北近江を与えられた秀吉の最初の城
私的に描いている藤堂高虎と加藤清正のマンガ、 『ダブルタイガー』(ブクログのパブー)の ために、秀吉関連の城を中心に見て周る旅の四日目。この旅行での第四の目的地は、秀吉の最初の居城、近江長浜城。
ぶっちゃけ、城址公園に遺構はあんまり残っておらず、史実に基づかない模擬天守ありーので、 長浜に行くなら長浜城よりも浅井長政の居城、小谷城を見るべし、と言われる。
それはまったくその通りなのだろうと思うが、最初に書いた通り藤堂高虎と加藤清正に関係してることが私にとって重要なので、小谷城は今回はスルーしたのだった。
まずはガッカリ城址公園
駅から見た模擬天守。
史実に基づかないということを気にしなければワクワクしないでもない。
本物の天守はこの場所にあったと伝わっている。つまり模擬天守は、位置すら史実とは合ってない。地盤の都合など、いろいろあったんだろうが……。ここに模擬天守が建たなかったことで、なにか守られたかというと、そういうこともあまりなさそうだ。
あんまり猿っぽくない、りりしい豊臣秀吉像。
冠の簪《かんざし》は、こんな耳の上ではなくて髻《もとどり》の位置から出るものじゃないかな?と思ったけど、このころには簪が単なる装飾品になってたので、こういう冠があったのかもしれない。
なにより、時代装束の細かい点につっこんだら、それは自分にブーメラン投げるも同然だ。 私だって、たいがい、わからないところをごまかしごまかし(本人はごまかせてると思っている) で描いている。
いまは琵琶湖の波打ち際だが、ここに長浜城の井戸があったといわれている。
湖まですぐで城内が水路だらけでも、井戸は掘るんだな。そりゃそうか。
やはり、シェーを決めるなら模擬天守よりこちらかな。
湖畔より琵琶湖パノラマ。一部、うまくつながらなくて手作業レタッチでつなげた。
サル舎。
史実に基づかないコンクリ模擬天守のある城址公園は高確率で獣舎があるね!もうセット販売されてんじゃないかと思うくらい。
模擬石垣。ここはそこそこ、当時の野面積みを再現できてるのだが。
当時には無かった天守台隅角の算木積み(追記:2016-04-17)当時、黎明期の算木積みが始まってはいたが、この模擬天守のもののような完成期の算木積みではなかった。
そして、当時にはたぶん無かった二階より上の総漆喰塗籠。当時にはたぶん無かった姫路城風の格子出窓。
多少なりとも史実を守ろうとした部分は、現存天守では古い部類の犬山城に似せた天守最上階のデザインと、天守台の勾配のゆるさ、低さくらいだろうか。
とはいえ、これは来る前から下調べでわかっていたことなので、そんなにショックはない。
とりあえず、とっとと見るだけ見て退散。今日は、市内のあちこちを回らねばならないのだ。
天守最上階より。
ミュージアムショップで、長浜城に関する良い資料でもあればと思ったのだけど、 ないんですね、これが。
あるのは小谷城や彦根城に関するものばかり。ここは長浜城でしょーが!
長浜城では採算が取れなくて、書籍なんかも出しにくいのはよくわかる。 でも、小谷城のグッズや本が欲しければ小谷城へ行ってるっつーの!
