おお、紫石英より輝く史跡たちよ! …… エグザンプル・コム(架空の歴史家)
この記事は、単独で記事を立てるほどでもない小さな史跡を紹介するための記事です。ときたま更新します。
パート2です。前エントリはこちら。
>史跡の軌跡 | 桝席ブログ
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この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。
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- 届いちゃうんだもんね 小田山新政府軍砲陣跡(福島県会津若松市)
- 葦名四百年の御恩顧 旧会津領主 葦名家花見ヶ森廟(福島県会津若松市)
- 八握髯翁 西郷頼母墓と自害二十一人墓(福島県会津若松市)
- 登れば楽し 日新館跡地と日新館天文台跡地(福島県会津若松市)
- 誤差 30m 山本覚馬・八重生誕地(福島県会津若松市)
- 会津をたずねて八十里。殉節越後長岡藩士の墓と碑(福島県会津若松市)
- 燃やされた宿。関山(福島県会津美里町)
- 戦死四十人墓(福島県会津美里町)
- 江古田合戦遺構(東京都中野区および杉並区)
- 岩本町 馬の水飲み場(東京都千代田区)
- 佃の渡し跡にある歌碑(東京都中央区)
- 徳川家光御切付旧跡(東京都三鷹市)
- 中島飛行機橋台跡(東京都武蔵野市)
- 旧弾正橋(東京都江東区)
- 沖田総司逝去の地(東京都新宿区)
- 松渓公園(東京都杉並区)
- 船圦川跡(千葉県浦安市)
- 引又河岸跡と引又観音堂(埼玉県志木市)
- 京浜急行電鉄デハ268号(東京都新宿区)
- 中道寺鐘楼門(東京都杉並区)
届いちゃうんだもんね 小田山新政府軍砲陣跡(福島県会津若松市)
訪問日:2018-08-19
ここも、会津戦争史跡として、どうしても見ておきたい場所だった。小田山の新政府軍砲陣跡。
新政府軍が、かの有名なアームストロング砲を設置した場所だ。
ちなみに画像のファイル名やフォルダ名が”oyamada”になっているという恥ずかしいミスについては目をつぶっていただきたい(言わなきゃなかなか気づかれないだろうに、自己申告しちゃうんだから、このひとは……)
この小田山、花見ヶ森廟とは別に葦名家嘉山廟があり、代々の墓がある。近代において大きな足跡を残した柴四郎・五郎兄弟の墓もある。会津若松藩を立て直し藩校・日新館を作った名臣・田中玄宰の墓もある。なにより山頂は小田山城址だ。
しかし、ゆっくり時間をかけて見物している時間はなかった。14:30。17:00 にはレンタサイクル返却のため、若松城に戻らなければならんのだ。
なので、目的を山の中腹にある新政府軍砲陣跡に絞り、他のものは泣く泣くスルーして登った。小田山城址見たかった。お城スキーが、城を目前にして撤退することのくやしさったら。
道の傾斜はゆるく、登りやすい。ある程度は近現代以降の整備によるのだろうが。
とはいえ、重い鉄の塊を運んだ新政府軍の下っ端たちの苦労が目に浮かぶ。アームストロング砲は、分解して運んだそうだ。 なるほど、そりゃそうか。その説明文を読むまで、車輪の付いた大砲をいっしょけんめい押したり引いたりして登る図を想像していた。
墓は守備範囲じゃないけど、柴五郎の墓は参っておきたかったな。
到着。ここに新政府軍が大砲を設置してバカスカ若松城に向けて砲弾を撃ち込んだのだ。
その傷跡は若松城の古写真に痛々しく残っている。
が、ここ、新政府軍砲陣跡に、目に見えるような遺構は無かった。あるのは空間と、説明板。
発掘の結果、砲台跡が8つは確認されたとあったが。
「西軍が大砲を据えた場所」とあったが、杭の位置が砲台跡なのか、このエリア一帯が西軍の砲陣だと言ってるのか、どちらにもとれるので……。
約1.6km先。意外と小さく見える。JR東海道線から見える 3km 先の岐阜城と体感で同じくらいというか。あれか?低い位置の満月が大きく見える謎現象みたいなもんか?
時間的都合で、ここまで来ておきながら……くくく……な、思いはあったものの、目的であった小田山砲陣跡からの眺めは期待通りであり、まずまず満足した。道も難しくないし、夏に夜登山して夜景を見るのもいいかもしれない。
葦名四百年の御恩顧 旧会津領主 葦名家花見ヶ森廟(福島県会津若松市)
訪問日:2018-08-19
葦名家。戦国のスター偉人である伊達政宗や蒲生氏郷、幕末の花形イベントである戊辰戦争のせいで、会津において、やや影がうすくなってしまった感のある武家である。
しかし、会津盆地を開拓し伊達政宗に敗れるまでの四百年を統治したのだから、まずまず有能な一族だったのだろう。好きな人は意外に多いようで、通好みの武家とでも言えばいいのか。
日本史について、マンガで(≒仕事で)描く機会のなかった部分については、からっきしでなあ。
そんなんであるから、2018 夏『会津の戊辰史跡めぐるでよ』旅行においても、ここは、べつだんマストな目的地ではなかった。
しかし、通りすがりの駄賃で3分で鑑賞できるのなら、さすがに寄るのだった。
いまでは、会津城下町の中心からすこし離れた、閑静な住宅街といった場所に、霊廟はある。
蒲生氏転封以前は、城からずっと離れた、森の中の墓地であったのだろう。
ぜんぶ後から「葦」に直されているが、直される前が「蘆」なのか「芦」なのか、ちょっとだけ気になった。
八握髯翁 西郷頼母墓と自害二十一人墓(福島県会津若松市)
訪問日:2018-08-19
ここも 2018 夏旅行のマストタスク訪問地。会津戦争のキーマン中のキーマン、西郷頼母の墓である。
なにがどうキーマンなのかは、こうした小エントリで語り切れるものではないので割愛する。
菩提寺である全龍寺の山門。幕末の建築。この地方では珍しい中国様式というが、国内じゃ(沖縄を除いて)たいていの地方でも珍しいのではないかと思う。
夏祭りの準備前で、ムード歌謡がヘビロテしていた。私は自害した西郷頼母の妻や娘に思いを馳せ、悲しみにひたりたかったのだが。
西郷頼母はいっぱしの歌人であり、妻も子もみなそれぞれ、歌道に通じていた。 西郷家の女性や老人は市街に敵が侵入した際、若松城に籠城せず、自害の道を選んだのである。 一般には、女性は戦闘の役に立たないので、足手まといになるのを避けて自害したのだとされる。 西郷頼母の家族ならば、城で保護してもらえる可能性は十分にありながら。
このころの会津人は国(会津藩)のために死ぬという行為に、一種のあこがれがあったとすら考えられ、西郷家の女性たちもその線でとらえられるのが通説だ。
なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ
意味は「やわらかい竹のように風に身をゆだねるしかない(弱い女の)身ながらも(注:江戸時代の女性の立場とはそういうものだった)、竹の節のように風にたわまない部分もあるのだ」
とされ、女性の貞節を詠んだということになっている。敵の捕虜になったり辱められるくらいなら死を選ぶという強い意志が、竹の節であり、女の貞節だということだ。
いやいやいやいや。その解釈は、無理がないか?これから死ぬってときに、社会一般的な貞操観をわざわざ詠む?
