近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー



[史跡] 史跡の軌跡 3

この記事どう? ええよ~

勝者が歴史を作り、敗者が史跡と化す …… エグザンプル・コム(架空の歴史家)

この記事は、単独で記事を立てるほどでもない小さな史跡を紹介するための記事です。ときたま更新します。
蒲生氏郷墳墓の地

パート3です。過去エントリはこちら。

  >史跡の軌跡 | 桝席ブログ
  http://www.masuseki.com/wp/?p=28

  >史跡の軌跡 2 | 桝席ブログ
  http://www.masuseki.com/wp/?p=9292

この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。

ページ内ジャンプ

戊辰のヒロインなりそこね 涙橋と中野竹子殉折地(福島県会津若松市)

訪問日:2018-08-20

会津武家屋敷を見て、この日の予定のタスクは完了だったのですが、日没まであと2時間くらいあるし、見られるなら見たい……と予備タスクに入れていた中野竹子殉折地と神指城方面に向かいました。

神指城は 2018 時点ではあまりアクセスが良いとは言えず、会津武家屋敷からバスで七日町駅前で降り、そこから 2.7km 徒歩というルートをとりました。会津バス坂下線に乗り黒川(バス亭)で降りたら、歩く距離も半分で済んだのですが、あいにく坂下線は1時間に1本強というペースの路線であり、時間が合わず、七日町駅前から歩いた方が早く到着できそうだったのです。

歩いたおかげで予定に入れてなかった史跡に巡り合いました。涙橋。
涙橋

古くは揚柳橋と呼ばれたとか。神指城においては防衛の要となる重要な橋だったようです。
涙橋

江戸時代は処刑場があり、キリシタンが処刑されたとかなんとか。また処刑される人間が家族と別れる場所だったため涙橋と呼ばれるようになったと。

そして、会津戦争で山本八重と並んで男勝りな戦いを見せた中野竹子が被弾した『柳橋の戦い』の場所でもあるのだと。 ああ!読んだことあるぜ!(でも予定に組み込んでいなかった)

なるほどねぇ。ここでねぇ。
涙橋

普通ならここで湯川の様子や、橋を渡ったところからの写真も撮るのですが、このときは疲労と焦りで、そんな発想がありませんでした。

焦り? ええ、そうです。バスを待たないと決めたのに、バスに追い抜かれでもしたら、心が折れるじゃないですか。

というわけでとっとこ歩いて、こちらは予定に入れてた中野竹子女史殉折地に到着。
中野竹子女史殉折地

葦名家花見ヶ森廟なみに広そう。VIP 待遇か。
中野竹子女史殉折地

いや、中野竹子が人気なのは、わかりますよ。山本八重と並ぶ男勝り。しかも、こっちは美女でしたから。

 >中野竹子 – Wikipedia
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%AD%90

山本八重ではなく中野竹子の方が生きて活躍して会津戦争の主ヒロインの座を占めてたら、後世のストーリーテラーは苦労することもなかったのに……という、失礼極まる話はおいておいて、ともあれ才色兼備の女子であったと。

でもですね、本当に頭が良かったかどうかというと、私は疑問なのですよ。文才があったことは確かでしょうが。

まず、銃火器になぎなたで立ち向かってますからね。竹やりと爆撃機がネズミvsライオンとすれば、なぎなたとライフルはネズミvs猫みたいなもんですから。レベルとして、あんまり差はありません。
中野竹子女史殉折地

しかも、竹子が死んだあと妹の優子や母・孝子は、なぎなたで戦おうとしなかった山本八重を非難していたらしいのですね。もう、勝ち負けじゃないんですよ。女性はなぎなたで戦うものと決まっているから、そうするべきなのだ、という考え方。そして、当時の会津城下の女性たちの一般的な考え方は、中野家の方。

おまけに竹子は妹の優子についても、戦うには若すぎる。城に入っては足手まとい。城下に残っては美貌ゆえに(優子も姉・竹子に劣らず美しかった)辱めを受けるだろう。これは殺すしかない……と極論に至って殺害を企て止められてもいます。

