入場料は割高に感じたけど、値段なりには楽しめた会津武家屋敷
訪問日は 2018-08-20。
2018 年、夏。戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐるというテーマで旅行をし、松平墓所で予想以上に歩いた私は、次に、すぐ近くの会津武家屋敷に向かいました。会津武家屋敷がマストだったので、お墓は守備範囲じゃないけど、松平墓所へも行ったというくらい。
道すがらにあった、会津料理とネパール博物館の看板。フリーダム。
会津若松城天守入場券が 410円(茶室込みだと 510 円)。それと比べると、現存でもない復元武家屋敷で 850 円は、やはり割高に感じます。史跡でもないから、このくらいの値段じゃなきゃ経営していけないのでしょうが。
しかし、施設は充実しており、ぜんぶ見て回れば、値段なりには楽しめます。私は残念ながら時間の都合で多少、はしょりました。
戊辰で焼け残った西郷頼母邸を松平家墓所の近くの山麓に移築復元したもの+博物館+陣屋など現存古建築の移築……といった内容
名称が『西郷頼母邸』ではなく『会津武家屋敷』なのは他県民に訴求力の高い方というのもありましょうが、西郷頼母が地元会津の多くの人から蛇蝎のように嫌われているというのも、背景にあるのかしら?と。
都市にあった武家屋敷を山麓に移築というのはどうなんだろ?と思いますが、自然に近くて雰囲気はいいですね。
実は武田から続く保科家として「血が濃い」のは西郷頼母のほう。世が世なら頼母はお殿様であり、ゆえに家老筆頭で、この家格。
保科正之は知られている通り、保科家としては養子。彼が家光の異母弟だったこそ、保科家は会津という大藩の統治者になったのです。だから、正之の子孫が藩主であることには、西郷家(保科家の正統)もがまんできたと思います。が、幕末の頃には正之の直系が途絶えてました。松平容保は水戸徳川氏の血筋です。これが西郷家には面白くなかったのでしょう。頼母は容保に対してことごとく対立しました。
姿三四郎のモデル、西郷四郎は頼母の養子です。というと頼母に柔術の心得があったように思えてしましますが、事実はさにあらず。
西郷四郎は会津藩士・志田貞二郎の三男です。戦争に敗れた会津藩士の、しかも三男の経済状況は、みなさんだいたい想像がつくでしょう?
軍人になることを夢見て乞食同然の姿で上京した四郎は、しかし士官学校への入学がかなわず、ひょんなことから講道館柔術を学ぶことになりました。
そして、めきめきと頭角を現し、講道館四天王と呼ばれるほどに。
そこで、戊辰戦争などで子を失った西郷頼母が、四郎の名声を見込んで(会津藩士の子でもあったため)、跡継ぎとして養子にしたのです。ひとことで言って、性根がいやらしい。
明治以後の西郷頼母の行動はひたすら自分の汚名返上ファーストで行動しており、このへんから同郷人の擁護が少ない理由や、当時から味方が少なかった理由が透けて見えます。
その主張と状況判断は、ぜんぶ頼母が正しかったんですけどね。会津が京都守護職を引き受けるべきではない、など。
しかし、彼が真に松平容保を説得しようとしてたかどうか。
「そのふるまいだと若い容保は逆に反発するだろう」
と思える挑発的な行動が、頼母には見受けられるのです。
頼母にもう少し協調性と、根回し・気配りの能力があれば、悲劇は避けえたと思いますね。
それはそれとして、さすがに施設は大きいです。西郷邸以外もいろいろあります。
復元ではありますが、資料写真撮影には有用なスポットでしょう。
都市部ではないため、マンションなどが視界に入らないのも良いです。
このような御殿的な繰り返される「折れ」は、農家の古民家じゃなかなか見られません。
箱便所。砂を盛った車箱にウンチして、ウンチの状態で病気などしてないか確認して、捨てる。レールがあるので車箱の出し入れは簡単。合理的!
