拙作を確認に行く旅(1)神川合戦の地(長野県上田市)

神川合戦の地での徳川の大敗は神川の河岸段丘のため、と描いてみたものの

2016 年のこと。攻城団様の依頼で第一次上田合戦のマンガを描きました。

 >マンガでわかる上田城(第一次上田合戦) | 上田城のガイド | 攻城団
 https://kojodan.jp/castle/60/memo/2616.html

撤退する徳川は神川を渡る際に大きな被害を出しました。これは徳川・真田の双方の記録に見られるので(被害の規模に解釈の差があるとはいえ)徳川が神川でキャン言わされたのは間違いありません。

問題は、神川がそれほど大きな川ではないことです。そんなに渡河の難しい川だろうか?と。そういう疑問が沸くのはもっともに思えます。

したがって、このとき運悪く増水していたのだという説があります。さらには、上流で真田が水をせき止め、逃げる徳川の渡河に合わせて放流したのだという説すらも。

後者の説については、電信機のない時代に、そんなにタイミングよく放流できるものなのか。徳川方にだって間者はいるだろうに、水を貯めるという隠すのが難しい所業に徳川が気づかないということがあるだろうか?などツッコミどころ満載なので、私は歯牙にもかけませんでした。

運悪く増水していた説については、そんな事情があったら大久保忠教(=彦左衛門)が三河物語に書かないわけがないと思うので、これも採用しませんでした。

おちゃらけたマンガのように思われているかもしれませんが、作者なりには一級史料である『三河物語』こそ信頼すべきと判断し、忠実にマンガ化したのです。

すなわち、神川の河川敷まで高低差がありすぎたため、徳川は大敗したのだと。

というわけで、クライマックスにこんなコマを描きました。
拙作  	真田親子の波瀾万城(1): 第一次上田合戦編 より。

しかし、自分で描いておいてなんですが、半信半疑でした。なぜなら、Google ストリートビューで神川橋から見た神川は、さほど河岸段丘があるように見えなかったからです。

これは今回(2019/09/03)、現地訪問して撮った神川橋から見た神川合戦の地方向。うん、あまり高低差があるようには見えません。
神川橋から見た神川上流

このときは、
「まぁ、マンガだから多少の誇張はね……」
と、何かを飲み込んでそのまま描きました。

私は波瀾万城シリーズについて、基本的に自分で現地取材してない城はとりあげない、というルールで描いておりましたが、このときはその縛りの適用外としました。というのも、2016 年は『真田丸』の放映年であり、上田城が依頼されたのも、そういう背景があったからです。しかし、このときの私はスケジュール的にも経済的にも上田まで取材に行けない状況だったのです。

そういうわけで、飲み込んだ何かはそのまま胸のつかえとなり数年が過ぎました。

今回、ようやく上田を訪れることができたので、自分が飲み込んだ何かははたしてどうだったのか、飲み込んで良かったのかどうかを見てきたと言う話です。

ちなみに、このとき描いたマンガはのちに彩色と一部加筆訂正を施して、電子書籍として販売しております。

真田親子の波瀾万城(1): 第一次上田合戦編。河岸段丘が合戦に与えた影響とは。城擬人化マンガ・波瀾万城シリーズの続編 波瀾万丈
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 >真田親子の波瀾万城(1)第一次上田合戦編  (攻城団 2016 年)|桝田道也|pixivFANBOX
 https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/117088

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神川合戦の地は黒坪公園のあたり?