この歌を理解するには、藩主・松平容保と西郷頼母の不仲を理解しておかねばならない。
なんせ、自害 21 人である。ジジイも含まれているけど、ほとんど女性。 このとき、西郷家には嫁ぎ遅れの妙齢の女性がたくさんいた。 なぜなら、この時代の武家の女性は藩主が結婚を認めないと結婚できなかったからであり、 容保と頼母は険悪な関係にあったのである。 京都守護職就任を声高に反対した頼母は四年以上も蟄居を命じられており、娘の結婚をお願いできる状態ではなかった。 容保の方も、それはそれ、これはこれ、と気を利かせることなどなかった。
そして、西郷頼母が予言した通り、京都守護職を引き受けたばかりに、会津は朝敵になってしまった。
すぐに西郷頼母の主張したように恭順を示し容保や責任者の家老が切腹していれば、ことなきをえたかもしれないのに、下手に奥羽越列藩同盟なんぞ作るから、後に引けなくなってしまった。
正確に未来を予言し、蟄居から家老職に復職となった西郷家サイドとしちゃ、大勝利である。ねえいまどんな気持ち>容保ゥ!プギャーッ!メwwwシwwwウwwwマwwwwwwてなもんだ。
なので、城下に敵が侵入したからといって、お城に出向いて「すみません守ってくださいな」と、西郷家の人間は言えない。言えないのだ。もし、お城に入ったら針のむしろ状態。周り中、西郷家を憎んでる連中ばかりだから、貞節という意味では城に入る方が危なかったかもしれない。こうなると、もう、意地の張り合い。ウィキペディアの編集合戦も同然。引いたら負け。
「たわまぬ節はありとこそきけ」は夫の意地を汲んで、いきおくれの娘をたくさん抱えた西郷家の母としての意地も足した、咆哮のような結句であると、私には思えてならない。
その墓。会津民から頼母がどう思われてるか、空気を読んで墓石も小さい。
以前はもっとひどい状態だったとも伝え聞く。八握髯翁。西郷頼母のアダ名であり、本人もその、握りこぶし8個分もあるヒゲを自慢にしていた。本名は近悳《ちかのり》。明治維新後は姓を西郷から先祖本来の保科に戻し、保科頼母を名乗った。
会津藩家老保科氏の墓。そう、西郷頼母は信濃国高遠の地侍である保科氏の直系なのだ。
ここに保科家(西郷家)の葛藤がある。保科の血を継いでいるのは西郷家なのだ。保科正之は知っての通り養子だ。 保科正之が家光の異母弟でなかったら、会津藩はなく保科家(西郷家)も今の地位にない。だからこそ、保科の名をいただいて松平姓を拒んだ藩祖に遠慮して、姓を西郷に改めた。
しかし、世が世なら、保科正之が保科氏の養子に預けられなければ、西郷頼母は小藩のお殿様だった可能性もあるのだ。 昔のことを言ってもはじまらないが、頼母には自分こそ保科氏の正統な直系という、言うに言えない自負がある。
そこに、松平容保だ。
彼が保科正之の直系なら、我慢もできよう。しかし正之の血統(ひいては秀忠の血統)は七代・松平容衆でいったん途絶えるのだ。八代・松平容敬はお家断絶の備えとして引き取られていた水戸徳川氏の松平義和(高遠藩主)の庶子である。もはや「それ高遠つながりでしかないやん」だ。
そして九代・容保も八代・容敬の実子ではなく甥であり、養子であり、水戸徳川家の血統なのだ。
西郷家がおもしろくないのも、無理はない。
なので、西郷頼母が京都守護職就任に反対したとか、恭順を示すように主張したというのも、単純に平和主義的な観点から出たかどうかの判定は、慎重にならなければならない。頼母はただ、容保のやることに反対し、容保ができないことをやるよう主張しただけかもしれないのだ。
集団自決の行われた西郷邸の様子は、たいがい次のような調子で解説される。
「母・千恵子はまず何も知らず無垢な笑みを浮かべる李子(二歳)を刺し殺し、
次に泣き叫ぶ常盤子(四歳)に向かって
「それでも武家の娘か!」
と叱責して殺し、さらに年長の娘たちは辞世の歌を詠み互いに刺しあい……」
むろん、現場を見た人間は全員、その様子を語ることもなく絶命しているので、状況証拠からひねりだした創作である。
ただ、新政府軍の兵士が西郷邸に踏み込み、集団自決直後の現場に出くわしたらしい。
現代に伝わる談話によれば、このとき一人の女性がまだ生きていた。もう目は見えてなかったらしく、物音のした方へ
「敵か味方か?」
と尋ねた。人間の不思議なるところか、兵士はとっさに
「味方だ」
と答えた。娘は懐剣を差し出し
「介錯を……」
と息も切れ切れにたのんだという。会津戦争の悲話でもっとも有名な逸話であろう。
その兵士とは薩摩藩の川島信行であるとか、土佐藩の中島信行であるとか、あるいは川島信行もしくは中島信行が別の誰かから聞いた話であるとか、はっきりしない(研究が進んでハッキリしてるのかもしれないが、私は知らない)。 問題の懐剣だか脇差だか短刀の行方がわからなくなっており、そもそも件の兵士が何の目的で、筆頭家老の屋敷に侵入したのか、いろいろ明らかにされたくない事情があったのかもしれない。
あるいは、ひとり生きていた女のくだりも、集団自決を見た兵士たちがその日の夜の雑談で創作した即興物語の可能性があるだろう。
登れば楽し 日新館跡地と日新館天文台跡地(福島県会津若松市)
訪問日:2018-08-19
藩校の設立も全国的に遅い方であるし、日本三大藩校と自称しているけど、どんな基準と定義で「三大」なのやら、とんと。
どれだけ有名か、なら間違いなく「三大」であろう。というか、日本一有名な藩校ではないかと思う。しかし、それと教育内容が優れていたかどうかは別だ。あと、水練場(プール)を備えた点では日本最古の藩校となるらしい。
そんなこんなで、戊辰で焼けたあとは、碑が立つのみで遺構はほとんどない。
ただし、石造りの天文台は残った。戦災後、撤去費用も惜しかったのだろう。
天文台は、一時はこの倍の大きさがあったという。縮小されたのは土地不足のせいなのかどうか。
周囲に平屋の家屋しかない時代なら、この程度で充分に天文台として機能したのだろう。
ちょっとだけ楽しい。地味に楽しい。そういう史跡だった。
誤差 30m 山本覚馬・八重生誕地(福島県会津若松市)
訪問日:2018-08-19
八重のが主人公のマンガ、おでも描きてぇよお。
なに?説明板の文面が読めないって?通り一辺倒のことしか書いてないよ!ウィキペディアでも読んでな!
