目が覚めたらそこに米沢城、な訪問
訪問日は 2018-08-22。
2018 年、夏。戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐるというテーマで旅行をし、夕暮れ間際に慌てて二本松城を見た私は、もう、完全にグロッキー状態でした。
二本松城を見た後、駅まではバスで戻ったらしいのですけど、記憶が飛んでます。 復路の写真が少なく、バスの窓から撮ったっぽい写真だったので、おそらくそうだったのだろう、みたいな。
この日、そのあと撮った写真は3枚。
なぜ撮ったし。と思うけど、記録と言う意味でありがたい。記憶が飛んでるので。
何という駅だか記憶がないのでわからないけど、論理的に考えて福島駅しかありえない。
おそらく車中はずっと寝てたと思います。ちゃんと乗り換えできてて、記録写真まで残してるとか上出来すぎる。意識もうろうのときの方が性能がいいんじゃないか?自分。
さすがに起きてたので、ここからはうっすら記憶があります。
予定では駅から 3km ほど離れたネットカフェに泊まるつもりでした。
しかし、このときの私はもう、その 3km を歩くのがいやでした。
「眠い眠い眠い眠い眠い眠い眠いああ眠い。起きてまた米沢城まで 3km 歩くのいやだ」
冷静な判断力を失っていたと言えましょう。朝になればバスがある可能性を完全に失念していたのですから。
というわけで通常の精神状態になかった私は、星空の下で丸寝(野宿)することに決めて、丸寝できそうな場所を探しながら米沢城に向かったのでした。目が覚めたらすぐ米沢城。なんて素敵。
冷静に考えて、あたまおかしかった。
ともあれ、伝国の杜(米沢市上杉博物館)前の広場の植栽の陰に当夜の寝床を定め、丸寝したのでした。
美しい朝が来た。寝袋は持っていかなかったと思う。ビニールシートくらいはあったのかな。
シャワーすら浴びてないので疲労がたまりまくりだが、朝の美しさで気分は良かった。
起きてすぐそこに米沢城。たしかにすばらしい。時短という意味において。
八月後半でもまだ少し蓮の花が残っていたのは、さすがに東北だからでしょうか。
銅像と碑の多さは現存建築の少なさの裏返し。
米沢城も、2018 夏旅行ではサブ目的地。ねちっこく見て回ったりせず、ちょろっと本丸を拝んで帰る程度の予定でした。
土塁。濠と土塁の残りはなかなか良いのですが、上杉家の江戸時代の居城としては建物の残りが残念だと言えましょう。
宝物殿。開館時刻には米沢を離れている予定であり、当然に中は見られず。
かつての米沢城は、今は上杉神社になっています。広い空間は見られるのですが、
「ここがかつての本丸!二の丸!御殿跡!」
みたいな説明はいちいちないようです。
上杉謙信像。銅像は遺構じゃないんで、そんなには魅かれないけど、まあ、有名人ですからね。建物の代用として「行った・見た」の象徴としては悪くありません。
直江兼続像もあります。上杉謙信像とくらべてアバンギャルドだと思いますが。
江戸時代三名君のひとり、上杉鷹山公の像。マンガに描かせていただいた御恩があるので手を合わせました。
やいやいや鷹山
桝田道也 (2013-04-16)
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……と、まあ、銅像は非常に充実しております。それはつまり、歴史的な建造物は濠と土塁くらいしか残ってないことの裏返しでもあります。
ある意味、棚倉城と同レベルと言ってもいいくらい。
……て考えると、つまりは米沢城も棚倉城も、奥州列藩同盟だったからという理由で、懲罰的に城が破却されているのでしょうね。棚倉城の場合は戦禍で失われた建物も多かったでしょうけど。
>米沢城(山形県米沢市)の見どころ・アクセスなど、お城旅行と歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/109/
気づきませんでしたが、礎石などが残ってるみたいですね。
この上に上杉謙信祠堂(御堂)があったらしく、国指定史跡にもなっていますが、御堂は長命寺に移築されており、この場所にはありません。
かわりにあるのは、戊辰と西南戦争で死んだ米沢藩士(と日清・日露戦争で死んだ兵士)を慰霊する招魂碑。
西南戦争で死んだ米沢藩士というのは、どっちの側で戦ったんでしょうか。それぞれの信条や事情にもとづいて、官側・薩側に別れて戦ったんでしょうか。悲しい話ですね。
手水舎が虎。武田信玄は甲斐の虎かもしれんけど、うちだって虎だから!という上杉の意地が見え隠れ。
毘沙門の毘。藤波竜之介(うる星やつら)の「父の手縫いのアップリケ」を思い出して笑ってしまった。
実現しなかった神指城のコンパクト版として、回の字型縄張の城下として一見の価値はあります。まあ、私はこの日、そんなにじっくり見なかったのですが。
菱門橋。説明板に「朱塗りの橋は写真の好スポット」なる、どうでもいい情報が。江戸時代から朱塗りだったのかどうか、知りたいのはそこなんですが。
主郭はひととおり見終わりましたが、も少し行くところがあります。これは主郭の南に残る濠。
灯油タンク。米沢だから米なのかどうか。帰宅後に調べたら、米沢と無関係でした。
ダイケンという大阪の会社の商品でした。
上杉鷹山公にはマンガに描かせていただいた御恩があるので以下略
残せば残る。無くせば無くなる何事も。復元は本の在らぬなりけり、と言いたいわよアタシぁ。
水飲み場はありがちなようで味わいと特色があり、ちょっとにんまり。
上杉伯爵邸。明治期の建物。今では米沢牛や郷土料理が提供されている。
米沢牛サーロインステーキ(180g)御膳が 6,480 円でした。ふだん 100円/100g 以下の肉しか買わないので、500円/100g くらいだと
「ほえー、食べてみたいなー」
と思いますけど、1000円/100g を超えると、想像がつかなくて食べたいという気持ちがわかなくなりますね。
でも、上杉伯爵邸は郷土料理が食べられるので、いつか時間とお金があるときに行ってみたいです。
直江兼続邸跡。建物の残りはよくなくて残念でしたが、碑や説明板の充実で頑張ろうとしている米沢市の姿勢は好感がもてました。
九里学園高等学校。こういう校舎が現役なのは非常にうれしくなります。古い建物は上杉伯爵邸くらいかな……と少し落胆してたので、とても救われた気がしました。現役なのが良い。
藁科松伯も上杉鷹山のマンガに登場させたのでそっと合掌。かなり若くして亡くなってたんだなあ。
いちおう、戊辰関連の城というくくりで訪問していたことを忘れてたけど、思い出した。
愛染とラーメンの言葉として合わない感じがすごい。でも食べてみたかった。残念ながら早朝だったので開店時刻でなかったです。
じゃあ、お前は米沢まで行って名物は食べなかったのと聞きますか?食べましたとも。米沢名物ウコギ垣。
蜘蛛の巣のついてないところを少しちぎって食べましたとも。あんまり美味しくはなかったです(←あたりまえ。ふつうは新芽の季節に新芽を食べる)。
あつめてはやし、の最上川ですよ。林さん大集合(違う)。
米沢を発ったのは朝7:18。どんだけ早起きしてお城訪問してんねん。
結局、米沢では何を食べたのかと言うと、これが何の記録写真も残ってないのです。 おそらくコンビニおにぎりで、山形ならではの食品も発見できなかったのだと思います。
ここ10年、コンビニも全国で画一化が進んで、いつでもどこでも変わらない味が維持される反面、地方色のある日常食が消えてしまって残念に思います。おみやげとしての名物ではなく、地方ならではの日常食が食べたいのですよ。