第二次上田合戦で諏訪部を守る限り秀忠は西進が難しいと描いた
2016 年のこと。攻城団様の依頼で第二次上田合戦のマンガを描きました。
>マンガでわかる上田城(第二次上田合戦) | 上田城のガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/60/memo/2709.html
つまり、この時代、大軍の移動に使えるような信州の道路は限られているのだ、と。
- 東山道……平安時代には幅6mで維持された中世における高速道路(ただし関ケ原時点ではかなり荒廃していたはず)
- 中山道……地元民が日常的に使っており荒廃はしていないが、江戸時代の前なので整備されてるとは言えない。この時点での道幅は推定で2~4m程度。
ましてやスムーズな渡河に欠かせない橋の架かった場所なんて、二ヶ所だけである、と。
これは、根拠のあることだったのでしょうか?作者は第一次上田合戦を描いたときと同様に、何かを飲み込みませんでしたか?
正直に言えば、決定的な証拠はありません。が、確信に近いものはあり、特に何か飲み込んだという気持ちはありません。
関ケ原から 47 年後、正保年間の上田周辺。諏訪部と(神川より手前の)大屋にしか橋がかかっておりません。
ちなみに秀忠たちは染谷台に陣を張ったと言われています。
関ケ原から 101 年後、元禄年間の上田周辺。諏訪部と大屋にしか橋がかかっておりません。
関ケ原から 152 年後、宝暦年間の上田周辺。諏訪部にしか橋がかかっておりません。
↑マンガで使用したのはこの地図です。年代的には正保や元禄よりも、関ケ原合戦から遠いわけですが、大屋の橋が無いのがマンガに置いて都合が良かったので。
お、それでも何も飲み込まなかったと言い張りますか?この作者。ええ、言い張りますとも。
関ケ原から 238 年後、天保年間の上田周辺。諏訪部と大屋にしか橋がかかっておりません。
>紙本墨書着色 正保・元禄・天保信濃国絵図
https://museum.umic.jp/kochizu/index.html
>上田市立上田図書館 貴重資料デジタルライブラリー 東山道信濃国略図
https://museum.umic.jp/library/
天保期の大屋は橋が二ヶ所になり、渡し船のルートも増えています。 中山道の人気上昇とともに、大屋から南下して中山道に向かう旅行者が増えたのでしょう。
そして、元禄と天保の地図にはそれぞれの橋に、”此橋満水時替■■…(※筆者には読めず)間数不足”とあり、増水時には何らかの問題がある橋だったようです。上田盆地~佐久平あたりの千曲川は架橋が難しい場所だったわけです。江戸時代に入って 240 年くらい経っても、なお。
関ケ原時点で、諏訪部と大屋、それぞれ橋があったかどうか、その証拠は見つけられませんでしたが、少なくとも諏訪部にはあったと思われます。
現在、ここにかかる橋には古舟橋という名がついています。正保の絵図に桁橋の絵が描かれているくらいですから、関ケ原時点で最低限、舟橋を設置するための設備があったのは間違いないと考えます。
あえて無視した大屋の橋についてはどうでしょうか。関ケ原時点で仮に架橋されていたしても、豊臣方についた昌幸、信繁にとって防衛上、必要ない橋です。自分の領地内ですので、防衛のために橋を落としていたはずと見なしました。
また、宝暦年間に大屋の橋が消えているのを信用するならば、大屋は合流地点で諏訪部より架橋しにくい場所であり、中山道の整備前は需要も少ないわけですから、架橋されてなくても不思議はないと考えることもできるでしょう。
天保時点で大屋の橋が二本になっているのは、従来あった橋は増水を見越した流れ橋だったが、架橋技術が進歩したので流れない橋を新造したと見ることもできます。
>流れ橋 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E3%82%8C%E6%A9%8B
一方、真田親子は石田三成からの援軍が来るものと信じていますから(実際にはそんな余裕なかった)、諏訪部の橋を落とすことはできません。
塩名田は江戸時代でもたびたび橋が流され、一時は舟渡に変えられたこともあったが、不便なので結局は架橋したという歴史があります。 したがって、こちらも関ケ原時点で橋が架かっていたかどうかの確証はありません。が、ここは仙石氏の管理下ですから、秀忠西進の報を受けてあらかじめ仙石氏が舟橋を架けるくらいの働きはしていたでしょう。
というわけで、マンガでは説明するスペースが足りず割愛しましたが、
「秀忠軍が西進するには真田をなんとか処理して諏訪部の橋を渡るか、いったん小諸まで戻って塩名田の橋を渡るしかない」
という論理の組み立ては構築しており、この点について、具合の悪い点に目をつむって何かを飲み込んだつもりはないのです。
が、現地取材しなかったことには変わりないので、ついに上田を訪問して自分が確信をもってマンガに描いた諏訪部の橋を見に行きました。
ちなみに第二次上田合戦編は、まだ電子書籍にできていません。
ここが諏訪部だ!