神川橋のあたりから、「神川合戦の地」の看板が見えます。Google Map 上でも、この看板のあたりに「神川合戦の地」の文字があります。じゃあ、このあたりで渡河できず殺られたの?と思ってしまいます。が。
神川橋より

神川橋から 500m ほど上流に黒坪公園という公園があり、ここに「神川合戦の地」の説明板があります。
黒坪公園(神川合戦の地)

まだ日も高かったのに、この手ブレっぷりはどうしたことでしょうか。

説明板の地図を見ると、この黒坪公園か、黒坪公園のちょっと北あたりが神川合戦の地……というのが上田市の公式見解っぽいですね。
黒坪公園の説明板

実際どこだったのかというと、いまいちはっきりしないのです。三河物語では「石橋」なる場所が徳川軍の渡河地点だったことがわかります。
『三河物語』より

この「石橋」が地名なのか、単に渡り石を指すのかわかりません(石橋は石で出来た橋を意味する場合もありますが、古代から中世にかけては渡り石の別の言い方でもありました)。私は地名ではなく、石橋があった場所(もしくは徳川軍が臨時に渡り石を設置した場所)であろうと思いますが。

ちなみに江戸時代を通じて、公共な橋は先ほどの神川橋と、ずっと上流の真田郷に至る街道にかかる橋の二ヶ所だけだったようです。 私的な橋はどうだったかわかりませんが、ともかく行政が整備したのはその二ヶ所。つまり、神川を渡る正規の道は千曲川沿いの道か、砥石城の鼻先をかすめる道かの二本。ここは真田軍とて厚く防衛したのではないでしょうか。

徳川軍が「石橋」なる場所を渡河地点に定めたのは、敵の待ち構えている街道を避け、手薄なところから神川を超えたのではないかと予想します。

流量がコントロールされた現代の河川と中世の河川の乖離は大きそうですが、さほど川幅も水深もなく、どこを切り取っても「石橋があった場所」と言えそうです。
神川

黒坪公園の北辺あたりから。いかにも「石橋」があった感じがします。
神川

ちなみに、バイパスが通るらしく架橋の工事中でした。なんか発掘されろ!(ぉぃ

で、ここから見まわすと、こんな感じでした。ああっ!だ、段丘!河岸段丘がある!
黒坪公園の北端そばから北方向

おおお!これは結構、高さがあるぞ……?
黒坪公園の西側段丘

高い(小並感)
黒坪公園の西側段丘

これは、段丘の上まで行ってみなくては……と登ってみました。

眼下に黒坪公園。先ほどの看板は豆粒に見えます。けっこう高い。
黒坪公園の西側段丘の上より

いやこれ、けっこうどころじゃない。相当、高い。高石垣くらいの高さはある。
黒坪公園北西の段丘の上から

地理院地図で確認すると、約 30m の高低差。大阪城の建っている丘陵くらいの高低差が敗走する徳川軍を阻んだことになります。

おお、ちょっぴり自信なかったけど、自分、いい線をいってたのかな?

しかし、それもこれも、逃げる徳川が、わざわざ高い方へ逃げたという前提が成立してこそ。

マンガではページの都合もあり「武士の本能で」と簡便に処理してしまいましたが、この点はどうでしょうか?

まず、上田城で有名な尼ヶ淵ですが、この浸食による絶壁は上田城にとどまらず、神川までずっと続いています。
地理院地図より

いわば尼ヶ淵崖線とでも呼ぶべきこの崖より低い河川敷を徳川軍が敗走した可能性は低いでしょう。低地は不利であるばかりか、河川敷は一般に通行不便ですから。

一方、地の利のある真田側は、河川敷の中に歩きやすい場所を熟知しており、逃げる徳川を追い抜いて、先回りした可能性がありえます。あるいは地元民ですから、舟を使って先回りしたかもしれません。

問題は、逃げる徳川が、もう一つ上の段丘に上がったかどうかです。マンガでは「武士の本能で」と誤魔化しましたが、火急の際に坂を登るのは、いかにもアホなくさく、ありえなさそうな気がします。

染谷城のあたりは第二次上田合戦で秀忠が陣を敷いたと推定される場所ですが、第一次のときにどうだったかはわかりません。 しかし、この段丘に上がっておかねば、北の砥石城の軍勢(+上杉の援軍)に対して不利であるということは考えられるでしょう。

さらに東には、かつて岩門城という城がありました。あまり詳細のわかってない城ですが、神川の断崖を背にした後ろ堅固の城だったとすると、搦手道として神川河川敷に降りる道があったことでしょう。現代の地図では、岩門城から北東に 400m ほどの篠井神社のところで、河川敷に降りる道があります。三河物語の言う石橋とは、実はここにあったと考えられないでしょうか?