しかし、ネット地図などを見ると、近くにもうひとつ、生誕地が存在する。どういうことだろうか。行って見なくてはわかるまい。
そう離れていない場所に、もうひとつ生誕地の碑というか説明板が。
こっちのは30mほど離れてるよ!正確な生誕地は駐車場の方!という容赦ない説明が。
どうしてこうなった。
駐車場の方の説明板は『八重の桜』に合わせて、2013年にたてられたようだ。もうひとつの、30m ほど離れてるのは 1995 年に同志社が宮崎家のご支援を得て、この位置に建立したという。
想像でしかないが、1995年 のときは、駐車場の地主や周辺住民が観光地化を嫌ったのであろう。 それで山本家と縁があったか、本当にたんなる善意かわからないが、宮崎さんの家の前に記念碑を建立した。
が、会津戦争ともなると、史料が豊富で、正確には山本家が2~3軒隣だったことも、わかっちゃうのである。 30m の誤差が許せない歴ヲタ・会津ヲタの厳しいツッコミが市にしばしば寄せられたのではないか。
それで、大河に選ばれたということもあり、正確な位置に説明板が建てられたのではないかと想像する。
あるいは、単に会津若松市が大河に合わせて
「同志社の記念碑があるとか関係ねえ。うちはうちで建てるやで。官の力で正確な位置にな!」
しただけかもしれない。
会津をたずねて八十里。殉節越後長岡藩士の墓と碑(福島県会津若松市)
訪問日:2018-08-19
殉節越後長岡藩士の墓入口と書かれた石柱のほうが墓っぽいし大きく目立ってる件。
こういうものがあるとは下調べでは把握してなかった。完全に通りすがりで発見。こういうのがなくちゃ、旅は面白くないよな。予定のタスクをこなすだけじゃ、仕事と変わらない。
とはいえ、会津周辺にたくさんある死んだ兵士の慰霊碑・集合墓地のひとつにすぎない。
会津藩士ではなく、長岡戦争で敗退し会津まで逃走してきた長岡藩士の墓である、という点が、すこし目を引く。
会津藩士とともに戦い、一度は新政府軍を撃退するも、霧にまかれて道に不慣れな長岡藩士たちは孤立。誘導してやれよ、気が利かないな会津藩士。
孤立した長岡藩士たちは、気が付けば敵に囲まれており、全員敗死したという。
八十里越の難関を越えて
ねえ……そんな長距離を移動してきたのに、全滅かー。
まてよ?一里は約4kmだろ?直線路じゃないとしても、長岡-会津間が 320km もあるか?
と、ツッコめたような気になってはいけない。八十里越の難関を越えて
である。
“八十里もの遠路を越えて”ではないのだ。何か変だ、とピンと来なくてはいけない。
そう、これは当然に「八十里」または「八十里越え」が固有名詞であり、リアルな距離ではないことに気づかなくてはいけないのだ。
検索!バシーッ!……はたして、やはり固有名詞だったのである。
>八十里越 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%81%E9%87%8C%E8%B6%8A
こういうのにサッと気づける程度に、私も経験を積んだ。すなわち歳を食った。
燃やされた宿。関山(福島県会津美里町)
この日。レンタルチャリで会津若松周辺の戊辰関連史跡めぐるでよ~…だった日。
最初の目的地は戦死四十人墓だったが、関山はその往還上にあるので、
当然に先に着いたのはこっちだった。
というか、この関山と栃沢の攻防で死んだ会津側兵士を祀ったのが戦死四十人墓なのである。
会津盆地の南端ともいうべき場所で、ここに宿場町があった。峠越えに向かう人が準備をする場所、あるいは峠を越えてきた人がひとやすみする場所という需要があったのだろう。
関山というからには、中世のどこかで関所もあったのだろう。それが江戸時代にも存在していたのかどうかは調べてないのでわからない。あるいは鎌倉時代の臨済宗の僧・関山慧玄和尚に所縁があるのかもしれない。調べてないのでわからない。
ともあれ、会津盆地の南の出入り口のうち、主要なものであったので、新政府軍との激戦がここで起きた。
一進一退の攻防が何度かあり、最終的には会津軍は戦線を支えきれなくなった。撤退やむなしと見るや、会津軍は焦土作戦に切り替え、関山の家々に放火して撤退したのである。関山住民にしちゃ、ひでえ話だ。なにが義だ。
明治初年の「旧高旧領取調帳」によれば関山村という村が存在していたようなのだけど、明治22年の町制施行時には、この辺りは氷玉岡村という名前になった。いろいろ事情があったのかもしれんが、宿場町としていての関山が無事なら、関山村が妥当だったのではないか。完全に壊滅していたか、辛い思い出のある名前を避けたかだと思える。
関山観音なる寺があり、この地区の文化財筆頭であるらしかったが、当日は予定がギッシリだったのでスルーした。
↑、この写真、左端の蔵が合成ミスみたいになってるけど、縮小以外の加工はしてないです。奥にある蔵の下半分が垣根で隠れてるからこうなってる。
戦禍によって町は焼かれ、たとえばここより南の大内宿のように江戸時代の町並みを残しているということはないのだけれど、復興後に建てられたのであろう、明治・大正・戦前あたりの和風建築はポコポコと残っており、なかなか通っていて楽しい町並みだった。
関山宿の南端。ここより先が会津氏西街道の会津高原エリア。湯西川・鬼怒川・日光へと通じます。
谷地に田んぼがひろがっているが、これは戦死四十人墓の近くに圃場整備事業竣工記念碑があったから、戦後の成果なのだろう。うん、ああいう記念碑いちいち立てるなと思っていたが、いま、役立ってしまった。なんてこった。
ともあれ、このあたりから山岳が十重二十重に連なり、せまい街道が通じていたのだろう。
そして戦死四十人墓を見ての帰り道。今度は関山を縦貫する旧道(?)を通らず、迂回するバイパスから眺める。
なるほどねえ……ここで戦闘がねえ……燃やされたんだねえ……という、そのままの感想が沸くのみ。
快晴だった。さらさらと流れる氷玉川を眺め、名前の通り冷たい川なのだろうと思い、景色と空気に私はご満悦であった。だんだんと、旅における自分の好みがわかってきた。こういうとここそ、良い。
うん!ストビューで見たのとおなじ!戦死四十人墓(福島県会津美里町)
訪問日:2018-08-19
この日、私は会津若松城天守の内部鑑賞を
「前にいっぺん見てるし」
とパスして、9時になると同時にレンタサイクルを借り、会津若松市周辺の史跡めぐりに出発したのだった。今年の目的はそれらだった。
そして、最初に向かったのが、この「戦死四十人墓」である。
最初にここに向かったのは、単に予定のタスクの中でもっとも遠かったからだ。時間と体力があるうちにやっかいなやつを潰す。
潰すってアンタ……旅行だよね?楽しみでやってんだよね?