右には分流された取水道が見えます。農業用水として取水しているのか、洪水時の余水吐きなのかはわかりませんが、後者だとすると、このへんはかつて湿地だったということでしょうか。
上田合戦の記録でも、上田城の南(尼ヶ淵)は湿地や深田で、容易に近づけなかったとあったように記憶しています。
水はけの悪そうな場所だ、という感じはします。もともとは河原。
道祖神の文字が刻まれた石。このあたりが交通の重要ポイントだった証拠でしょう。
かつては堤防が無く、河原はもっと広かったはず。その広い河原が、このように草深い河原だったとすると、徳川が橋に頼らず渡河するのは大変だったでしょうね。
東山道信濃国略図を除いて、正保・元禄・天保とも、ここに中州があり、その中州を利用して橋が架けられていることがわかります。
おそらくもう少し上流(尼ヶ淵)あたりでは、流路がころころ変わり、安定した中州がなく橋が架けられなかったのでしょう。上田藩とて、城の架けられるものなら、架けていたでしょうから。東山道信濃国略図では現在の常田新橋に当たる場所に渡し船の線が引かれています。
そりゃ、この中州がド安定なら、ここが渡河地点になりますよねー。
下流側。満水時の注意書きがあったことを考えると、江戸時代の古舟橋は沈下橋だったのかもしれませんね。
というわけで、秀忠が東山道を使ってスムーズに西進するには、古舟橋を渡るしかなかったのです。抱いていた確信をさらに確信したのでした。そして真田親子を倒さない限り、安全に古舟橋を渡ることはできません。
が、話はもうちょっと続きます。
マンガを描いたときは見落とした情報ですが、今回、上田訪問にあたって史跡を調べたら、ここに亘理という東山道の駅《うまや》があったとのこと。亘理。漢字が読めませんが、まぁ、気にしない。ともかく行きましょう。東山道があった証拠なら、見ないわけにはいきますまい。マンガに描いたネタの根幹ですから。
ちなみに読めない字や、(少々の)意味の分からないくだりを気にしないというのは読書における重要なスキルだと思っています。 そんなことでいちいちつっかかってては、結局のところ、読書好きにならないのです。
ともかく向かいます。亘理駅跡は古舟橋からおおむねそのまま北にあります。
曰理駅《わたりのうまや》推定地。わたり……渡り!!!!エウレーカ!!!!
後の時代になると亘理と書き改められたようですが、古くは曰理と書いてわたりと呼んでいたようです。漢字の読みを気にしないまま現地訪問したので、ものすごいアハ体験したというやつでした。
つまり!大宝の昔から!古舟橋のあったあの中州のあたりが渡河地点!駅を整備するくらい重要な渡河地点だったということ!
しかるに関ケ原の時点においても、いや、長く続いた戦国時代によって街道が荒廃していた頃だったからこそ、上田で渡河するには古舟橋(曰理)しかありえなかったのです。大軍を抱えた秀忠の計画は、まず真田親子の征伐、その後そのまま東山道で西進でした。逆に真田親子は、ともかく渡河地点さえ死守すればよかった。それがそのまま豊臣方の助けになったのです。
してみると、第一次上田合戦で、本城であり堅城で知られた砥石城ではなく上田城に昌幸が籠った理由もおぼろげに見えてきます。上杉からの援軍をアテにして渡河地点である古舟橋(曰理)を死守せねばならなかった、もしくは自分たちの撤退路として古舟橋(曰理)を死守せねばならなかったのでしょう。。
まあ、いずれにせよ、諏訪部村のあたり(上田城の西)の安全を確保する必要があったのでしょう。
はいコレ、いま気が付きました。このエントリを書いてる最中の 2019 年 9 月 14 日の、いま気が付きました。
……ええ、いやほんと、確信していましたよ。確信していましたとも。秀忠は身動きとれなくなったのだと。パパの命令は絶対。上田を無視して東山道は通れない。中山道は大幅なタイムロス。八方ふさがりですねん。
なにも飲み込んでなんかいませんよ。でもまぁ、99% の確信が 100% に変わったことについて喜びを表すにやぶさかじゃありません。
さて、曰理駅推定地の推定がどれくらい信用できるかというと、出土物から、おそらく間違いないだろうとのこと。
このへんの畑のどっかにあったらしいのですが、見逃しました(見逃したことに気づいた後、戻るほどでもない…と、あきらめました)。
というわけで、諏訪部で見て回ったものはこれですべて。
ただ、何かを飲み込んだわけではないのですが、ちょっと雑だったかなと悔やんでいるのは実はココです。
東山道をあきらめた秀忠は、実際、どういうルートで関ケ原へ向かったのか。
こんへん、えらい学者さんたちが知恵を絞って考えてることですから、私のチョイスだって正解とも間違いとも言い切れないわけです。
ただ、古東山道≒信玄の棒道としたのは、いくらページが足りなかったにしろ、雑な決めつけすぎたと思います。
