近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー



[城址] 2018年の陸奥国 会津若松城(福島県)

この記事どう? ええよ~

8 年ぶりの会津若松城

会津若松城天守

訪問日は 2018-08-19。

2018 年8月。戊辰戦争に関連する城と史跡というテーマで旅行をし、8年ぶりに会津若松城へ足を運びました。

前回、2010 年の訪問の様子は以下に示すエントリに記しています。記したのは 2018/9/14 ですが。

 >2010 年の陸奥国会津若松城 | 桝席ブログ
 http://www.masuseki.com/wp/?p=9906

つまり、順序を多少、気にしてしまう性分の私は、2010年訪問時のことを書かずには、2018 年訪問時のレポが書けなかったのでした。まあ、長かった。日々は色々と忙しいです。

2010年の訪問は一月、真冬の最中でした。2018 年の訪問は8月、真夏。あと2回は訪問したいものです。春と秋に。

前日に越後村上城越後新発田城を訪問したあとで、夜に会津入りし、明け方から活動開始。城ヲタの朝は早い。

ってんで、

城南から城東

鶴ヶ城入り口。南門。時刻は 06:42 頃。
鶴ヶ城入り口 (南)

草が生い茂ってて空堀なのか、少しは水があるのか、わからない。
城南 山王丸付近の濠

廊下橋門。前回訪問時は写真を撮ってない。
廊下橋

当時は城巡りをはじめたばかりで、
「虎口って重要らしいねー。はふーん」
くらいにしか関心を持ってなかったのですね。

城域をひととおり回るものの、現在のようにひとつの城で数百枚撮る、というほどにはねちっこい取材はしていませんでした。 使ってた SD カードも 2GB とかでしたし。

廊下橋から見た濠。
廊下橋から見た濠

「おお、菱だ菱だ。まきびしにもなるし、食料にもなる菱だ」
ということがわかると楽しいので、城マニアは城ばかりでなく親水公園などにも行っておくとよいです。

二の丸跡。現在はテニスコート。前回訪問時にはこういう、城址公園の外の遺構なんか目もくれませんでした。
二の丸跡

それは下調べもせず訪問してたから、周辺に残る遺構を把握していなかったせいでもあります。

いまでもそういう、急遽、予定を変えての思い付き訪城をやることが少なくありませんが、
「この夏は会津若松城に行くぞ!」
などと、予定に組み込んだときは下調べするようになりました。

個人的には行き当たりばったり旅行の方が好きですが、結局、予算と時間をムダにしたくないアンド半分は仕事だから……という理由で、現実に敗北し下調べをしています。

二の丸跡に向かったってことは……そう!廊下橋から本丸方面へは進まなかったってことですよ!イベントを進めるのは現時点で行ける範囲の宝箱をすべて開けてから!JRPGの鉄則!
廊下橋

東門あたりに来ました。石垣の積み方が他の場所と毛色が違いますね。江戸時代後期の新築または改築の石垣と見ましたが、はたして?(別に正解を調べたりはしません)
東門あたりの石垣

東側は濠の高低差が大きくて迫力があります。
東門土橋から見た南側の濠

三の丸跡。現在は駐車場。下調べが不十分で、この先に三の丸堀跡の遺構があると知らず、引き返してしまいました。
三の丸跡

たいした遺構じゃなさそうですけどね!きっとすっぱいブドウですよ!

博物館だか美術館だかでは刀剣展が開催中。時間の都合で見ませんでしたが、このイラストは気に入りました。
刀剣展が開催中だった

東門跡。北・西・南にくらべると防御力が低い印象。遺構の残りが悪いせいなのか、そもそもさほど堅牢に作ってなかったのか、わかりませんでした。
東門跡

東には山があり天然の土塁となりえますから、お金をかけなくてもいいという判断があったのかも。

このへんに埋門があったらしいです。いまや跡形もありませんが。
埋門跡

やえちゃん。かあええのう。
やえちゃん

コンテンツとしての山本八重(新島八重)が難しいのは、不美人だという評価があり、写真が残っており、たしかに多くの人がに美人だとは判定しないであろう容貌をしているからだと思います。

美人にしてしまうと、どうしても嘘くさくなってしまう。だからといって、リアルにブスに描くと、そりゃあやっぱりウケない。誰得になっちゃう。商業的な成果が出ない。

上に示した看板の「やえちゃん」は、美人ではないという点をギリで守りつつ、でもかわいいという難しい課題をクリアしている稀有な例かと思います。デフォルメキャラならではという面はありますが。

城南から城東

というわけで、まだまだ城の周辺を散策。萱野権兵衛屋敷跡。
萱野権兵衛屋敷跡

萱野権兵衛は会津藩家老で、藩主・松平容保の除名のかわりに戦争責任を負わせられ切腹させられた人です。 席次順なら引責切腹となるのは西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助の三名だったと記憶していますが、記憶違いかもしれません。ともかく、田中と神保は戊辰戦争中に自刃しており、すでに亡き人。西郷頼母は追放され行方不明。誰も切腹しないんじゃ新政府軍の腹の虫がおさまらないってんで、本来なら死ななくていいはずだった萱野権兵衛に切腹のお鉢が回ってきたわけです。ああ無情。組織の歯車なんかになるんじゃなかった。

