本丸だけでも見ておこう的に訪問した二本松城
訪問日は 2018-08-21。
2018 年、夏。戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐるというテーマで旅行をし、軽く流すつもりだった猪苗代城が意外と見どころが多く、予定を少しオーバーしてこの日訪問予定の最後の城がある、二本松に着いたでした。
駅へ着いたのは 15:44。日没まで2時間半と見ました。根拠はありません(調べなかった)。
駅前に二本松少年隊像。いろんな意味で会津若松と被ってる。意図的に被らせたわけじゃないと信じたい。
ハッキリ言えば、戊辰戦争における二本松城の激戦はなかなかに有名で、それを考えたら二本松城を2~3時間で見て回るというのに無理があります。
一日じっくりかけて見たい城と城下なのです。が、18きっぷは一枚五回。2018 年の夏旅行では、とりあえず会津若松をメインとし、二本松は
「いずれまた機会があれば、そのときじっくり見よう。今回は本丸だけでも」
という計画にしたのでした。
しかし、それにしたって 15:44 到着のつもりはありませんでした。15:00 前に到着したかった。
なぜなら二本松城へはいったん山を越えて谷間の盆地を渡らなければいけないのですから。見えますか現在地。
大手門跡。その、山を越える手前にありました。亀甲積みに特徴がある貴重な石垣が残っています。
丹羽家上屋敷跡(東京都)出土の石垣石材。博物館前に持って来たらしい。えらいっ
駅から二本松城へ行くまでに山越えがあるのは事前に知っていました(でもタクシーは使わないやつ)
ちょっと焦ってます。焦りのあまりミスもありました。ぶっちゃけ写真がイマイチだと思いませんか?
私、車窓写真を撮る時は画質を犠牲にして容量節約やシャッタースピード優先、そしてフォーカスを無限遠にするんですが、電車を降りた後に設定を戻しわすれるというミスをやらかしました。
過去に何度もやらかしたミスを、また。ぐぎぎ。
しかも、フォーカスだけは元に戻してるんですよ、このとき。
「過去に何度もミスしてるからねー」
的に。でも画素数は3Mのまま、モードはシャッタースピード優先のまま、戻すのを忘れてました。嗚呼、片手落ち。フォーカスだけAFに戻してあったのが救いと言えば救いですが。
だいたい山頂。この丘陵が天然の土塁代わりの要害だったことは言わずもがなです。
良い階段も多かったのですが、本当、疲労の極みだったので楽しむ余裕は無し。
山を越えた先の盆地が、かつての城下町。現在のJR二本松駅があるあたりは、正保時点ではとくに何もない山間部だったようです。
久保丁口に大手門が作られたのは19世紀になってから。人口が増えて本来の盆地におさまらなくなり、現在の本町辺りが発展→山越えの登城は大変だし江戸とのやりとりも便利になるから、江戸後期に久保丁口に出張所としての根小屋が作られた……という流れでしょうか。
盆地の中心を防衛線となる川が流れてる、なんてことはありません。が、正保城絵図と現在の地図を比較すると、どうやら盆地の最低部に水路があり、そこが侍町と町屋の境界線になっていました。
>生そうめんが美味い :: デイリーポータルZ
https://dailyportalz.jp/kiji/130306159892
乾燥させなきゃそうめんにならないと思い込んでいた私の方が浅はかだったのでした。そうなのか。乾燥させてる最中に熟成するものだと思ってたけど、熟成させて→伸ばして→乾燥だったのだな。で、伸ばして乾燥させずに茹でて食べたら生そうめん。奥が深い。
城郭に到着。16:47。ここまでに1時間もかかってる。大丈夫なのか、このペース。
結局やっぱり駆け足訪問。
行政の歴史・倫理観を語る指標として重要な史跡です……という説明。
そう!焦るあまり、説明板ばかり撮って、肝心の石を撮り忘れたのである(だだだだんっ!)