そして、南の段丘の下に信濃国分寺跡があったことを思い出せば理解も早いと思いますが、この段丘にはかつて、条里がありました。 その痕跡である碁盤の目は戦国時代にもある程度、残っていたのでしょう。なぜかというと、現代においてもこの地区には顕著な碁盤の目が見られるからです。

不慣れな土地で戦うことのハンデとして、道に迷ったら詰む、という恐怖を考えなくてはなりません。その点、碁盤目の道があれば、少なくとも迷いにくいという利点はあったことでしょう(だからこそ、碁盤目を迷路化すれば防衛に役立つはずだ!という発想につながっていくわけですが、この発想が実際に都市計画に組み込まれたのかどうか、それは私が現在とりくんでる別の問題なので、これ以上の言及は避けます)。

ともかく、三河物語において敗走する徳川軍が廿騎斗本道を。石橋の方へ向かっているのに注目したいと思います。本道。いろいろな意味にとれます。いわゆる小諸に向かう千曲川沿いの道を指してて、石橋とは神川橋のあった場所かもしれません。

もともと木橋が架かっていたけれども、真田が事前に防衛のために破壊してしまっていたので、徳川が神川橋がかかっていた場所に石橋(渡り石)を作ったのである、と。

しかし、それならそれで、そのことを三河物語に記録していそうなものです。そして大敗の理由も、即席の渡り石であったため渡河に苦労したとかなんとか言い訳したのではないかと。

仮に、本道が指している道が、大宝の時代に敷かれた条里の基準になる道だとしたらどうでしょうか?上田市の中心地にある科野大宮社からまっすぐ東へ東へ進み、染谷台の段丘に上がりさらにまっすぐ東。アウェイの徳川には非常にわかりやすい道です。ついに篠井神社のところで神川にぶつかります。先に出た岩門城跡からわずかに 400m ほど北東です。現代の地図ではここに河川敷へ降りる坂道が存在します。

が、はたしてすんなり、降りられたかどうか。岩門城は神川の絶壁を防衛線にした城です。篠井神社のところで河川敷に降りられるといっても、現代のような整備された坂道ではなく、曲がりくねった搦手道だったと思われます。人はともかく、騎馬はすんなり、降りるわけにいきません。

そこへ北から砥石城の軍勢がプレッシャーをかけます。徳川勢(逃げ遅れ組)は渡河をいったんあきらめてジリジリと南に後退しながら応戦します。

ところが、南方向もついには断崖にぶつかります。黒坪公園の西の段丘、国露津穂《くろつぼ》神社があるあたりです。断崖の下には先回りした上田城の軍勢が待ち構えてて挟撃の形になったことでしょう。

追い詰められた徳川勢(逃げ遅れ組)はパニックに陥り、イチかバチか断崖を無理やり降りて、殲滅の憂き目にあった……

これが、たまたまの増水など三河物語に書かれてない条件に頼らない、三河物語の妥当な解釈ではないかと思います。やっぱり、河岸段丘の高さこそが敗因であったと。

してみると、私のマンガはそこそこ良い線を叩けていたのではないかと安心を得ることができ、胸のつかえがとれたのでした。
拙作  	真田親子の波瀾万城(1): 第一次上田合戦編 より。

Google Earth のスクショ。左下が黒坪公園。うん、良い線を叩けていたと思います。
GoogleEarthスクリーンショット

2016 の段階で、国露津穂神社の辺りもストリートビューカーは走っており、執筆時に見てはいたんですけど、やっぱり現地に行ってみないと確信は抱けないものですね。

あと、2016 の頃はまだ、地理院地図が使いこなせていませんでした。

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