そんなこんなで到着。うわーい!ストリートビューで見たのとおんなじだー!
戦死40人墓。会津周辺には、こうした戊辰で死んだ東軍兵士を慰霊する碑や墓があっちゃこっちゃにある。戦死二十五人墓だの、十一人墓だの、十八人墓だの。四十人は、そのなかでちょいと横綱格という程度のものであろうか。
この看板の文面まで、検索すればネットで見つかる時代だ。はたして、苦労して現地訪問する意味があったのか。
…てなこと言い出すと、ほぼすべての史跡が「実際に行く意味ってある?」となっちゃう。それは危険な考え方だ、やめろ!
こういうものは「そこに実際に行ったのだ、俺は!」という本人の満足に意味がある。
私はこの日、ここで、山と田んぼばかりの景色、セミの声、強い夏の日差し、澄んだ空気、孤独、達成感を味わった。
それで十分だ。思い出だけが人生だ。スタンプなんざ要らねえ。記憶と写真があればいい。
戊辰戦争というと、東から来る西軍と戦った猪苗代方面の戦いばかりが有名だが、西や南もたいがいだったのだ。 戦死四十人墓。べつに新政府軍にも会津にも肩入れしない、冷めた目で戊辰を眺める私であるが、さすがに墓の前では神妙な顔して手を合わせるくらいのことは、する。
10メートルばかし離れたところに、何か碑があると思って期待して見に行ったら、「圃場整備事業 竣工記念碑」。ンモー。
なにか、ネットで得られない収穫があったかというと、あんまりなかったのだけど、そんなことはたいしたことじゃないのだ。行った。見た。満足した。
一人旅なんて、そんなもんである。
エゴとエゴのせめぎあい。江古田合戦関連史跡(中野区および杉並区)
訪問日:2016-09-25
ノープランで中野や杉並をブラブラした日だった。
ほう、このあたりが……と感心。恥ずかしながら石神井城にも練馬城(としまえん)にも伝・平塚城にも行ったことがあり、 豊島氏が太田道灌に敗れた江古田の戦いという合戦があった、という程度の知識はあった。
とはいえ、2018.7.24の時点でウィキペディアには項目がないようだし、重要な合戦ではないのかもしれぬ(暴言)。
いまでは2~4階建ての建物がゴミゴミと林立し地平線が見えぬ。合戦の行われるような平原っぽさが感じにくい。ただ公園がわずかに台地の面影を残すのみかな。
上京して 20 年以上。「えこだ」ではなく「えごた」だと、この日、知った。
しかし、どっちの読みも正しいのだという。
>江古田 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A4%E7%94%B0
あくまで、中野区としての公的な読みが「えごた」ということらしい。
さて、江古田合戦古戦場を去った数時間後、私は杉並区は荻窪にいた。
ここに、道灌お手植えの槙があった。別に目指して来たわけじゃないが、この日は道潅づいてた。
関東管領の上杉定政から武蔵を奪おうと言うエゴで長尾景治と豊島泰経らは謀反を起こした。これに対して上杉定政は部下の太田道灌に二人を討つよう命令。上司に気に入られたい太田道灌のエゴで合戦になったのだった。
まてまて。それ、うっかり見出しで江古田にひっかけてエゴとエゴのせめぎあいと書いたから、しかたなくその線で解説してみたけど、どう考えても太田道灌にエゴはないじゃないか、コラ。
まあ、そんなこんなで道灌は出陣前に当社に立ち寄り、戦勝祈願として槙を奉納したのだという。
剪定したばかりのようで、樹勢だとか迫力にも欠けていた。ただ、槙のもつシュッとしたまっすぐさが感じられるのみ。
ちなみにこの荻窪八幡社のあたりには城山の名が残っている。これは源頼義が奥州下向の際に駐留したことに由来するという。 だとすれば、江戸時代あたりに、荻窪の住人が、うちんとこには荻窪城があったんじゃああ~~~と言ってもおかしくなかった。
たとえば滝野川城(北区)なんか、ただ滝野川氏の居館があったとか頼朝が駐留した、くらいの伝承をもとに、ここに滝野川城があったと言い張ってる。こういうの、結局、
「おらが町にも城がほしいだ」
というムーブメントが江戸時代にすでにあったからだと思うんですよね。
その点、荻窪八幡神社は、うちは元・荻窪城である!と言いたい誘惑に耐えたのだろう。ちょっぴり感心した。
水が飲みたい。岩本町 馬の水飲み場(東京都千代田区)
千代田区岩本町の一角に、空き地と説明板があった。
曰く、江戸時代にはここに荷物を運ぶ牛馬のための水飲み広場があったと。なるほど。
説明板には、特に区の指定文化財があるようには書いてなかった。まあ、そういうこともあろう。
どこにも水飲み器がない。自販機もない。
なんでやねん、という気持ちと、うむ……江戸時代にあったのは牛馬の水飲み台だからな……現代において人間用の水飲み器を設置せねばならぬという法はない。がってんがってん……という気持ち。いりまじり。
ただ、私はこのとき水が飲みたかった。水筒がカラになっていた。
ところで、私の PC の IME はいつになったら、入力したいのは「水飲み器」であって「水野美紀」ではないと学習してくれるのだろうか。
佃の渡し跡にある歌碑がほれぼれするほどチンポ(東京都中央区)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#TsukudanoWatashi
この記事の内容は見出しの通りです。これがすべてで、それだけの記事です。
東京都月島の中央区民文化財「佃の渡し跡」にある劇作家北條秀司(佃島を愛し、『佃の渡し』という作品を残した)の歌碑が、見事な、ほれぼれする、まごうことなき、そそりたつ、男らしい、堂々たるイチモツだったことを、あらためて写真を見て気づき、ここにポストする次第です。
この記事は、ただ、これだけです。佃の渡し跡の写真とか説明とかは、ないです。
まさかとは思いますが、この記事を読んで中央区や遺族が憤慨してこの立派な歌碑を撤去しないことを希望します(なら書くな、こんな記事)。
井の頭の由来? 徳川家光御切付旧跡(東京都三鷹市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#IemitsuKiritsuke
家光がァッ!切り付けたァッ!画面端ィッ!まだ入るゥッ!……みたいな物騒な史跡名であるが、切り付けられたのは樹木である。ご安心いただきたい。これが、井の頭の地名の由来(巷説)にもとづく石碑だという。