いざ城下に敵が来ると照姫をお助けするのだ!と照姫を探して右往左往したあげく、城内に入ろうとするも断られ、しかたなく涙橋で戦って被弾して完。

ない。まったく戦略がない。文才はともかく、こと戦闘ということに関しては、まったく落第点なのですよ、竹子は。対して山本八重は男装して首尾よく城内に入り込み、父や兄の代わりに砲術師として居場所を確保しました。八重の方がはるかに戦略的で現実が見えていた、しかも勝つために戦っていたと言わねばなりません。

それはともかく、死んだ竹子の首を敵に渡すわけにはいかないと、優子・孝子は介錯して首を回収したといいます。

いかに幕末とはいえ、女性の首級が武士の手柄にならないのは同じだったと思うのですよね。

それでも首を回収したのはなぜか。竹子は江戸詰め家臣の娘で江戸育ち。その美貌と文才ゆえに江戸でも有名人でした。 つまり、死体が敵の手に落ちたら、死姦されるおそれが十分にあったということでしょう。

そんな美貌の中野竹子の像が、これ。
中野竹子女史殉折地

彫刻家は、一生懸命やったとは思うのですよ。思うのですが、これが美貌で知られた竹子の像を表現できているかというと、残念ながら私は
「そうは見えない」
と正直に述べたいと思うのです。
中野竹子女史殉折地

というわけで、とりとめもありませんが、戊辰戦争のメイン・ヒロインになりそこねた中野竹子殉折地を見たと言う話でした。

時代劇マンガにやたら描かれる場所 島原藩下屋敷跡前(東京都港区)

訪問日:2019-05-03

史跡として国や都や区に指定されているわけではないと思いますが、前から行きたかったところにやっと行けました。着いたのは日没後でしたが。
島原藩下屋敷跡

島原藩の下屋敷があった場所の、その前の通りです。

 >幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース-島原藩下屋敷(1)
 http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=1443

なんで、ここに来てみたかったかというと、この場所がやたらめった、時代劇マンガ/歴史マンガで描かれる場所だからです。

しかも、高確率で島津藩邸として描かれてます。あの、『風雲児たち』でさえ!島原藩なのに!島原藩なのに!

間違えたんじゃなくて、島津藩の藩邸の史料が無い – まあ、島津と島原、名前が似てるし!同じ九州だし!細けぇことはいいんだよ!ってな感じだったんでしょう。だってしょうがないじゃない、島津藩邸の古写真、ないんだもん……
あとから知りましたが、実は島原藩邸だと判明したのが近年(2010年代?←うろおぼえ)のことで、少なくとも20世紀の歴史書や歴史作品が間違えてても無罪だったのでした。

一点透視法で描きやすいんですよ、この古写真。それが時代劇マンガ/歴史マンガで多用される最大の要因だと思います。

私も。浅倉家で参考にした記憶があったような気が……記憶違いかもしれませんが。

比較。ベアト氏より低い位置にカメラを構えてしまいました。あと、思ったより坂に近い所で撮ってたんですな。
島原藩下屋敷跡(左は古写真)

島原藩下屋敷は現在では慶應義塾大学の敷地となっています。

場所はこちら。
https://www.openstreetmap.org/?mlat=35.64912&mlon=139.74127#map=19/35.64912/139.74127

夜泣き治療に効果あり 戸ノ口原古戦場跡(福島県会津若松市)

訪問日:2018-08-20

 白虎隊の出撃路を小一時間ほどトレースして、ついに到着しませリ。白虎隊奮戦の地、戸ノ口原古戦場跡
戸ノ口原古戦場跡

会津藩は新政府軍が中山峠から来ると踏んでそこに主力を配置したのですが、裏をかかれて新政府軍は母成峠を突破。 急遽、未熟な少年兵部隊の白虎隊まで含めて迎撃に駆り出され、戸ノ口原原付近で合戦となったのでありました~やんや、やんや。