>旧二本松藩戒石銘碑 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E8%97%A9%E6%88%92%E7%9F%B3%E9%8A%98%E7%A2%91
ときどき、明るいけどノイジーで色味もおかしい写真が撮れている。
なぜならシャッタースピード優勢という設定のまま戻し忘れていたから(まだ気づいていない)。
とくに何の思いもなく撮るだけ撮っただけですが、このエントリを書くために数日前、写真整理をしながら気づきがありました。
二本松城(福島県)。二本松少年隊の銅像。 これはすごい。生垣を用いてその場にいない、少年兵の帰りを待つ母親をも表現してる。
完全にマンガの文法、コマ割りですよ、これは。
コマ割りのある屋外彫刻。すごい。
しかも、おそらくは別に斬新な表現にチャレンジしたわけでもなく、なんとなく
「心配する母親も表現したい」
という要望があったのでしょう。発注者と製作者のどちらが言い出したのかわかりませんが。しかし、一緒に並べたら意味不明になる。じゃあ、あいだに生垣を……という、いたって普通の問題処理の結果としてこうなったのであろう、という所に感動せずにいられません。
スペーサー(生垣)を挟めば、それが別のシーンであり、全体で一つの作品だという理解が成立する。これは、漫画の文法が 20 世紀後半に、いかに一般化したか、という証拠でありましょう。 ということに、その場では気づかず、いま写真を整理しながら気づきました。
from:コマ割りのある屋外彫刻|桝田道也|pixivFANBOX
https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/583473
でも説明をちゃんと読んでなかった。我が子の帰りを待つ母ではなくて、我が子の出陣の旗を万感迫る思いで縫う母、だったのですね。 空間だけではなく時間まで異なるシーンを並列させていたのでした。
建物は戊辰戦争でかなり失われていたようですが、残っていたものも明治期にすべて破却されました。なのでこれは復元。
箕輪門(復元)。現存してたら日本の城門の上位を狙えたであろうカッコよさだと思いました。
外観復元なのか、内部も本格的な復元なのか、私は存じません調べてません。昭和57年。まだ、そこまで本格木造復元の機運は高まってない頃じゃないですかね。
ただ、説明板に復元の根拠が説明されてないのは気になりました。古写真は無いのでしょう。おそらく指図が残っていたのだろうと好意的に解釈してます。そうでありますように。
なかなか良い門でしたが、復元にそれほど時間を割くわけにもいきません。日没までに本丸へ到着しなくては。
三の丸。三の丸が二段に分かれているというオモシロ特徴な縄張をしています。
そもそもの二本松城は室町時代、畠山高国に始まります。その後、蒲生氏郷によって織豊城郭的パーツが導入され、のちに加藤氏や丹羽氏の大改修を経て戊辰を迎えました。
しかし石垣などパーツ的な大改修は蒲生以後のものとしても、基本的な縄張りは室町時代のままなんじゃないですかね。蒲生氏、加藤氏にとっては支城にすぎず、丹羽氏の時代には大幅な城郭大改造は難しかったと思われますから。
でも、登るのはしんどいかった。何度も言うように体力的には限界が近かった。さいわい JR 二本松駅にはコインロッカーがあったので荷物はバクダッド、もとい、軽かった。
本坂御殿跡にあった建物。改修中なのか解体中なのかで、いったい何の建物かわからず。
自称ではなく、千葉県印西市の月影の井がその縁起の中で「鎌倉星の井、奥州二本松日の井と共に日本三井一」と述べてるのが根拠なのだそうな。じゃあ、しょうがな……ん~
縁起というから中世からの古文献にありそうなのだけど、辿れる出典は大正2年刊の印旛郡誌なのですよ。二本松の日の井を日本三井のひとつと呼びだしたのも、この印旛郡誌が昭和初期に二本松で知られるようになってから。
印旛郡誌は出典を示していないので。
実はそんなには歴史があるわけじゃなかった。それまでは「底なし井」の通称の方がメジャーだったようです。
>千葉県印旛郡誌. 巻3 巻4 巻5 – 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950705/301
