声に出して言ってしまう病気は、まだ2016の頃は始まっていなかったと思います。
2018年には確実に言ってましたから、変化が起きたのは2017年ですかね。特に何のキッカケも思い当たりませんけど。
やや石神井公園と見間違えそうになりますが、石神井にはこんなこんもりした丘はなかったような気がします。
寝そべることができそうで、微妙に寝心地の悪そうなベンチ。これ、排除ベンチの意図を込めてこのデザインにしたのだとしたら天才的だしデザインの勝利。
足漕ぎボートはあってもスワンボートではないあたりも、石神井公園とのちがいですね。
いちおう善福寺。昭和17年に福寿庵という寺が廃寺になっていた善福寺にちなんで改称したもの。
貴重な文化財があるような寺ではなさそうだったので、立ち寄りませんでした。
なお、地名の由来であり廃寺となったオリジナルの善福寺の詳細は、よくわかってないそうです。
ここらで 15:20。まだ陽は高い時刻でしたが、もう帰り始めてます。ここから西東京市とかまで行くとしんどくなりますし、無理せず帰る日があってもええやんか…な感じだったのでしょう。覚えてませんけど。
貧乏性な私はいつもいつも、おでかけしたら元をとろうと、限界まで粘りすぎなんですよ。そのへんの反省もあったのでしょう。
あー、これはバンクシーですね。たぶん間違いないですね。おそらく絶対そう。バンクシーか、もしくはバンクシー以外の誰かの作品である可能性が100%ですわ。