そして、結局、西郷頼母は生き延びていたことが判明するので、会津人の西郷頼母憎しはますます高まったのでした。

しかしまあ、ホームシックを留学先の九州で同級生にからかわれ、屈辱を晴らすために県道試合で優勝したのち切腹したという、萱野権兵衛の次男の逸話は、まったく感動できませんね、私は。

死の理想化・美化は江戸時代以降の武士の普遍的な価値観かもしれませんが、会津藩では特にそれが行き過ぎた感があります。 この現実離れした自殺の美化・戦略的屈辱許容の軽視が太平洋戦争(そしてその敗戦)につながっていった側面は否定しがたく、こういう逸話を美談扱いしたくないというのが正直な気持ちです。

自刃白虎隊生家案内図。
自刃白虎隊生家案内図

大事な点がふたつ。
(1)自刃したのは白虎隊のうちの一部の隊。
(2)このレベルのガチ勢向け案内板が町角に設置してあるという驚異。

問題の西郷頼母邸跡。ほんとうに何も残ってません。碑が立つのみ。逆光ですみませんのう。
西郷頼母邸跡

碑の前には裸の女の人がたくさん載ってる雑誌がお供えされていました。昭和か。
お供え物

西郷邸は、そこで西郷家の女性や老人が二十名以上、自刃なされていたわけで、私は沈痛な面持ちで顔を伏せ、エロ本を目にし、チン痛な面持ちで顔を上げたのでした。はい、うそです。

西郷邸は城の北東、松平家墓所のちかくに会津武家屋敷として復元されています。 「西郷頼母邸」とおおっぴらにうたわず、「会津武家屋敷」という呼称であるところに、会津における西郷頼母の立ち位置がよくあらわれている気がしますね。

西郷頼母邸の反対側は家老・内藤介右衛門の屋敷跡。庭園が残っています。
内藤邸跡

ようやく本丸に向かいます。8年前と同じく、北から。これは和菓子屋さんの会津葵本店。カステラなど南蛮菓子も扱ってるそうです。
会津葵

この古ぼけた顔出しに顔を出したい誘惑は前回訪問時も今回訪問時もあったのですが、結局、めんどくせえに敗北しました。
顔出し看板

真冬の訪問だった前回時は凍ってたお濠も、この通り。緑が深い。
北出丸付近の濠

北出丸 追手門虎口。
北出丸 追手門跡 虎口

お城について右も左もよくわかっていなかった2010年でさえ、ここの堅牢さはさすがに感じました。あらためて見直して、やはり感服。 うん、すごい。降伏までの1ヵ月、薩長の侵入を阻んだだけのことはある。
北出丸 追手門跡 虎口

濠も良い。
北出丸付近の濠

さらに進みます。枡形。
北出丸 枡形

太鼓門。
太鼓門跡

路面の一部が赤だったのだけれども、何か意味があるのかどうかはわかりませんでした。説明は発見できず。なにかの遺構の位置をしめしてるのかもしれないし、たまたまかもしれない。
太鼓門跡前

ででーん。天守(外観復元)。前回訪問時に見た、すこし雪のかかった冬の天守もよかったけど、夏の天守もよいものです。
会津若松城天守

なにより、カメラを持つ手が寒さで震えないのがよいです。

夏に見ても、冬同様に天守台石垣の傾斜がゆるい(あたりまえ)。
天守台

吹き替えられた特徴的な赤瓦が、そんなに赤く見えないのはカメラの絵作りのせいなのかしら。人に聞くない、自分の記憶はないのか?>俺氏っていう。
会津若松城天守

まあ、シャアザクのランドセルの色に近かったような気がします>赤瓦。
会津若松城天守

黒瓦に赤い欄干でも、赤瓦に城い欄干でも、特に「どっちが好き」というのはないですね。しいて言えば夏と秋は赤瓦が似合うだろうし、雪のつもったときや桜の季節は黒瓦が似合うと思う。
会津若松城天守

ちなみに、2018 夏旅行での訪問時は、スケジュールの都合で天守内部には入りませんでした。
会津若松城 天守

走長屋と干飯櫓内部も同様にスルー。いいんだ、前回訪問時に見てるから!(とはいえ干飯櫓の石落しはもう一度詳細に鑑賞したい気持ちがありました)
会津若松城 復元干飯櫓

つまり、2018 夏旅行ではほかに見たいものがたくさんありすぎて、一度見ている天守内部は、優先度が低かったのです。外観復元コンクリ天守だから、建築として内観に見るべきものは少ないですし。展示品は充実してはいるし、天守からの眺め(夏バージョン)を見たい気持ちはありましたが。まぁ、のちの機会にでも。