そもそも、日本で3つの「どういう」井戸かとは印旛郡誌は述べていないのです。日影、月影、星影はそれぞれ、日や月や星が見えないほど山深いを意味しますから、日本三大山奥の井戸、かもしれないわけです。
月影の井は、関東平野の残丘の南すそにあった井戸で、あんまり山深い感じじゃないですけど。
https://goo.gl/maps/wwYWWXrW5ZTP16tw9
千葉氏の配下でこの地に居を構えた大菅豊後守の氏神である(ややこしい)妙見宮の管轄下にあった井戸なので、
神社に残る文献をたどれば、月影の名の由来やら、日本三井なる概念がいつ生まれたのかわかるかもしれませんが。
どっとはらい。
井戸なんざほっとけ!大事なのはこれだ!蒲生期の大石垣。本丸下南面大石垣(完全な現存ではなく修復というか再整備というか復元された石垣です)
野面積みの大石垣です。崩壊の危険があるのか、金網で保護されています。穴太衆の子孫も少ないことですし、現代人が安定した野面積みを再現するのは困難だったのかもしれませんね。
このころはもう切込接があったはずですが、奥州仕置の戦後処理で急いで改修する必要があったということなのでしょう。
本丸天守台。明治期に破壊されたそうで、修復というか再整備というか復元というか、好みの言葉を用いなさい。
立場上、生き残っても引責で切腹はまぬがれないので、生き恥をさらすよりは……ということでしょうか。会津戦争でも新政府軍が城下に乱入した時点で家老二人が自害してますけど、なんで一人で死なないんですかね。付き合わされる方はたまったもんじゃない。友達は選ぼう(教訓)
復元(もしくは修復)天守台。はたして、この積み方でいいのか、悩みはあったと思います。おそらく写真は残ってないだろうと思いますし。
これは本丸の石垣だったかな。記憶が薄れないうちに整理しないから、そういう困ったことになる。自業自得。
ぐるーり。夕暮れ時の微妙な光線具合のせいか、合成がうまくいってませんねえ。360°カム欲しい。
360°カム欲しいし買えなくもないけど、それでまた旅行機材が増えるのが躊躇する理由なんですよね……
あと、やっぱ全天球写真て、真を写してない感が強いです。夢の中にいる感じがするというか。
眺望がいまいちなのは時間が良くなかったせいもあるかも。でも、いい光線具合になるまでねばったりはしませんでした。
もうちょっと待っても良かったのかもねえ(このへんでやっとカメラ設定の戻し忘れに気づきました)。
珍しいL字型の堀切だそうで、そうなると堀切と言うより別の何か、という気がします。でも、
「別の何かってなに?」
と聞かれても答えられません。
あらあらまあまあ(最近、一人旅に行って感動するたびにきんどーさんと化してます)
正保城絵図では盆地の最底部に水路があったようです。最低部ってことは排水路でしょう。じゃあ、飲用水はどうしたのか。おそらく江戸時代初期は崖下の湧水や井戸でなんとかしていたのでしょう。
二代藩主・丹羽光重は安達太良山中腹を水源とする全長18kmの二合田用水を開削させたのでした。説明板には城の防衛のためとありましたが、1645 以後の平和な時代のときです。むしろ侍町の生活用水としての意味合いが強かったと思われます。城の堀は多くの場合、防衛施設と城下の貯水池を兼ねていました。近世城郭ではとくに。
17世紀の上水道だとすると、江戸時代の上水道の中でも、なかなか早い方のように思えます(過去に読んだ水道史に関する本で、二本松に大きく触れた本はなかったようにうろ覚えなので、ここに記しておきます)
霞ヶ城の傘マツ。作られた奇樹はいまいち好みではないけれども。
二本松城跡のイロハカエデ。やっぱりこういう奴の方が好み。ところで霞ヶ城だったり二本松城跡だったり不統一が気持ち悪い。
復元された箕輪門と現代的な民家と混ざり合った感じは悪くない。
次に来るときは(←たぶんあるとして)ちゃんと下調べしてからってことですね。
このあと、ぷっつり記憶が飛んでいます。何を食べたかとかそういう記憶がいっさいなく、残された写真からわかることは、18:45 頃に二本松を出発し、20:40頃に福島で乗り換え、22:01に米沢に到着したという事実だけです。
積もり積もった疲労のために、ただひたすら眠っていたのでしょう。ちゃんと予定通り米沢に着いてるのが奇跡みたいなものです。
米沢に着いてからのことは、うっすら記憶にありますが、それは後日うpる予定の米沢城のエントリに回しましょう。