はっきり言えば、今日はこれを見に行ったとさえ言える。なぜなら井の頭公園まで行っておきながらジブリ美術館はスルーしたのだから(人混み苦手な奴。といっても一時期ほどの混雑ではないのだけど)
パンフレットにも載っている石碑なわりに、近くに説明板は一切なかった。なので、公式見解的なその巷説をここに記そう。
もともと、ここは七か所の湧水地点のある池として知られていた。江戸に入府した家康はその湧水のひとつを絶賛し、その湧水はお茶の水と呼ばれるようになった。
さて、家光のころ。幕府は江戸城の水不足解消のため、この七井池(のちの井の頭池)から上水道を引くことにした。そもそも2~3千人の兵士のための城であった江戸城で、数万レベルの人数の武士が働くようになったのだから、水不足は当然の結果だった。
そこで、家光自ら、七井池に訪れ、小柄(こづか。いわゆるカッターナイフサイズの小刀)で、弁天堂のそばにあったコブシの木に「井の頭」と刻んだのだという。ここから、この池は井の頭池と呼ばれるようになった……
という話が「江戸名所図会」に載っているので、これをデフォルトとしよう。
そして、巷説というものがたいがいそうであるように、バリエーションが存在する。
まず、上水道の計画にはふれず、鷹狩りでやってきた家光が、上水道の計画とは関係なく、湧水の湧出量の多さに感心して(あるいは水質の良さに感心して)コブシの木に「井之頭」と刻んだという説。
いやいや、感心したんじゃなくて、ちょっとした悪ふざけであるとする説もある。つまり、「井之頭」と刻むことで
「このコブシの木がこの池の棟梁なり~つまり長老の樹?みたいな~~~~デュフフ~コポォ」
と、お戯れになったのだと。
ウィキペディアは、そもそもコブシの木に刻む逸話をスルーした説も載せている。
「えんかしら、この水の美しさ」と家光が驚嘆したことがその後に転じて「いのかしら」になった、とする説もある。
こうなると、もうなんでもありだ。一応、家光がこのあたりに鷹狩りに来たことがあるのは事実らしい。 ただし、コブシの木うんぬんは、巷説の域を出ず、信頼できる一次資料のある話ではないそうだ。
個人的には、7つの湧水を管理することになった管理技術者のお侍さんが管理の都合上、起点となる湧水に「井の頭」と名付けたのが地名になったんじゃないかと思う。あるいは「七井池」のしたに「井の頭」「お茶の水」「××井」「〇〇の泉」……「井の尻」などと、七つのサブフォルダーがあったのだけど、そのうちに「井の頭」が他の6つや親フォルダーにとってかわって、全体の地名として定着してしまったかじゃないか。
石碑は深川水船組が明治時代に立てたもの。くだんのコブシの木は枯死して残っていない。
深川とは埋め立て地で、井戸を掘っても海水が出てくるような土地だった。現代のような水道設備のない時代、人々は、水売りから水を買っていた。それが深川という土地だった。深川水船組は、その水売りの業者である。
うちは良い水源のおいしい水を売ってますよという宣伝と、メシのタネである水源への恩返しで石碑を立てた感じだろうか。
これは子孫の木ではないが、井の頭公園内にあった、なかなか立派なコブシの木。
なるほど、樹皮が白く、ラクガキしがいのありそうな木である。
説明板が無きゃただのトマソン 中島飛行機橋台跡(東京都武蔵野市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#NakajimaHikoki
長くなるので見出しを端折ったが、正確には『中島飛行機 武蔵製作所 工場引き込み線 橋台跡』
中島飛行機。戦前の航空機メーカー大手で、隼を作ったり、零戦にエンジンを提供したりしていたそうだ。
>中島飛行機 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F
つまり、現在、武蔵野中央公園となっている場所に中島飛行機の武蔵製作所があり、製品を運搬する電車の引き込み線があり、その線路が玉川上水を越える場所に橋があり、その橋台が残っているというわけだ。
私は今のところはWW2遺構にあーんまり興味がないので、そうなのかフーンくらいの感銘しかなかったが……
しかし、これ説明板が無かったら、ただの超芸術だ…ぷり面白かった。
面白すぎて、カメラのレンズに指の油もべったりつくわいな(関係ない)
史跡でもなんでもない解体撤去された建造物のそばに、さももっともらしい説明板を立てたら、意外とだませるかもしらんね。 誰もフェイクと思わず、善意のマッパーが OSM や Wikipedeia に投稿して、それをソースにしてさらに……
町おこし、村おこしのヒントがここに!(コラコラ)
ローポリでがんばってる感 旧弾正橋(東京都江東区)
訪問日:2016-05-21
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#DanjoBridge
訪問したのは、一之江名主屋敷を訪問した帰りの事。
旧弾正橋。現在は富岡八幡のとなりにあるので、八幡橋とも呼ばれている。
日本産の鉄のみで作った、(外国人技師による技術指導はあっただろうが)まあ、国産の最初の鉄橋だ。国の重要文化財に指定されている。
アーチが鋳鉄製、引張材が錬鉄製による鋳錬混合の独特な橋ということだ。
鋳鉄というのは、型に溶かした鉄を流し込んで冷やしたものだ。お釜だとか、南部鉄器とか、マンホールのフタなんかが鋳鉄である。
錬鉄というのは、鉄が熱いうちに叩いたり圧したり伸ばしたりして鍛えた鉄のことで、フライパンだとか日本刀だとかだ。
それぞれ、性質が違うのであるが、旧弾正橋の鋳錬混合というのが、何か意図があってそうしたのか、当時の技術的な限界で、そうせざるをえなかったのか、私にはちょっとわからない。
橋を渡ったところに説明板がありますという説明板。いらんやろ、というか見た目がだいなしですやん。
明治十一年の架橋時はアスファルトじゃなかったんではないか?と思うけど、どうだろうか。
まあ、現代の巨大なアーチ橋も近づいてみたら、けっこうポリポリしてるものだけど。
細い引張材をがんばって固定してるところに、国産初の鉄橋らしさを感じる。