つまり、古東山道(大宝で整備される以前の東山道)のルートなんて諏訪から佐久に出て碓氷峠から群馬へ、くらいしかわかってないのです。信玄の棒道だって、完全にわかってるわけじゃない。古東山道と信玄の棒道と現在の大門街道、三者が大門峠のあたりで被っていた可能性は高いけど、古東山道≒信玄の棒道≒大門街道と言えるほど重複してたかどうかはわかってないのですね。
ここはちょっと、マンガを描いた当時の調査不足、勘違いでした。
で、秀忠の立場になったとして、彼はどういうルートで関ケ原に向かったか考えましょう。
そもそもの秀忠の目的は、真田親子の討伐です。これはもう、ほかにありえないので適当に本を読んでください。彼等を放置しては主力の残っていない江戸が危ないのです。
が、その攻略の最中に、真田なんかほっといて急いで関ケ原へ来い!というパパのどやしつけが届きました。
「岐阜城がアッサリ落ちたのはお前も聞いとるはずだがや!こっちに寝返った元・豊臣家臣たち強すぎでかんわ。わしらの勝ちが確定したわコレ。この状況で、ケリをつける最後の決戦に将軍がおらんかったら、戦後の政界再構築において徳川の発言権が弱まるがねタァケ!おみゃァは室町公方みたいな力のない将軍になりたいんか?」
てなことを使者は伝えたはずです。
しかし、急にそんなことを言われても、現場の秀忠&秀忠家臣団は困惑します。なぜなら、東山道以外に進軍に使える道が「無い」。中山道は、まだ整備されていないのです。真田を無視したくても、古舟橋が真田の手中にある限り、無視して渡河するわけにはいかないのですから、これはどうにも困ったことになりました。
はっきり言えば、秀忠は小田原合戦における秀吉の山中城攻略ばりのゴリ押しで、交渉なんかせず上田城を落として東山道を行くべきでした(A)。
真田が降伏すれば被害が少なくてすむわい……という甘い見通しで猶予を与えたのが間違いだったのです。
しかし、家康の催促をたずさえた使者の到着時点で、ゴリ押しする時間すら無くなっていました。
仮に大屋に橋があったとしましょう。大急ぎで大屋で渡河して、内村川の渓谷や武石川の渓谷を進む(B)はどうでしょうか?
しかし、秀忠は染谷台に陣を張っていますから、大急ぎで撤退しては第一次上田合戦における神川の大敗の二の舞です。
しかも(B)は上田城に近すぎます。真田のお膝元です。地の利のある真田に秀忠が拉致されれば、豊臣に一発逆転満塁打されるようなもんです。秀忠たちはこのルートを選ぶことはできません。
さらに言えば、中山道すらまだちゃんと整備されているわけではない状況です。それよりもっと細道であろう(B)に急いで押しかけても、渋滞が発生して、かえって行軍が遅くなっただけでしょう。拙作の『マンガでわかる第一次上田合戦』で描いた通りです。
つまり、東山道を進めない秀忠としては整備されていない中山道(C)と、大出山(長和町)の南側を通る、古東山道だったかもしれない脇街道の(C’)を選ぶしかありません。
どちらも、せいぜい 2~4mの道幅でしょう。そこを数万人規模の秀忠軍が渋滞を起こさずに進むには、順番に押し合わず並んで進むしかありません。先頭が朝出発したとして、末尾の兵士が出発できるのは夕方とか、そんな行軍がこの時代の大軍の移動でした。
つまりは、三河物語が述べた通り、繰り引きで少しづつ安全に撤退したのです。
先に撤退した部隊は、小諸まで戻って塩名田を渡ったか、あるいは大屋で渡河したかはなんとも言えませんが、整備されていない中山道を通って塩尻に向かったのでしょう。
榊原が中山道の本道(C)を使い、秀忠が脇街道(C’)を使ったと伝わるのも、榊原と本多の仲違いとは思えません。道が細いが兵士は多いという状況なのです。脇街道があるなら、部隊を分けるのは当然のことでありましょう。そもそも、そんな仲違いが家康の耳に届いたら大問題になるのではないでしょうか?
秀忠が脇街道を使ったとすれば、真田による拉致を警戒して、より上田から遠い側を使ったと考えることができます。これも理にかなったことです。
しかし、中山道さえ整備前なのに、武田滅亡後は放置されていたであろう脇街道が、どんな有様だったかというと、だいたい想像つきますね……というのが、マンガに描いた部分です。
まあ、そんなこんなで。自分の確信を確信しにいくためだけの訪問だったのですが、はからずも
「第一次上田合戦で、なぜ昌幸は上田城に籠ったのか。そもそもなぜ上田に築城したのか」
が氷解したので、やっぱり現地取材は大切という原則をあらためて再確認した次第です。
上杉を敵に回すにしても味方につけるにしても、渡河地点の防衛こそが上田盆地の生命線だったのです。
利根川の渡河地点である徒渉《ただわたり》を抑える名胡桃城を手放さなかったのと同様に、渡河地点の防衛こそ山間地における重要事項だったのでしょう。