水攻めで有名すぎる備中高松城に行ってみた
訪問日は 2016-12-31。
この城も、建物などは残っておらず、土木の痕跡も残りがいいとは言えない城。
しかし、あの!有名な秀吉の水攻めが行われた城!その後、秀吉は水攻めを何度かやるのだけれど、ここは最初の水攻めとなった場所!遺構の少なさはロマンで補ってあまりある。
岡山から吉備線の始発に乗り、備中高松駅で下車。5年前は(もう5年前だ)備中高梁に行くつもりで勘違いして吉備線に乗ったものだが、今回は間違いない。
備中高松駅にコインロッカーはなかった。この日は秀吉が備中高松城を見下ろした石井山にも行くつもりだったので、ちょっとショック。
最上神社の鳥居。見逃しようがないほどでかいので、備中高松城を訪問した人のブログには必ずと言っていいほど載ってる。私も、その例にもれず。
一部でも残っててよかったねというか、これだけしか残ってないというか。
江戸時代の記録を鵜呑みにするなら、本来の堤防は、この倍の大きさはあったらしい。
図中の赤い線が、秀吉の築いた堤防。現在の足守駅付近で、足守川の水を引き込んだそうだ。
長さ 3km、幅 24m、高さ 8m。これを 12 日間で。可能だろうか?だろうかもなにも、実際にやってのけたわけなので疑問を挟む余地はないのだが。足守川を挟んで対岸には敵の援軍が陣を張っていた中での土木作業だぜ?
思うに、もともと足守川の自然堤防が、あるていど存在していたのではないか。秀吉が行ったのは、石井山のすそ野である蛙ヶ鼻から自然堤防までの築堤ではなかったのか。そう考えれば、12日間という工期の短さも、蛙ヶ鼻以外に築堤跡が残っていないのも、すべて合点がいくのだが。
>自然堤防 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%A0%A4%E9%98%B2
仮に、この推測が正しいとして、蛙ヶ鼻さえ塞いでしまえば備中高松城をため池にできると気が付いた黒田官兵衛という男は、なんという悪魔的発想力の持ち主なのだろう。
……というような妄想をつらつらできるので、遺構の少ない城も、それはそれで楽しみようがあるものだ。
築堤跡に登っていいものかどうか悩んでいたら、階段があった。ここからなら登り降り可ということだろう。
蛙ヶ鼻築堤跡の場所は『高松城水攻め史跡公園』として整備されている。公園の幅がちょうど 20m 前後ありそうなので、往時の築堤を想像するのにはもってこいだ。
発掘調査の跡も整備されている。こうして杭を打ち込んで、俵を積み、土を被せたらしい。
自分の GPS ログをもとに登山道を作成した。一本道だがな!
太閤岩入口 – OpenStreetMap
荷物を駅に預けられなかったので、重い荷物を背負っての登山に泣きそうになった。汗だくになった。
秀吉本陣跡に到着。のぼりがうれしい。いっぺんに疲れが吹き飛んだ。汗が引いた。冬に急に汗が引くと非常に寒い。
おお~あれが備中高松城かー…と思い込んだのは、実は隣にある星友寺だった。
これで目的は果たせたのだけど、太閤岩なるものがあるなら、見なければなるまい。
秀吉が石井山に本陣を動かしたとき、この岩に着目し、作戦上の目じるしとして活用したのではないかと言われている…であって、太閤岩の由来ははっきりしていない。
まるで整形岩のような異形の姿であることと、この山に秀吉が陣を張った事実が結びついて、のちの地元民が太閤岩と呼ぶようになったというのが妥当なところか。
備中高松城を陥としたのちに、鏡石にでもつかうつもりで、あるいは信長に献上するつもりで、整形しかけていたものの、本能寺の変で放置されてしまった……という可能性もあるかな。
謎の穴に興奮するなど
太閤岩から秀吉本陣に戻る途中、地面に穴があいているのに気が付いた。