わざわざその城へ行ってるのは、その城について知りたいからってのをわかってくださいよたのみますよ。
ガッカリ城ってやつは史実を無視し、余計なことをやり、他人のふんどしで相撲をとり、自らガッカリ度を高めてるからたちがわるい。
あさましいことを考えずまっとうな整備をしてれば、時間はかかってもいずれは良い評価につながるというのに。
城址公園はガッカリだったが城下町は最高だった
長浜城は関ヶ原後に廃城となったのだけど、いくつかの建造物は移築され残っている。 たとえば彦根城の天秤櫓など。
市内にも残っているので、それをレンタルサイクルで見て回った。 どちらかといえば、長浜へ来たのは城址公園よりこちらがメイン。
良い城下町。
豊国神社。秀吉を祭神としている。
ちなみに社殿には随神《ずいじん》さまの像が祀られていたのだけど、 そのときの私は「随神さま」自体を知らず、右の矢大神が秀吉に似てたのでてっきり 秀吉だと思い込んだ。でも、左がわからない(勘違いしてるから当然だ)
なので、神官っぽい人にたずねてみた。
私「すみません、左の像は誰なんですか?」
神官(めんどくさそうに)「……随神様」
私「……?(ず、ずいじんさま……ってなに?)」
神官「……」
私「……(説明を待ってる)」
神官「……(無言)」
私「えーと、あの、右は秀吉の像ですよね?左は秀頼ですかね?」
神官(にべもなく)「随神様」
私「え……あの……」
神官「……(無言)」
私(どうやら秀吉の像ではないのだと察知して)「あ、ああ、失礼しましたっ」
と、退散した。まー、たしかに、とんちんかんな質問だったかもしれないが、 もう少し観光客に愛想よくしてくれたっていいのではないか。
出しかけた賽銭を引っ込めた。10 円だが。
加藤清正像。清正には十文字槍より、片鎌の槍が似合うと思うんだけどな。 (嫡子・忠広への遺品は片鎌の槍だった)
長浜城築城の際に清正が秀吉に献上したと言われる、虎石。このようなものがあるとは知らずに来た。収穫だった。
さて、長浜城の大手門が移築されてるという大通寺へ。ここが凄かった。
大通寺 山門。でかい!こんな立派な寺とは知らなかった。
本堂。伏見城の遺構と伝わる……と、いま、このエントリのために検索して知った。
ぐあああああああ。もっと写真を撮っておくのだったあああああ(まだ他に回らなきゃならないとこが残っていたので、じっくり鑑賞するのはあきらめてしまった)
渡廊。しぶい。
これが目的のブツ。伝・長浜城大手門。現在の大通寺台所門。城の大手門だったものをを勝手口に移築したことからも、大通寺の規模のすごさがわかる。
そして大通寺をあとにして次の移築物へ。
知善院 表門。長浜城の搦手門だったと伝わっている。 城の搦手門(裏門)が表門になるのだから、 こんどは逆に知善院のこじんまり感が伝わると思う。
かわいらしい本堂。拝殿の仏様にトマトジュースが備えられてたり、ほっこりする親しみのわくお寺だった。
渡廊もかわいい。
これで移築物は見終えた。そろそろお腹のすく時間
鮒寿司たべたぜっ!
私はド貧乏なので、こういう取材旅行に行っても当地の名物はまず食べない。 なぜなら名物はたいがい高いからだ。
しかし、しつこく繰り返すように、この旅行は、 藤堂高虎と加藤清正の物語のための取材だ。
そして、藤堂高虎は羽柴秀長への仕官が叶った日、鮒寿司をたべており、 以来、藤堂家ではハレの日に鮒寿司を食べるようになったという。
ならば食べねばなるまい!その鮒寿司とやらを!
というわけで、長浜の郷土料理のお店、住茂登で鮒寿司を頼んでみた。 お茶漬けとか御膳とかあったけど、あくまで取材なので鮒寿司のみ。
→ふなずし・鮒寿司・鮒ずし:長浜住茂登(住元)
で、出てきましたよ……
……ごくり。
さて、鮒寿司というと、鮒をご飯に埋めて半年くらい発酵させたもので、いわゆる酢飯と魚の握り寿司や押し寿司やちらし寿司とはまったく異なる料理だ。発酵した匂いのために地元の人でもダメな人はダメだという話も聞く。
私は子供のころからシオカラなどの生臭いのが苦手で、へたしたらまったく受け付けないかもな……と半分ビクビクしながら口をつけた。
結論から言えば、たいへん美味しかった。
問題の匂いも、刺激臭というようなことはなくて、