会津武家屋敷は、こうした人形によるシーン再現も豊富なのがポイントが高いです。
妻と娘たち。これを見て、
「ああ、さすがに例の自害シーンは凄惨すぎるので再現しないのかな?」
と誤解しました。しかし、お楽しみは後だったのです。
滝沢本陣よりは観光客が。本当に価値があるのは現存古建築で史跡である滝沢本陣の方なんですけどね。しかたなですねこればっかりは。
動いていません。動いているのが見たいならば、三鷹の水車小屋『しんぐるま』のサイトがおすすめです。
>三鷹市 |三鷹の水車「しんぐるま」|水車のしくみ
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/suisya/shikumi/index.html
江戸時代メカニズムよいですわ~。ヨーロッパや中国にだいぶ遅れをとっていたことはともかく。
これは武家屋敷に戻ったのかな。よくわからない。なにしろ広いから。
ガラス越しじゃないけど近づけないのと、ガラス越しだけど近くで見られるのと、どっちがいいのか問題。
西郷頼母像。通称・八握髭翁。握りこぶし8つ分のヒゲがトレードマークだったので。
などと油断してたら、
ドン。来たー!例のあのシーン。さすがに血潮は再現されていませんが、西郷頼母の妻や子供たちの自害シーン。有名なやつ。
戦闘員でない女子供が籠城しては兵粮が早く尽きて足手まといである。自害してこそ武家の女ぞ。頼母の母・律子は自ら手本を示してまっさきに果てた。
妻・千恵子は何も知らずにニコニコとほほ笑む季子(2歳)をまず殺めた。
次に恐怖のあまり泣き叫ぶ田鶴子(9歳)と常盤子(4歳)へ向かって
「それでも武家の娘か!」
と叱り、これも刺し殺し、最後に己が命も絶った。
頼母の妹眉寿子(26歳)、由布子(23歳)に 長女・細布子(16歳)と次女・瀑布子(13歳)は辞世の歌を詠み、互いに喉を突いた。
頼母屋敷に新政府軍の兵士が立ち入ったのは、その凄惨な自害が行われた直後であった。
若松城門の前に大きな屋敷があった。それに向かって発砲したが応じる者はなかった。内に入り長い廊下を過ぎると、奥で婦人が多数並んで自刃していた。その中に十七歳か十八歳ほどの女子がまだ死んでおらず起きあがったが、目が見えておらず、かすかな声で、
「味方か敵か?」
とたずねた。わざと味方だと答えると、懐から短剣を出し、これをつかってとどめをさしてくれと頼まれた。しかし、見るに忍びなくそのまま首を刎ねて屋敷を出た。
この話は土佐藩士・中島信之の体験したこととして広く伝わっています。が、中島信之は当事者ではなく、その日の夜の雑談で中島信之が別の誰かの話として聞いただけであるという説もあり、はっきりしません。
生きていたのが誰かについても頼母自身が
「おそらく細布子であろう」
と答えたために細布子だとされていますが、十七歳か十八歳に「見えた」というだけですから、眉寿子や由布子や瀑布子かもしれないのです。女性の年齢は髪型で推測する時代で、眉寿子や由布子も未婚女性の髪形をしていたはずですから。
ましてや、何も知らずに微笑む幼子をうんぬんに至っては、見てた人間は全員死んでいるので、完全に状況証拠からの創作です。
なんかもう、史実のように語られる西郷家婦女子自害シーンですが、これかなり
「誰もが信じたいことを信じてる状態」
だと思うんですよね……。いや、信じても害はないからいいじゃねぇか、とも思いますが。
「よそ見すんな」
と思いましたが、なるほど……
「見るに忍びなく」
を再現してるんですね。芸が細かい。
芸はこまかいけど、もうすこし日本人顔のマネキンは調達できなかったのか?と思い増した。
醤油樽だそうだけど、寄贈されたのでとりあえず置きました、な感じ。
樹木が生い茂って、見えず。夏だからじゃなくて、もう何年もこうなんじゃないかと思える生い茂り方なんですが。
これは旧中畑陣屋の方かしら。旧中畑陣屋は白河にあった陣屋で、現存してたものを移築。はあああ~現存じゃ現存様じゃ。ありがたや、ありがたや。
旧道体験コーナーなどあり、やってみたかったけど時間の都合で断念。
鑑真和尚の像。現代中国の彫刻家の作だそうで、縁の深い当館館長がゆずりうけ、日中国交正常化10周年を記念して安置したもの、だそうだ。なんでもありか。フリーダムか。
そんなこんなでね。入場料はちょっとお高いように感じますけど、じっくり見て回れば2時間は楽しめる(会津武家屋敷のいう見学所用時間は1時間)ので、実はそんなにコスパ悪くない会津武家屋敷だったのでした。バスの便もそこそこあって松平家墓所も近いので、足を運ぶのも悪くないと思いますよ。
私は博物館や美術館をスルーして、約一時間の見学でした。