説明板や柵はない。ここで考え込むアテクシ。
- こんなわかりやすいものが未発見の遺構とは思えない
- すでに発見されている本物の遺構なら、説明板や柵があるはずだ
- でなければ、うっかりだれかが壊してしまいかねないから。
- とすると、遺構ではない、江戸時代以降の、山で作業する人が作った倉庫か井戸跡か、その類か
- しかし、万が一ということもある。本当にこれが埋没遺構で、数年後に新発見!なんてことになったとき、「俺も見つけてたのにぃグギギ」したくない
- 仮に埋没遺構だとすると、古墳か秀吉の火薬庫あたりか
- 石積みの雑さから言えば、秀吉時代だろうか?古墳時代の石室は、もっと切り石を用いている気がする
- 恥をしのんで、あとで聞こう。備中高松城に学芸員さんがいれば、そこで聞けばいいし、いなかったら岡山の文化財課にメールだ
……」というわけで、備中高松城に学芸員さんは見つけられなかったので、年が明けて仕事始めになるのを待ってメールした。
返事を待ってる間は、そりゃもうワクワク。新発見じゃない可能性は 96% くらい(数字に根拠はない)と思っていたけど、やっぱり、もしも新発見だったら……と願わずにはいられなかった。
結論から言うと、この地域に散在する横穴古墳のひとつと考えられる、のだそうだ。なんでもこの山の周辺だけで、似たようなものが数十から百近くあるらしい。
したがって、説明板も柵もないのは、想像もしなかった
「たしかに史跡・遺構なんだけど、いちいち説明板や柵を設置してられない」
が真相だった。ぎゃふん。
清水宗治公首塚。秀吉の陣地で切腹し、首実検ののち、ここに葬られたとのこと。のちに墓は備中高松城の本丸に移された。
敵の本陣で切腹しても首実検するんかいな。首実検は本人確認というより一種の儀式としての意味があったのかしらんね。
いまはただの空き地だけど、秀吉が本陣を敷いたときには、持宝院という寺の境内だったそうだ。
- 佐古田堂山古墳
- 太閤岩
- 黒田官兵衛陣(首実検の場所)
- 宗治公首塚
- 柵門跡
- 堀尾茂助陣
- 池上孫兵衛の墓
- 蛙ヶ鼻築堤跡
- 宇喜多秀家陣
- 白井与三左衛門 殉死のやぐら
- 胴塚
- 本丸跡
- 二の丸・三の丸跡
- 宗治公位牌堂
- 郷やぶ(家臣殉死跡)
- 船橋遺跡
とはいえ、備中高松城そのものには、さして見どころはないのであった。
もともと江戸時代初期までに廃城となり水田と化してしたはずなので、ひどい公園整備とは思わないが、 あまり楽しめないのはいかんともしがたい。
蓮の花が美しい季節なら、ここも楽しめるだろうが、いまはかろうじて詫び寂びの美があるのみかな。
水攻めの高さ表示板などは、良い展示物と思った。健闘している。
ただし現存築堤の高さまでしかわからない。江戸時代の表記を信じて高さ 8m(標高 13m )を想定すると、こうなる。
見どころが少ないと書いたが、これには笑ってしまった。30 秒くらい声に出してケラケラ笑った。周囲に人がいなかったからな。
真面目に書いてる感もあるので、笑っちゃいかんような気もする。しかし、「音頭」とつけてるんだから、まあ、楽しませるつもりで書いたのだろう。笑ってもよしと勝手判断。
曲は今様、とあるので、七五調の曲ならなんでもよかろう。水戸黄門でも、どんぐりころころでも。 個人的には、やはり音頭っぽい曲がよい。考えたすえ、『ドリフのズンドコ節』がぴったりだと思った。水かさが増していく様子にふさわしいかと思って。
史跡 舟橋。このあたりに舟を並べた橋があったというだけで、この橋が貴重な建築というわけではない。蛙ヶ鼻と高松城と備中高松駅の中間という、通りすがりやすい場所にある。
駅へ戻ると、花壇の散水機が水をまいており、二重櫓風のかざりが水攻めされていた。ゆかいじゃのう。