堀尾忠晴のウッカリ天守解体で有名な伊勢亀山城へ行った
訪問日は 2017-01-03。
取材のために松江城に行った年末旅行の帰路に、堀尾氏つながりで伊勢亀山城へ寄ることにしました。
丹波亀山城の解体を命じられた堀尾忠晴(豊臣政権を支えた大名、堀尾吉晴の孫)が、 まちがえて伊勢亀山城を解体しちゃったテヘペロ、という逸話で有名なお城です。
今回、松江城と伊勢亀山城に行ってみたら、どちらにも「~という逸話が伝わっているが、証拠はない」と書かれてて笑いました。
みどころは、石垣。整備も良心的で好印象。
亀山駅から1kmほどだからラクショーと思っていましたが、1km、ゆるやかに登り坂が続きました。山城というほどじゃないけど、思ったよりは登ったなという感じ。
駅には少ないながらもコインロッカーがあったので、苦にはなりませんでした。
青木門跡。江戸時代は眼下に城下町や城の濠池が眺められ、見晴らしがよかったらしい。いまとなっては、地方都市の単なる高台、という程度の景色だった。
変に屈曲してるから、道路を作ってるわけじゃなくて、お濠を親水公園化してるのかな。 現状維持ではなくなるから、文化財ナチスは怒るかもしれんけど、私は良いことだと思います。 遺構としてのお濠を破壊してるわけでもなさそうだし(ぜんぶ勘違いだったら、ごめんなさい)
これを見に来たと言ってもいいし、感動したのだけど、あいにくお天気はよろしくなく、写真もずっとこの調子であった。篠山城の時のように、幻想的な夕日に恵まれるということもなかった。
はいそうです。私はこの石垣を見に来ました。なぜなら、伊勢亀山城は、石垣の発展を見るうえで重要なお城だからです(棒読み)。
けっこう高石垣だけど、勾配はゆるい。自然石の石垣、それも角の丸い川原石が多い。鈴鹿川から運んだものであろう。
自然石ではあるが、隅角の算木積は、ハッキリしている。「算木」の度合で言えば、整形石を用いている熊本城は加藤期の石垣よりも、強い「算木」だと言えるかもしれん。
横矢がかりの奥行を利用して、石垣を登ってる風のトリック写真を撮ろうとして失敗したの図。
C58359号。と言われても、特に感慨はない。もし将来、蒸気機関車のマンガを書くことになれば勉強して「おお!これがあのC58359!」となるんだろうけどね。
終戦直後の日本に来たセスナ5機のうちの1機だそうだ。5機設定かよ。シューティング初心者にやさしい店かよ(ちがう)
城址、ということで考えると蒸気機関車もセスナもやや違和感があるけど、昭和にはよくあったことだし、さびれた狭い獣舎で飼われてるニホンザルを見て悲しい気分になるより、よっぽどよい。
いずれにせよ、多門櫓以外の建物は残ってないんだし、蒸気機関車もセスナも歴史的文化財にはちがいないしね。
多門櫓は近年、江戸時代の姿への復元修理がなされたばかりなのだが、はやくも破損してた。
見事な太鼓壁だ。ちなみに手抜き復元ではない。江戸時代の多門櫓の壁が太鼓壁だったのだ。忠実に復元したがゆえに壊れやすいという、誰も悪くないけど、どうすりゃいいのさ案件。
城域にあった武道場を廃藩置県後に下賜、のち明治40年に再移築。昭和期に火災で焼失。有志により再建されたという。
明治3年、藩というものが無くなる直前に亀山藩のお家芸となった心形刀流武芸形の門人たちは、この演舞場で技を磨いた。心形刀流武芸形は現在では、三重県無形文化財に指定されている。
立地は堅城。運用はだんだんと平和なお城へ
さて。
伊勢亀山城には天守が残ってない。天守があったであろうことは確実視されている。なお、天守が無くなったのち、御三階櫓があった。
というわけで、高い建物がなかったので、遠望の写真を撮り忘れたのだけど、 三方が急斜面となっており、鈴鹿川の扇状大地が開けるあたりを統治するのに適した、 なかなかの要害の地にある城だった。
1265 年に関実忠が築城し、三百年後に織田信長に滅ぼされるまで関氏の居城だったというので、実際に堅城であり、関実忠の選地眼が優れていたということだろう。
のちに入城した秀吉の家臣、岡本宗憲が大改修を始め、関ケ原後に入城した本多俊次によって、近世城郭としての縄張りが完成したという。
この先に帯曲輪があり、急斜面となっている。搦手であり、防御に強い埋門が選ばれたのだろう。が、その帯曲輪の塀(復元)を見ていただきたい。
