3月に安土城址に行った。古城だ。実に良い古城。
第五話に予定していた城がボツになり、かわりに安土城を描くことに決めたので、 取材に行きました。
掲載誌のコミック大河 vol.5 を 読んでもらえればわかると思いますが、べつに現地取材が必要な話じゃないです。 いままでの話も全部そうだと言えばそうなんですが。
ただ、実際に行ってみることで良いアイデアが浮かぶときもあるし、 なによりボツになった悲しみをいやすために行かずにはおれなかったので、青春18きっぷでホイサッサしてきたのでした。
伝・大手道
安土城、大手道。つえが用意されてるのがわかりますか? 思った以上に山城です。
1998 年に復元整備された大手道。防衛のため屈曲させるのが当時の常識だったといいますが、 その常識に反して幅 3m の階段が 180m ほど直線状に続きます。復元されるまでは埋まっており、そのうえに昭和初期に作られた登山道があったのだとか。
その昭和初期に作られた登山道は幅がせまかったので、
発掘された本来の大手道の両端の方は、ほぼ当時のままの
「良い状態」
で見つかったそうです。登るときは端っこを歩くといいかもしれません。
復元大手道の中で、当時の遺構の残存度が高い部分です。
直線が 180m 続いたあと、急にぐねぐね曲がり始めます。
あと、一段一段の長さが不ぞろいで登りづらいです。
防衛のために、わざと駆け上がるのに不適な長さに設定してあるのですねという説があります。
そのため登るのが大変で年配の観光客の一部から不評もあるとか。
家臣の屋敷跡にあった溝。当時の家屋には雨樋が無いので、 ここで雨だれを受けて集めて排水したわけっすな。 だから、ここの上にちょうど屋根の庇があったのだと空想しましょう。
姫路城や熊本城だと、この浅い溝が貯水用の堀や井戸まで続いているんだけど、 安土城は琵琶湖に突き出した山の上の城だったので(当時。現在の安土山周囲は埋め立てられて農地になってます)、渇水対策の設備はそれほどなかったんじゃないかと思う。
家臣の屋敷跡。秀吉だったっけな?(追記:という説が有力だが、このあたりの建物群は家臣のものではなかったとする説もある)
排水口なのか、単に石が抜け落ちたのか。近年、整備されたんだから抜け落ちたってことはないか?
転用石
安土城址の特徴が、石垣や石畳に用いられた転用石。 石垣用の石の不足のために、 近隣の墓石だの地蔵だの石臼だのを石垣に用いたものを転用石と言います。それ。
だいぶ風化してて、言われなきゃ気づかないだろうなーってのが多い。
発掘調査中、崩れた石垣の中から見つかったという仏足石。これも転用石の一種。 屋根くらいつけたほうがいいのではないかと思うが。
戦国のころは、仏教の力が弱まった時代でもあるとか。
武士のあいだにキリスト教や天道思想が流行ったのは、
仏教が
「信じても役に立たねぇじゃねぇか」
と武士から思われたってのもあるかららしいと。
その一方で家康の家臣の一部とか一向宗とかにドはまりしてたりもするんで、 よくわかりませんけどね。
石垣いろいろ
安土城の石垣は多種多様で面白いです。基本、野面積みか、野面積みと打込接ぎの過渡期って感じの石垣なんですが。
縦置きは崩れ易い。それをあえてやるからカッコイイ…という場合もあるらしいのだけど、 これは単に面倒だったからこう置いてしまったという風にも見える。
この辺の隅角は、石の長辺が短辺のほぼ二倍で加工された切石でもあり、 算木積みが完成に近づいているように見える。
でも、この辺なんかはまだまだ算木積みが未完成に見える。
信長公本廟の石垣。江戸時代になってからのものでしょう。
同じ野面積みでも、ほかの石垣とずいぶん趣がちがう。なぜだろう。
信長の頃としては驚異的に高い石垣ではなかろうか。
特に説明板などは無し。運んでみたものの石垣には組み込まれなかった残念石だろうか?
追記:あとでネットで調べたら、これがかの『蛇石』か、もしくはその残骸だという言い伝えがあるらしい。
天主台
安土城天主台。天守を安土城に限り天主と書くのは、単なる業界ルール。
信長は天主と呼んだからであり、安土城天主がすべての天守の祖であることから、敬意を表して安土城に限り天主と呼ぶのが慣習になってるわけですな。
安土城の前にも四層以上の大櫓はあるのだけれども、それらはなぜか天守とはみなしちゃいけないようです。 お城の本を読んでると、 とにかくなにがなんでも安土城が天守の祖でなければいけないという無言の圧力が感じられ…おやこんな時間に誰か来た。
地面に埋まってる石は柱の礎石。このひとつひとつに安土城を支えた柱が乗ってたわけです。
ところが、中央にだけ礎石がありません。取り除かれたわけではなく、元からなかったということは調査の結果判明しているらしいです。
では、ここには何があったのか。安土城の議論が紛糾しているポイントのひとつです。
なにもなかったよ派
└─匠の遊び心が伺えます派
なにかあったよ派
├─心柱があったよ派
│ └─安土城は吹き抜けじゃないよ派
└─心柱はないよ派
├─トイレだよ派
├─ゴミ捨て場だよ派
└─仏塔があったよ派
もし、安土城の築城編を描くことがあるとしたら、ここは避けて通れない問題。 勉強して、自分なりにどこに組するか決めなければならない。 うう、胃が痛い……
はたして、ここには何があったのか…………
わたしです。
俺かい。ピースすんな。
釃見寺
釃見寺は、あまり建物の残ってない安土城址にあっては貴重な古刹。
ああ垂直が取れてない。
以前はこういう写真をレタッチで角度を直して上げてましたけど、 最近は自戒のためにも恥を晒すことにしている。
問題は、まったく治らず繰り返してしまうこと。自戒になってないorz
かわいい。
こういう角度は、なかなか資料もなくてよくわからんかったりするよね。 でも、こういう角度で描くこともまず無いのでわからなくても問題はないのだけど。
釃見寺仁王門。
なんか乳首がボディピアスっぽくてムズムズする。
その他
桜はまだつぼみだった安土山。
もうデジカメが相当にガタが来てて、左側(縦構図だと上側)のピンが甘くなってしまってる。
安土天主 信長の館にある、 セリビア万博に出品された復元天主(一部)、内藤案。
ルイス・フロイスの記述通りに復元すると、たしかにこうなるんだろうけど……個人的にはやりすぎだと思うんだよな、これ。
安土城天主がすべての天守の祖だとするならば、もうちょっと似た天守があってもいいはずなのに、どうして他に類似した天守が無いのか。
しかし、確たる証左がない限り、復元は今ある史料にのみ基づいて作られなければならない。
ああ、胃が痛い。
安土にて。昼食だか間食だか。滋賀が愛知に侵略されてる……。
尾張の人だしな>信長。