行けたら行く、な位置づけだった棚倉城
訪問日は 2018-08-21。
2018 年、夏。戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐるというテーマで旅行をし、8月20日はもう、ほんと頑張った私。その日の総仕上げに神指城で日没を眺めた私は、翌日はもう、へろへろでした。
そもそも、神指城までは回れないかもと思っていたので、中野竹子殉折地と神指城は 21 日に見る予定だったのですね。
さあ、その分の時間が空きました。ぶっちゃけ、この旅行で期待してた物件はあらかた見ました。もう、へろへろなんで、ゆっくりぶらぶらして、会津グルメでも堪能して……なんてことをしてるヒマがあったら、ひとつでも多く城を回りたいので、サブ予定を挿入して、棚倉城へ向かったのでした。
棚倉城は棚倉藩のお城です。小藩ながら戊辰戦争では官軍を苦しめ、怖れられた小粒でもピリリとカラい藩でした。
>棚倉城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9A%E5%80%89%E5%9F%8E
しかし、問題がひとつ。JR水郡線で、到着は 07:13 の予定です(18きっぱーの朝は早いのです)。棚倉城を見た後も予定がつまってるので、あまり棚倉城に時間はかけられません。そもそもサブ目的地に回してたくらいなので、重要度は低いのです。
というわけで、サクッと見て郡山に戻りたいのですが、郡山方面の電車は 7:42 を逃すと次は 9:46 まで来ません。
正直に言って、棚倉城の残存度は高くないので、ここで2時間も使いたくはなく。
つまり、29分間で城まで行って、見て、撮って、駅へ戻る。これがこの日の最初のタスクになったのでした。いきなりアトラクション。へろへろなのに。
ただ、行った、というだけの中身のない訪問
棚倉に着いたー!急げー!「翔べ!」などという命令形の居酒屋にかまってるヒマはないんじゃー!
天気が悪くて良かった。大急ぎで撮ったクソ写真でも、どうせ天気が悪かったんだし……とあきらめがつく。
ああ、だから、鼻の穴を強調しすぎじゃね?などと気にしてる場合じゃないってば!
城址公園に着いた!井戸跡に見えるけどたぶん井戸っぽい水飲み場ってだけ!たぶん!
残存度が低いとは言ったけど、土塁も堀も良好に残ってる!犬走も!
本丸!特に建築は残ってない!よかった!心おきなく駅に戻れる!
ただ、失礼ながら棚倉町、維新後にすごく都市化が進んだような地域ではないにしては、城址も城下も江戸時代の面影はあまり残っておらず、残念と言わざるをえません。
関ケ原で西軍についていながら、のちに十万石以上の大名に返り咲いたのは立花宗茂と丹羽長重の二人だけ。地味に有能ちゃん。
これとは別に、追手門跡の近くに県指定天然記念物『棚倉城跡の大ケヤキ』があるのですが、それは後日、別エントリに回します。
かつては茶室があったようですが、今は特になにもありません。焦ってるのでカメラも斜めです。
よし、だいたい見た!さあ帰ろう!すぐ帰ろう!
旅行後の写真整理中にサルもいたのだと気づくなど。キジもどこかにいたのでしょうか?
ルネサンスと聞いて、髭男爵のマネをする派とルネサンス情熱を歌い出す派の間に流れる冷たくて深い川。
てなわけで、せっかく時間があるならと思って足を運びましたが、たった30分じゃ観察も思索もあったもんじゃなく、
「ただ、本丸を訪問したと言う既成事実を作っただけ」
という、あまり意味のない訪問になってしまったと反省しています。
100名城スタンプを城下の案内所で押して、肝心のお城を見ないで帰るような人たちと、あんまり変わらないレベル。
棚倉は、城よりも交通の要衝として街道の合流点を見に行くべき城下町なんだろうなと思います。
実は棚倉は郡山・白河・いわき(石城郡)・常陸のちょうどハブ的な位置にあり、交通の要衝だったのです。水戸から白河に向かうにはここを通るのが通常で、だからこそ官軍は戊辰戦争で、棚倉後略に手を焼いたのでした。
関ケ原で西軍についたにもかかわらず、最終的に十万石オーバーの大名になったふたり、立花宗茂と丹羽長重が続けざまに棚倉藩の藩主になっているのは、ここが小さな盆地で領地としての旨味は少ないが、関東の防衛上は捨て置けない重要な拠点だったことを意味しているのでしょう。
ところで……
ええーっ、「たなぐら」って読むのかい?カツオくん!
(今気づいたので、写真のファイル名がぜんぶ Tanakura ですよ(泣)←直しました。2023年。)