最初に見たとき、
「ンモ~、復元するならちゃんとやってよ~。城なんだから、狭間が無い塀なんてあるわけないじゃん~」
と思ってしまった。アサハカというほかない。
説明板には、
「古写真には狭間が無かったので、そのように復元した」
とあった。まさかと思ったが、たしかに古写真の塀には狭間が無かったのだ。
維持費のかかる太鼓壁をわざわざ復元した亀山市が、そこで手を抜くわけなかったのだ。
そして、崩れたことで、この部分が昭和 47 年の台風で土塁が崩れたとき、石垣化されたのだと判明したので、わざわざ崩れた石垣を除去して、また台風が来たら崩れるかもしれない土塁に戻したんである。現在の亀山市はガチなんである。
というわけで、どうも、この城は江戸時代よりのち、堅城だった部分を鞘におさめる方向に進んでいったらしい。 塀には狭間を設けず、ここで敵を迎え撃つことを考えなかったようだ。
溝があるのがわかるだろうか。本来、搦手を守るための帯曲輪だったこの場所は、江戸時代末にはお花畑になっていたのだそうだ。溝は、ガーデニングのために設けられた。
いくら太平の世とはいえ、防衛のための設備をお花畑にしてしまうなんて、呑気にもほどがある。 装飾性がきわめて少ない松江城天守や、外様大名の意地を見せつけ、怖れた徳川が天守を建てさせなかった(と噂された)篠山城の縄張りを見た後だったので、あまりの平和ボケぶりに愕然とする思いだった。
追記 : 2023-06-18 本記事を書いた時には恥ずかしながら知らなかったのですが、武家が作った「お花畑」は基本的に「薬草園」の意味であることが多いようです(ほとんどそう、かもしれない)
合戦に薬草は必需品ですから、帯曲輪を潰して薬草園に変えたのは必ずしも平和ボケとは言えません。
実際には防衛用の薬草の生育という軍事目的と、江戸時代中期の殖産ブームに乗った地元特産医薬品の研究という商業目的の、両方が目的だったのではないかと思います。
本エントリは当初「[城址] 堅城から呑気な城へクラスチェンジ 伊勢国 亀山城(三重県)」というタイトルを付けていましたが、私の誤解が判明したことで論が弱くなったので「[城址] 丹波と間違われた証拠はない……伊勢国 亀山城(三重県)」へ改題しました。追記ここまで。
亀山は東海道の要衝で、幕府直轄領もあり、幕府の要人が亀山城に宿泊することも多かったようだ。 いきおい、防衛のための城としてより、接待のための御殿の性格が強まったのかもしれない。
天守が無いのも、あるいは、自主的に解体したのかもしれないのだ。
堀尾忠晴が丹波亀山城と間違えて解体してしまったという、ゆかいな話。
ゆかいであるがゆえに広く人口に膾炙してしまっているが、証拠はないのだ。
ウィキペディアでも、それが巷説ではなく事実であるかのように書かれている。 しかし『九九五集』という文献に現れるだけで、複数文献に記されている話ではない。
『九九五集』をまとめた大庄屋の打田権四郎の生年は 1642 。堀尾忠晴の没年(1633)よりあとに生まれた人物だ。
『九九五集』は、その打田権四郎が幼少のみぎりに祖父や古老たちから聞いた話を人生後半になってまとめたものであろう。正直、信頼のおける話ではなさそうなんである。
丹波亀山城と間違えて伊勢亀山城の天守を解体というのは、面白くて、つい他人に教えたくなる話であるが。
>「九九五集」
http://book.geocities.jp/hebihara_0320/k191.htm
>亀山市史 考古編
http://kameyamarekihaku.jp/sisi/KoukoHP/dai13sho.html
下山。クランク型に屈曲している道があったりもしたけど、防衛上の理由でそうしたのか、自然発生的にそういう形になったのか、判断できず。お城好きの多くは私も含めて、自分の見たいものを見出す傾向があるから、屈曲してたら即、虎口だなんだと思い込みがちである。
亀山中学校。城下を意識しての、この校舎なのか。かっこいい。このそばに黒門跡の碑がある。
というわけで、曇り空で写真はピリッとしないものばかりになりましたが、石垣の歴史上、重要な城を見て、堀尾忠晴のオモシロ逸話は巷説だよということを知った、収穫の多い訪問となりました。