というわけで、ここらあたりが衝突地点として慰霊碑などが立ってるもので、戦闘の痕跡があるわけではありません。
戸ノ口原古戦場跡

白虎隊の野営の地や塹壕代わりにした新四郎堀などの遺構は、もっと西。

というわけで、説明文を読んで、ついに来た……いう感慨にふけるのみ。
戸ノ口原古戦場跡

供養塔に手を合わせる程度のことはしました。
戸ノ口原古戦場跡 供養塔

当時は樹木がもっと少なく、荒野荒野してたようです。
戸ノ口原古戦場跡

新政府軍の銃は主にライフル。会津軍もライフルを少しは持っていましたが、全体に行き渡らせられるほどではなく。 射程が全然ちがうのに、遮蔽物がない荒野で戦うなんて、そりゃもう自殺行為でしかありません。

会津藩士らもフランス人から近代的な散兵の戦術を学んでいたはずなんですがね。ゲリラ的な戦い方は理想化された武士の美意識的が邪魔して、できなかったのかもしれません。特に会津藩はそういう意識がありそうに思えます。 ならぬことはならぬとかなんとか。

ところでこの戸ノ口原古戦場跡には『夜泣き石』と呼ばれる石があります。これはなんでしょうか? 夜泣き石

時は戦国(と書くと、どうしても「世は地獄」と続けたくなるのは仕方がないことなのです。わかるでしょう?ええ)、葦名氏時代のこと。

そう、この「夜泣き石」、戊辰戦争とは関係ありません。

その葦名氏の頃、わけあって捨て子にされた子が、鬼におびき寄せられ食い殺されそうになったが、この石が子供の足をしっかとつかんで朝まで話さなかったという。

そう、この「夜泣き石」、戊辰戦争とは関係ありません。

石には、いまも子供の足のような窪みが残っている。

命が助かった子が、その後どうなったか説明板は伝えていないのですが、その後の江戸時代になって。

戊辰戦争と関係なく夜泣きする子供を連れて、この石にお参りすると戊辰戦闘に関係なく夜泣きが治るという噂がひろまり、 この石はいつしか戊辰戦争とは関係なく「夜泣き石」と呼ばれるようになったそうな。

戊ッ!辰ッ!戦ッ!争ッ!無ッ!関ッ!係ッ!破ァーッ!!。

というわけで、子供の夜泣きにお悩みの親御さんはぜひお参りしてください。

夜泣き石の写真、PIXTA に登録申請したのですが審査に落ちたので、pixivFANBOX の支援者コンテンツにスライドさせました。縮小なしで見たい人は、ぜひ支援者になってくださいませ。
夜泣き石(会津若松) 3648×2736ピクセル

ちなみに、ここから東にほど近い、会津レクリエーション公園には新政府軍の本陣があったといいます。

私はその情報を事前に把握していましたが、このあと十六橋の戦いがあった十六橋水門へ向かい、見終わったときには新政府軍本陣のことをすっかり忘れていました。なので、新政府軍本陣跡は見逃しです。

三の丸堀跡、見逃したァアア!会津若松城追加史跡(福島県会津若松市)

訪問日:2018-08-19

会津若松城が国の史跡に指定されたのは、昭和九年。しかし、平成五年に、追加で史跡された部分がある。

そのうちひとつはこれ。天寧寺町土塁。
会津若松城 天寧寺町土塁

城の北東にある。石垣が立派な会津若松城であるけれど、土塁も多用したのだとわかり、たいへん興味深い史跡だ。思いのほか、残っている。開発の進んだ会津若松市の市街地に残る遺構であり、貴重なものだ。

