遺構が少ないことで有名な膳所《ぜぜ》城跡に行ってみた
訪問日は 2016-12-30。
年末年始は、メインは松江城と出雲大社で、あと時間があったら他の城も……という雑な計画で旅行しました。この膳所城は、その「余裕があったら行く」に分類してた城のひとつめ。
膳所城址公園の最寄り駅、膳所本町へは JR 膳所駅→京阪電鉄膳所駅の乗り換えです。 つまり、私は京阪電鉄の駅が JR 大津駅のすぐ近くにあるだろうと思い込んでたわけですな。
JR 膳所駅でコインロッカーに荷物を預けるべきだったのかもしれない。京阪電鉄膳所本町駅にはコインロッカーが無かったので。下調べが不十分だった自分が悪い。
有名店ではない、いかにも地元ユーズな、町の小さなふなずし屋があった。食べたいと思ったけど、まだ昼飯時じゃない。あとで戻ってきたら食べよう…と思って通過したが、結論から言うと戻ることはなかった。
膳所神社。この門はかつての大手門の移築だそうだ。貴重な現存遺構である。
が、まずは城址公園を見てからと思っていたので、写真一枚だけ撮って、通過してしまった。 このときは、あとで戻ってくるつもりだったからだ。
膳所市民センター
中途半端に天守風なのが評価に困る。おもねるなら徹底的にやって!
高さは失われた天守とほぼ同じだそうだ。つまり同様の景色が見られるのかもしれないが、ナンチャッテ天守に興味はないし、そもそも 12/30 なので、たぶん営業してなかったはず。
膳所城址公園
城址公園前に到着。せっかく本物が残ってるんだから忠実なレプリカにすりゃいいものを、わざわざ史実に基づかないナンチャッテ城門にして自らの評価を落としているという。
膳所城は、建物の残りが非常に少ない城だ。幕末の膳所藩は土地柄的にも勤皇派が多い藩だった。幕府から弾圧を受けて藩士が切腹させられたこともあった。そんなわけで、新政府が樹立すると、旧藩士たちは待ちかねたように自分たちの城を解体し、売り払ってしまった。
そんなわけで、市内に移築建造物は多いが、城址である膳所城址公園には、建物はほとんど残っていない。
だから、膳所の人達は城址そのものはあまり見に来てほしくないのかもしれない。トホホな城門も、そのあらわれだろうか……そんなことを考えた。ところが復元石垣のクオリティは異様に高かった。どこから残存石垣か、よくわからないほどに。なんか、単に行政の方針が、その時々で、ちぐはぐだっただけかもしれない。
二の丸は現在、浄水場になっているのだが、メンテのためだろうか、二の丸橋の下に降りる道があった。
芦原が広がり、シラサギにアオサギ、カモ類と、あとなんかよく知らない鳥が見られた。
江戸時代の絵図を見る限り、芦原になったのは明治の廃城以後と思われる。
>【近江名所図会】
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=YA6-192-001-004-001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9B%B3%E4%BC%9A%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=24
この建物を復元多門櫓と書いているサイトもあったが、おそらくナンチャッテ櫓だ。たとえ外観だけであっても、ポンプ小屋を本格的な復元にする意味はない。景観に配慮しましたよという程度のものであろう。
しかし、その下の復元石垣は本格的だ。なぜだ。
矢印のところで色が変わってるので、そこから左が復元石垣だと思うが、どうなのだろう?説明が欲しい。
この苔むし様はいかにも現存石垣に思えるが、植物がはびこるのなんて数年あれば十分だしな……
本丸の南側。縄張り図には本丸の門は二つなので、若宮八幡宮に移築された犬走り門は、このへんにあったということか。
とすると、このセメントで覆われてたり、花壇が作られてる部分は犬走りなのか。ォゥフ……
本丸南西あたりの犬走り。水面にちょっと顔を出してる根石は本物の残存石垣らしい。
この階段状の石段は当時からあったのか、公園化の際に歩きやすいよう作られたのか……と悩んだ。ネットで調べたところ、大津市科学館の模型には、この石段が天守台の下にあった。現存か復元かはわからねど、ともかく当時こういうものがあったのは間違いないようだ。
してみると、あきらかに犬走りへの行き来を楽にするためのものである。犬走りは頻繁にそこに降りることを想定して作っているのであって、単に高石垣の高さを稼ぐために設けてあるという考え方は説得力がないとわかった。
ちょっと、そういう説もあるのでね。加藤清正とちがって扇の勾配の技術を持たなかった藤堂高虎は、かならず犬走りを設けて石垣の高さを稼いだ……と。
清正が技術を他家に盗まれないよう隠したという逸話は有名。しかし、曲線勾配を用いるかどうかは地盤の堅牢さや上に乗せる建物の重さと密接に関係しているので、直線勾配だから技術力がないと見なすのは早計だろう。
しかしまー、とにかく、石垣の痕跡以外、何も残ってない城址だ。
せめて、ここに犬走り門がありました。ここに天守がありました。ここに……という看板があればいいのだけど、それもない。どうしても、やっぱり、城址公園は見ないで、市内の移築建築を見て回ってほしいという無言の圧力を感じた。
「この公園は私たちが整備しています」という、どうでもいい看板はある。
だから、やたら説明版があるのもダサいよね、と思ってるわけではなさそうだ。
しかしながら、水鳥は多く、さざ波の音は耳に心地よく、これで春や秋のポカポカ陽気なら、ここでまったりするのも悪くないと思える良さはあった。湖畔の公園は総じてそういうものであり、ここもその例にもれない。
復元石垣が古写真に基づく忠実な復元だとすると、隅角の算木積は、それほど徹底してなかったことになる。
江戸も中期以降となって、間知石積が主流になっていくと、必ずきっちりした算木積が行われるようになる感じ。しかし、15c 1Q までは、算木積の技術はもってても、必要なければ使わないという意思がくみ取れると思う。
膳所城の石垣が築かれたころは、もう算木積はかなり洗練されていたはず。にもかかわらず膳所城址の石垣は、天守付近以外では、わりと雑な算木積もしくはぜんぜん算木積になっていない隅角だった。
膳所城 石鹿地蔵尊。信長の延暦寺焼き討ち以降、その地蔵たちが転用石としてあちこちの城の礎石などに使われ酷使されてきたのだけど、ついに膳所城の廃城後に救い出され、こうして祀られているのだとか。
個人的には、膳所城址公園でいちばん歴史ロマンを感じた展示物だった。