西洋式の溶鉱炉で作り出した貴重な国産鉄を、無駄なく使って、いっしょけんめい橋を作りましたって風に、プレステ・サターン時代のポリゴンゲームのノリを感じた。
さて、この旧弾正橋は、もともと京橋(中央区)に架かっていたものを移設したという。
いま、架かっている富岡八幡宮の東隣は、
「ここ、橋が必要?」
という感じで、正直、もっと良い場所があったのではないかと思えてならない。
が、方向や光線によっては、なかなかのハンサムさんである。角度美人か。
こうして橋の裏まで鑑賞できるのだから、あまり贅沢を言うもんじゃないのだろう。
ちなみに、旧弾正橋のほど近くに、旧新田橋なる鉄橋も移設されている。
こちらは昭和七年に民間の医師・新田清三郎が中心になって江東区の木場に架橋された橋で、土木史・技術史的に重要な橋ではなさそうだ。
当初は新船橋と名付けられたものの、人々に慕われた新田医師の人柄もあり、いつしか新田橋と呼ばれるようになったのだという。
また、新田医師は不慮の事故で亡くなった妻の橋供養として、近隣の人と協力して架橋を計画した。
土木史・技術史的に重要な橋ではなさそうだけど、社会学・文化人類学的に興味深い橋だとはいえそうだ。
うん、ただの土手だ 沖田総司逝去の地(東京都新宿区)
訪問日:2016-01-16
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#DeadPoint_of_Okita
新宿区内藤町。『大京町交番前』という交差点の一角に、その看板は立っている。
伝・沖田総司逝去の地。特に史跡指定されてないのは、単に伝承であって証拠はないからだろう。
逆に言えば、言い伝えがあるだけで、史跡認定されてなくても看板が立つ、沖田総司ブランドの強さ。
私はあんまり、新撰組のことを知らないので、すなおにウィキペディアを鵜呑みにしよう。
>沖田総司 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%B7%8F%E5%8F%B8
なるほど、病気療養のため江戸に送り帰され、植木屋にかくまわれたまま病死したとある。
病気のため途中で戦線離脱したことは知っていたが、近藤よりも二ヶ月、長生きしたとは知らなかった。
さて、その伝承のある沖田総司逝去の地は、どういう場所にあるかというと……
植木屋平五郎の屋敷は「このあたり」ということなので、まあ、付近のマンションのどこかか。 看板を立てられるのがここくらいであったということだろう。
むしろ、説明板にあったざっくりとした説明に着目したい。
高遠藩内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
とある。玉川上水の余水吐扱いでは童謡『春の小川』のモデル説もある渋谷川に失礼な気がするが、厳密には、ここは渋谷川の支流である穏田川になる。
>穏田川 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8F%E7%94%B0%E5%B7%9D
もともとは、高遠藩内藤家屋敷(現新宿御苑)内の玉藻池の湧水を水源とする小川だった。池尻橋というのは池尻大橋(世田谷区)とは無関係で、玉藻池の末端に橋があったのだろう。
この小さな川が、玉川上水の余水吐、つまり、水量が多くなったときの副流路として使われることになり、グンと水量が増えた。
おかげで近隣の田畑は安定した水量の恩恵を受けることになったが、同時に、高い土手も必要になった。
いま、新宿御苑の東側の地形図を見ると、わりかしくっきり、四谷の玉川上水取水口跡のあたりから、この沖田総司逝去の地まで溝のような地形が残ってるのがわかる。上の写真の場所もしっかり土手してるので、地形図は正しそうである。
ここ、沖田総司逝去の地としてアピールするより、玉川上水余水吐跡として保存活動やるべきなんじゃねえかと思えてならない。
最近、土木遺産めぐりしてるからね、私。
穏田川も渋谷川も大半は暗渠化されてしまったので、痕跡が残っているのであれば、中々重要ではなかろうか。
このさき、ヒマができるか、あるいは再び通りがかったら、本当に地形図の通り、痕跡が視認できるかどうか、じっくり確かめてみたい。宿題!宿題ィ!
凝ったギャートルズ 松渓公園(東京都杉並区)
訪問日:2015-10-06
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#ShokeiPark
地方出身者の首都圏住は、中央線を基準にして位置を把握するという偏見を私はもっている。ソースは私。
だから、
「荻窪はなんとなくわかるけど……」
という人のために雑に説明すると、荻窪駅から南に 1km くらいのところにある小さな公園だ。
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.6950&mlon=139.6217#map=15/35.6950/139.6217
ここで、縄文時代早期の土器や縄文時代中期の住居跡が見つかり、発掘調査が行われ、その後、杉並区は遺跡をそっと埋めて普通の公園にした。
また発掘が必要になったら掘り返せばよく、それまでの数千年と同様に地下で保存されるというわけである。
下手に推定竪穴式住居を復元して放火リスクや監視コストを背負うより、うまいやり方である。
とはいえ遺構としては何もないわけであり、ぶっちゃけ、ここが遺跡だったよというだけでは、私もブログ記事にしにくい。
が、ここにはひとつ、私の琴線に触れるすてきなものがあった。
わしゃ、ギャートルズが好きでのう。
調べたところ、生前に園山先生が杉並区に住んでおられた縁で、このイラストが作られたのだそうだ。
杉並区内に、二種三か所、園山先生のイラストがあるという。もう一種あるのか、いつかは見に行かなくては。
そんで、わしゃギャートルズが好きでのう、と言ってたくせに、私はこのとき、この看板をスナップ的に低解像度でしか撮らなかった。
が、よく見ると、凝りっぷりがすごいのである。
石斧の刃のディティール!磨製石器じゃなくて、ちゃんと打製石器の刃になってる!
縄文式土器を、ひも状の粘土を積み重ねて作ってるところ!リアル!
どんぐりを石臼で潰して調理してる母親と、骨の髄を吸っている幼児。ちゃんと見ないと気づかんわ、そんなん!