とはいえ、ぞんざいな柵・金網は景観配慮もなにもあったものじゃないし、土塁として高さも普通であるから、そんなに見ごたえがあるというわけではない。

もう一つはこれ。甲賀町口門跡。
会津若松城 甲賀町口門跡

こちらも、さほど手入れが行き届いているようには見えないけれども、天寧寺町土塁よりはマシな感じだ。これは城の北の方にある。

大きな鏡石が目立つし、会津若松城主郭の石垣とは積み方が異なる感じで、興味深い。なかなかの見ごたえがあった。
会津若松城 甲賀町口門跡

追加指定されたもう一つは、三の丸堀跡だ。見逃した。

見逃した。

そう!見逃したんだよチクショーメ!ベラボーメ!三の丸まで行っておきながら!あーこりゃ駐車場化されちまってるな……と決めつけて三の丸入り口でちょこちょこ写真撮っただけで引き返しちまったんだよウオオオオオァアアアアッ!!!!

つまりは、事前の下調べが不十分だったということだ。これ(見逃し・撮り逃し)ばっかしは、城マニアの誰もが経験する通過儀礼じゃないですかね。

会津若松城へは、あと一度くらい行くと思うので、そんなに悲嘆はしてませんが。

そもそも、たいしたものは残ってなさそうであるし>三の丸堀跡。

 >会津若松城の写真:三の丸堀跡 | 攻城団
 https://kojodan.jp/castle/23/photo/15439.html

見逃した原因はもうひとつある。外郭大町口門跡を、追加指定された3つのうち1つだと誤解してしまったのだ。
会津若松城 外郭大町口門跡

御覧の通り、碑があるだけで、国史跡に指定されるような残存度ではない。
会津若松城 外郭大町口門跡

が、このときは、ともかく追加指定されたのは3つということだけ頭にインプットされてたので、
「やれやれ日没前に3つとも撮れたわい、これで今日のタスクは完了」
と、安心してしまったのだった。

撮ったからあとで読めばいい……じゃなくて、その場で読まなきゃだよね>説明板。それも、何度もやらかしてるくせに学習しないミス。

オーラが無い 蒲生氏郷墳墓の地(福島県会津若松市)

訪問日:2018-08-19

2018 年、夏旅行のテーマは戊辰戦争関連遺跡だった。が、戦国のレジェンド武将の一人、蒲生氏郷公の墓ともなれば、やはり見ておかねばというものだ。

到着。会津若松市の市街地中心に存在する。
蒲生氏郷墳墓の地

建物の林立する街中にあるせいか、聖なる墓所のオーラがまるでない。
蒲生氏郷墳墓の地

かつては御霊屋もあったが、戊辰戦争で焼失したそうだ。戊辰関連遺構のひとつと言えなくもない。
蒲生氏郷墳墓の地

オーラが感じられないのは、御霊屋が焼失したせいかもしれないし、没した場所が会津ではなく京都だったかもしれない。

会津転封の際、こんな辺境では天下を狙えないと涙したという話も、会津の地元民からすれば、プチ面白くない逸話に思える。

説明板は充実しているのだけど、葦名氏花見ヶ森廟や松平氏墓所にくらべると、なんとなく神聖なムードに欠けてぞんざいさがあるのは、その辺のせいかもしれない。

もっとも、氏郷が逸話のとおり、京都大好きっ子だったのなら、ば。

閑静な山麓の霊廟で神妙に参拝されるより、こうして街中で肩がこらない感じで親しまれてるほうが、幸せなのかも。


ここはシェアと拡散の店だ。どんな用だい?

さっそくフォローしていくかい?

桝田道也の電子書籍・写真・フォントその他が月額100円で読み放題!
ダウンロードし放題!ほめ殺しし放題!
あなたも支援者になって桝田道也ほめてほめてほめまくりませんか?
桝田道也の pixivFANBOX 『オニオンおにぎり』

桝田道也の電子書籍・写真・フォントその他が月額100円で読み放題!ダウンロードし放題!ほめ殺しし放題!あなたも支援者になって桝田道也ほめてほめてほめまくりませんか?――桝田道也のpixivFANBOX『オニオンにぎり』

このブログを書いた人間/サイト管理者

桝田道也(ますだみちや)
桝田道也(画像)