これだけ楽しませてもらいながら施設にお金を落とさないという罪悪感はちょっぴりありました。

この写真をトレスしてアナログ絵を描きました。デジタルデータの使用権を素材サイトで販売中です。
会津若松城 天守と走長屋

麟閣。千利休の息子の茶室であり、重要文化財だとは思うけど、個人的には造形にさほど良さを感じません。天才の子、天才ならずか。
会津若松城 麟閣

何回、廊下橋を取れば気がすむのかしら、このひとは。
廊下橋

廊下橋門の枡形。かかか、かっこいい!大きさが!角度が!ソリッドが!サーフェイスが!
廊下橋門 枡形

パノラマ合成してみましたけど、こういうのはパノラマではなくロングショットで撮るべきですね。
会津若松城 復元表門(鉄門)

東南隅土塁の上から。
東南隅土塁の上から

こんな所をぶらぶら徘徊する時間があるなら、天守内部見ればいいのにって?そうね、時刻は 8:45。復元天守の開館時刻は過ぎていましたね。でも、ここからの眺めを撮る方が重要だったんですよ個人的に!わかってくださいよたのみますよ。

そして9時に鶴ヶ城の観光案内所に行き、レンタルサイクルを申し込んだのでした。天守に入場料を落とさなかった罪悪感は、これでチャラになりました。チャリだけに。……うまくない……ぜんっぜん、うまくないぞそれは……

ちなみに自転車は、ブレーキが、壊れてはいませんでしたがキーキーと音がし、油が差されてない感じでした。 地方の観光案内書の提供するレンタルサイクルって、その程度の整備のものが多いのですが、 整備不良による事故がおきた場合の責任とか賠償とか、リスクマネジメントを考えてないところが多いような気がします。

もっとも、考えたら考えたで、じゃあ責任を負えないからレンタサイクルの提供をやめようかとか、整備費が必要だから利用料を上げなくちゃ……となって、各地の城観光においてレンタルサイクルを必要とする自分の首をしめる結果になりそうで……ああもう、にっちもさっちもチッチもサリーも。

城西~城南~城東

ともあれ、レンタルサイクルで城の外へ。
西口の濠

古川。城の南には湯川新水路があるけれども、名前の通り近代以後に開削された水路だから、これは城の防衛線とは考えられません。もしかしたら、小川レベルの小河川があったのかもしれませんが。だから、城南の防衛線はこの古川であったと考えるのが妥当でしょう。
古川

会津鉄道とJR只見線をまたぐ跨線橋の上から。光学3倍のコンデジの手持ちなんで、こんな写真。すみませんのう。 城南の跨線橋から見た天守

天守内部を断念しても優先したのは、周辺の戊辰戦争関連遺構。それこそが今回の旅の主目的。南の会津美里町へ向かいました。

それらについては別エントリにポストしています。まぁ、ちょっと戊辰関連じゃないものも混じってますが。

戻ってきました。ちょっとだけ鮮明になったのは光線の具合なのか午前と午後の光量のちがいなのか。
城南の跨線橋から見た天守

 

夏の午後の会津若松城

北西隅あたり。この辺は高低差が小さく、東高西低の地形が実感できます。
北西隅の濠

排水口を確認したり。江戸時代とは変わってるかもしれませんが。。
西側の濠の排水口

そして、すぐには城に戻らず、市内の遺構めぐり。

このあたりで自転車返却リミットである 16:00 が近づいてきたので、鶴ヶ城へ戻ります。

帰りがけの駄賃に、佐川官兵衛顕彰碑。主戦強硬派で戦果も華々しく大いに気を吐いた会津藩士。顕彰したい気持ちはわからなくもないけど、彼がいなかったら会津戦争はもっとソフトランディングしていたのかもしれないと思ったり思ったり。
佐川官兵衛顕彰碑

ついに廊下橋門を通過して本丸に向かいます。
廊下橋門虎口

自転車を返却したので、ふたたびゆっくり復元天守を撮影。午後の光線が良い感じ。
会津若松城 天守

鉄門は日陰で黒潰れ。ううん。
会津若松城天守と鉄門

梅坂を見て……
梅坂

西出丸。まだこの日のタスクは残っていたので、ここらへんは駆け足。ちょい消化不良。次回以降の宿題ですかね。
西出丸

このあと、(レンタルサイクルは返してしまったので)日没まで徒歩で市内の遺構めぐり。

というところで、日没。

え?なに?戊辰戦争史跡巡りといいながら、自殺の名所(白虎隊的な意味で)の飯盛山に行ってないのかよ!ですって?

それは翌日のタスクにきまってるじゃないですか!

というわけで、明くる 2019 年 8 月 20 日のレポートは、そのうちまた、ブログを書く時間がとれたときのお楽しみに!


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