骨の色が白じゃないのは、彩色を担当した業者のケアレスミスだろう。
マンモスじゃなくてイノシシなのもリアルだが、少年が持ってるものに注目。
ヤマイモである。
つまりこれは、イノシシを狩ろうとして逆襲されているわけじゃなく、ヤマイモ採集中にイノシシに襲われたの図なのだ。
そう、貧弱な石器しか持たない縄文人は、鹿やカモシカは狩ってもクマやイノシシなど危険な動物を狩ったりは、よっぽどでないとしない。
園山俊二先生は、この絵を制作するにあたって、熱心に取材なされたそうな。
>公園で『はじめ人間ギャートルズ』園山俊二氏の案内板発見! | リビングむさしのWeb
http://mrs.living.jp/musashino/town_news/reporter/1401072
私の中で、
「地平線を描けばそれで幸せと言っていた漫画家・園山俊二」
のイメージ、大崩壊である。いい意味で。
漫画家は、だいたい、真面目なのである。ギャグマンガ家は特に。真面目を熟知していなければ不真面目は描けないものだ。
残念なのは、杉並区のウェブサイトで、この看板の情報が検索しても皆無だった。
宝の持ち腐れ、灯台もと暗し、ブリスターパックから出して遊ばないプレミアフィギュアである。
漢字が難しい? 船圦川跡(千葉県浦安市)
訪問日:2015-10-29
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#hunairigawaato
都市化にともない暗渠化アンド緑道化された、かつての河川。それ以上ではなく、私も写真を一枚撮ったのみ。
散歩するにはよさそうな緑道だ。
船圦《ふないり》川。千葉県浦安市にあった、全長約 550m の短い川。
当代島を開墾した人物が開削したという伝承が残るが、事実かどうかは定かではない。
どのへんに疑う余地があるのか、自然河川の可能性がどこにあるのか私にはわからないが、埋め立て工事の際に、人工河川の証拠になるようなものが発掘されなかったということか。
その名の通り、舟が出入りする当代島の江戸時代の玄関口だったから船圦川と呼ばれた。あとは、この地域の貴重な生活水源であったらしい。
ほかに面白い逸話があるわけでもなさそうで、史跡として正直に言って、魅力的なものでもない。実際、私もただ、通りすがっただけだ。
ただ、史跡とは別に興味深い点がひとつある。船圦の「圦」の字だ。
私は最初、船入川だと思い込んで写真のファイル名もそのようにつけていたから、さて浦安市のサイトに説明でもないかと検索した際、まったくヒットせず焦ってしまった。
そこで、「いり」が「圦」なのに気づいた次第。
「圦」。あらためて見ると、知らない漢字だった。私がそんなに漢字が得意な方ではないというのはさておき、読めない字。調べてみよう。
>圦(イリ)とは – コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A6-436354
>圦 – ウィクショナリー日本語版
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%A6
ようするに、「水の出入りする場所。樋口」を意味する漢字。日本で作られた国字であって、音読みはない。
これはあれですかね。
「てやんでえ!樋口とか樋菅とか呑吐樋とか水門とかイチイチ書いてた日にゃ、温気の季節にゃ紙と墨が腐っちまわぁっ!こちとら江戸っ子でいっ!俺ァ、新しくて画数の少ない漢字を作るぜ!これが仕事の効率化ってもんよ!」
と考えた輩がおったんでしょうな。
考え方としては悪くなかったけど、作られた漢字は、あまりに抽象度が高すぎた。 土編に「入」では、説明されなきゃ、それが水門や樋口を意味するとは伝わらない。 よって、あーんまり普及しなかったのだろう。
もし普及してたら、利水施設関係をつぶやくとき、今より字数を少なくできただろうにね(そうだろうか?)
引又河岸跡と引又観音堂(埼玉県志木市)
訪問日:2015-10-23
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#hikimata
埼玉県と東京都を流れる新河岸川(板橋区の高島平あたりから下流は隅田川)は、江戸時代の江戸を支える、物流の大動脈だった。
水運のために九十九曲がりと呼ばれるほど、川を蛇行させていた。そうすることで、必要な水量を確保し、また、流速を押さえていたのだ。
そして、一里(2.7km)おきどころか 1km おきくらいじゃねーか?ってくらいみっしりと、そこかしこに河岸と渡船場が連なっていた。
現在の志木市市役所にほど近い、新河岸川と柳瀬川の合流点付近には、引又河岸があり、ここは新河岸川の中でも1、2を争うほど栄えた河岸、物流の要衝だったいう。
しかし、近代化の流れは残酷だった。洪水対策のため九十九曲はまっすぐに直され、流速は早くなり水量は減り舟の通行が困難になった。昭和6年に通船停止令が出され、新河岸川は物流の大動脈としての役目を終えたのだった。
いま、かつての引又河岸の面影を残すものは、ほとんど残っていない。 大正時代、水量が減り始めたことの対策として、すぐそばの宗岡に築かれた宗岡閘門《こうもん》は、埼玉のパナマ運河と呼ばれたが、先述の通り昭和6年の通船停止令によって無用の長物と化した。
それでも、残しておいてくれりゃあよかったのに、1980 年、水流の妨げになっている(=洪水リスクの一因)という理由で、わざわざ撤去されたのである。くそう昭和め!おまえが!おまえが!