近づけて嗅いでみたら
「あ、腐ってる(と、知らなければ勘違いする)においですね」
と冷静に言えるという程度のもの。
食べ始めたらまったく気にならなかった。
ただし店の人によれば、鮒の生息環境で味も匂いもぜんぜん違うそうだ。 同じ琵琶湖でも水深の浅い南湖の鮒で作ると匂いも強くなるらしい。 この独特の匂いが好きなら、大津とかの鮒寿司がいいのかもしれない。
もっとも、お店の人のポジショントークという面もあるだろうが。
味は、完全に酒の肴。レンタルサイクルじゃなかったら日本酒たのんでた。
生まれてから食べたどんな食べ物ともちがう、不思議な味。 かたくてしょっぱくてすっぱくてうまい。
チーズやヨーグルトのようだと形容されるというが、あんまりそんな風には思わなかった。
液状化した飯《いい》の部分は食べても食べなくてもいいらしい。私は食べた。 これが、トロッとしてるのかと思いきや、いがいに粒が残ってたり、塊のような部分がくちの中でホロホロくずれたり、これも一筋縄ではいかない味。
30年もたつと原型をとどめないほど液状化するのかもしれないけど、 お店の人が言う半年の発酵では「魚の古漬」とでも言うような複雑な美味さの食べ物だった。
一切れ食べちゃったあとで、思い出して全体像を撮った。 ちなみにこの一皿(六切れ)で¥2,100円
へたすりゃ普段の私の4日分の食費に相当するぜ……
このあと、なんとお店のご好意で工場を見学させてもらった。ありがたい。
高虎の時代には、近江衆の各家庭にこのような漬け樽があったのだろう。
さて、味には大満足だったがあの一皿で足りるわけもなく、お店を出たあとしばらくしてコンビニおにぎりをほおばったのだった。
ちなみに、長浜市のラーメンやさんは当然「長浜ラーメン」と店頭に銘打っていたのだけれど、 やはり九州人の自分は釈然としなかった。すまんのう。
残り時間までいろいろ見て回る
主要な目的は果たしたので、あとは帰りの電車ギリギリまでブラブラ
豊臣の菩提寺。妙法寺。
ここに秀吉の最初の子、秀勝の絵があったが戦災で焼失したらしい。 実際には3歳未満で亡くなったらしいが、 描かれたのは6歳児くらいの絵。どうも幼い子が亡くなったときは、そういう風に描くのがお約束だったらしい。
私は秀頼はあやしいけど秀勝は実の子だと思っている。が、 『河原ノ者・非人・秀吉』という本では、秀勝も疑わしいと述べているそうなので、 近いうちに読まねばならないと思っている。
河原ノ者・非人・秀吉
服部 英雄
山川出版社
Amazon.co.jp で詳細を見る
海洋堂ミュージアム。鮒寿司で財布が軽くなったショックがでかくて、ミュージアム部分には入場しなかった。
やけにかっこいい工場。
クチから顔を出す意味がよくわからないが、撮るだけ撮ってみた。
市の中心部から外れたとこまでやってきた。なるほど、交通の要衝。
遠くまで来たのは、これを見るため。小堀遠州生誕地の碑。うむ。碑以外にはなにもない。うむ。
総持寺。本能寺の変のとき、誰かが逃げ込んだとか……誰だったかな。説明板を撮り忘れた。
このまま更に西へすすめば石田三成生誕地だったのだけど、 帰りの電車に間に合わなくなるかもしれなかったのであきらめた。 次の機会に。
長浜市のご当地マンホールは、秀吉の旗印の千成りひょうたんがモチーフ。伝わりにくいと思う。
側溝蓋(たぶん)は旧長浜駅舎。
その、現存では日本で一番古い駅舎という、旧長浜駅舎。現存だけでなく「現役」の駅舎だったらもっと感動したんだけどな
長浜城復元図。これのクリアファイルがミュージアムショップで売られてたら買ったのに……
竹中半兵衛が長浜を称えた和歌を彫った碑。 一部の観光案内パンフには竹中半兵衛長浜命名の碑とあったけど、 説明板の解説では、長浜という名称が秀吉の発案だったのか竹中半兵衛の発案だったのかハッキリしなかった。
駅前の秀吉と三成の像。二人が出会ったときの有名なエピソードの様子。
実は、三成は秀吉の方を向いてない。会話してる二人が実はきちんと向き合ってない、漫才とかマンガのコマに多い構図の像だ。
「ショートコント、「お茶」」
……などと脳内アフレコを空想し、ひとりで笑い転げてしまった。
おしまい。