というわけで、かつての引又河岸の跡には記念碑が立っているだけとなっている。
宗岡閘門があった柳瀬川との合流点には商家の古建築である村山快哉堂が移築され、その近くには、かつての宗岡閘門の古写真を掲示した説明板があった。
後悔は先に立たないものだ。人間の想像力とは貧しいものだ。かつて、無用の長物として明治維新期に日本の城が破壊されまくったが、運よく破壊されずに残った城は、昭和には有力なコンテンツとなった。
それを見ていながら、埼玉のパナマ運河と呼ばれたほどの閘門が将来、価値を生むとは思わなかったのだから(そういう声がまったくなかったとは思わないが、つまりは、行政を止められない程度に声は小さかったのだ)。
ちなみに、引又という地名には諸説あって、志木市のサイトでは
「船を曳《ひ》きながら、柳瀬川をまたぐ場所だからという説もあるが、蟇俣と書かれた例もあり、合流点の地形がヒキガエルの伏せた姿に似ているからだろう」
としている。
>志木市の歴史 – 志木市ホームページ
https://www.city.shiki.lg.jp/sp/index.cfm/53,2415,263,html
たしかに川をまたぐから、てのもこじつけくさいが、ヒキガエルの伏せた姿ってのも、どっこいどっこいではないか。
私はもっと単純に考えたい。合流点ってことは、見方を変えたら分岐点だ。舟を引く俣(川の分岐点の意味)だから引俣、転じて引又だと思う。あるいは、川の分岐をマタヒキ(モモヒキ/サルマタ/ズボン)に見立て、分岐してるんじゃなくて合流してるから、ひっくりかえしてヒキマタとなったとも考えられる。
正解が定まってないことは、好き勝手に無責任に妄想を述べられるからいいね。
さて。
引又河岸の近くには、水の事故で死んだ人を供養するため、観音様が祀られていた。 水辺の職場だけに、そういうことも多かったのだろう。いまで言えば福利厚生のしっかりした職場みたいなものだ。
この観音様も、河川改修工事で移動を余儀なくされた。
お堂はもともと昭和42年に建てられ、平成8年の河川改修の際に、ここへ移されたのだという。つまり、古い建物ではない。
そして、昭和42年に観音様をお堂に入れたさい、ついでに、付近の田畑にあった馬頭観音二体も一緒におさめたのだという。
観音様たちだって、ひとりでいるよりいっしょにいたほうがさみしくなくていいかもしれん。
が、農作業で死んだ馬や牛を供養するための観音と水難事故で死んだ人間を供養する観音様を、一つ屋根の下に集わせて、参拝者もまとめてお祈りするというのも、なかなか乱暴な話だ。
昭和42年。牛馬を供養するということもずいぶんと減ったころだ、無理もない。
ところで、私はいまいち、馬頭観音というものが、どういう観音様か、知らなかった。
実際、↑は馬頭観音のインドにおけるオリジナルであって、ハヤグリーヴァだ。
これはケモじゃなくてケモコス定期、である。
ウィキペディアによると、日本における馬頭観音はほとんどケモコスで描かれたり彫られたりしてて、インド式のガチケモな馬頭観音は(日本では)ほとんど例がないのだそうな。
>馬頭観音 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3
やはり、日本でガチケモがメジャーな嗜好になるのは難しいのか……と、わずかに残念な私だった。
やるじゃん戦前デザイン 京浜急行電鉄デハ268号(東京都新宿区)
訪問日:2015-10-06
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#deha268
これまた通りすがりだ。私は(今のところ)鉄属性をさほど持ってない。毎年のように18きっぷで旅行してるのは、経済的な理由であって、鉄道好きだからというわけではないのだ。
たいして興味はないが、それはそれとしてもったいないので、公園などに保存されている古い車両を見かけたときは素通りせず、いちおう念のため、撮っている。
そんなんだから、説明板も撮るだけ撮っただけで、ちゃんと読んでいなかった。
今回、ブログにポストするにあたって、あらためて読んで
「え!あ?そうなの?これ、戦前から活躍した車両なの?えー、やるじゃん戦前!しょうわのくせになまいきだー」
と思った。
この電車が、東京の若者を次から次へと戦地に送り出したのだと思うと、なかなか考えるものがありますな。
この電車が、東京の子供たちを疎開させるために送り出したのだと思っても、考えるものがありますな(フォロー)
ちゃんと説明板を読まずに見た目の印象だけで、
「まあ、戦後の復興期に生まれて活躍した車両なんやろね」
くらいに思ってたので、戦前デザインのなかなかの洗練ぶりに驚いたという話。
参考のためにウィキペディアも読んだけど、ウィキペディア(日本)の鉄道系項目にありがちな説明が細かすぎて逆によくわからないの顕著なやつだった。
>湘南電気鉄道デ1形電車 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E5%8D%97%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E3%83%871%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
ところでこの、新宿区西落合のデハ268号、公園などではなく、ある会社の前に展示してある(それが面白かったので、素通りできずに撮ったというのもある)。
PRECISION RAIL MODEL。直訳すれば“精巧な鉄道模型”。
……が、PRECISIOBN の意味がわからない程度の英語力の私はこのとき、
「よくわからんけど、この車両の設計とかに関わった会社かな?」
とテキトーな憶測(妄想とも言う)で自分を納得させた。
ホビーセンターカトー。真実を知ったのは、この記事を書く直前、わかりづらいウィキペディアを眺めたときだった。
蟇股のワンポイントおしゃれ 中道寺鐘楼門(東京都杉並区)
訪問日:2015-10-06
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=9292#ChudojiShoromon
これもまあ、通りすがりだ。この門を見に行ったわけでもなければ、2017 のいまも中道寺がどういう寺なのか知らない。
>16 中道寺 【寺院】(荻窪2丁目25番1号)|杉並区公式ホームページ
http://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/hyouji/1007894.html
ざっくりまとめると、日蓮宗のお寺で、鐘楼門は 1773 に建てられたよ!けっこう古いよ!区内では珍しいよ!という話だ。
杉並区は上記のように説明板の説明文がウェブに転載されている。神がかり的にすばらしい。 が、中堂寺鐘楼門については、説明板ではなく説明柱であり、その文章は区のサイトにアップされているものの PDF な上に文章を画像化していた。悪魔憑き的にげすげすしい。
鐘楼門。土地不足は江戸時代から始まっていたのだろうか。 鐘楼と山門を一体化させた、ラジオ付き懐中電灯みたいな門だ。
門を通るとき鐘を突かれたら、さぞやうるさかっただろう。
禅宗様ってことは禅の様式なんだろ?虚飾を排した色即是空空即是色なんだろ?という誤った思い込みを抱いていた。
実際には禅宗と同時期に中国からもたらされた中国の禅寺を手本にした建築様式のことだ。それまでの、日本で独自の進化をした和様(元々はこちらも中国の様式だったのだが)に対し、この新しい元や宗の建築様式は主に唐様または禅宗様と呼ばれた。
ぶっちゃけると、最新中国式!くらいの意味であり、それ以上でも以下でもない。NYではいまこれが流行り!みたいなもんだ。
が、現代になって、唐様だと英訳するとチャイニーズスタイルになっちゃう!主語がでかすぎる!ということで、主として禅宗様という語を使うようになったというわけだ。
結果として、中国風を取り入れた寺が、私のような字面だけを追うアホに、
「禅宗用か。ってことは禅寺なんやな?それにしてはデーハーすぎませんかー?」
などと誤解される原因となった。
え?個人の誤解を一般化するな?主語がでかい?ごもっともごもっとも。
禅宗様は必ずしも装飾性を抑えた建築ではない。オーケー理解した。そして、それはそれとして、
このワンポイントのカラフルな蟇股は、江戸後期の成熟した美意識を今に伝えている。