近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(5) 3.4.3. 中部編

3.4.3. 中部編

■ 村上城(新潟県)

図 3.4.3.1: 村上城

図 3.4.3.1: 村上城

若干の乱れはありますが、なんとか平行と直角を守ろうと努力しており、方格設計による都市設計の意思は感じられます。

豊田武氏の『日本の封建都市』では村上城下を放射状街路に分類しています。しかし、この街路を放射状に分類するのは正直、違和感しかありません。

■ 保内村(現・村上市坂町)

村上城の比較対象は保内村の坂町駅を中心とする2,500m四方としました。

図 3.4.3.2: 保内村(現・新潟県村上市)

図 3.4.3.2: 保内村(現・新潟県村上市)

見ての通り、方格設計はほとんどありません(これといって書くことが無い)。

■ 新発田城(新潟県)

図 3.4.3.3: 新発田城

図 3.4.3.3: 新発田城

同心円的ですが、部分部分で方格設計を目指しているとは言えます。ただし十字路は二ヶ所と、きわめて少ない結果になりました。

では、新発田城は防衛のために城下を複雑化させたのでしょうか? あまりそうは思えません。1645年の時点では、敵が迷うほど城下の面積が広い都市ではないからです。

新発田城は浮舟城 、舟形城、あやめ城、狐の尾引城などと様々な別名がついています。湿地に城を築くことになり、相当な苦労があったことでしょう。軟弱地盤であるため、街路が計画通りに作れないケースもありえたと思われます。

しかし、新発田城の正保城絵図には、重要なものが描かれていました。

図 3.4.3.4: 新発田城下の屈曲

図 3.4.3.4: 新発田城下の屈曲

城下(三の丸より外の侍町)の往来に築かれた土塁による虎口です。細い小川を渡ったところにありますが、この小川の幅はいいとこ2m程度です。防衛のための濠ではなく生活用水・排水のための河川であることは明白です。

したがって、この土塁による門のない屈曲は、城地ではなく城下に設けられた防衛のための街路の屈曲ということになります。

本書の冒頭で、
「ごくわずかな例外をのぞき大名は城下を迷路化なんてしなかった」
と書きました。その、ごくわずかな例外がこいつです。

でました! ついに出ました!パンパカパーン!

まちがいなく防衛のために城下の街路を屈曲させたと断言できる箇所が、ついに発見されたのです!


それはつまり、ここまで見てきたほとんどの街路の屈曲は、防衛以外の理由で屈曲した可能性を排除できないことの裏返しです。


道路は様々な理由で屈曲します。考えられる他の可能性を潰さずに
「城下だから防衛のために屈曲したにちがいない」
と決めつけることはできません。


この、新発田城の屈曲が存在していたのは、絵図で見ると本丸から見て南西、二の丸から見て西南西の、町と田畑の境界あたり。

新発田城としては南からの敵に対して三の丸・二の丸で防ぐという設計だったのでしょう。

ところが気が付けば、二の丸三の丸を迂回(うかい)されたり、西の高田道から来られたら、本丸西側がガラ空きだった。

なんてこったい! それであわてて、せめて土塁で虎口だけでも作った……という感じではないでしょうか。


そして大事なことをひとつふたつ。この土塁による虎口、繰り返しますが、まちがいなく防衛のために城下の街路を屈曲させたと断言できる箇所です。

屈曲しているがゆえに、当然に敵の遠見も遮断することでしょう。

しかし、これが迷路化かというと、やはり、そんなことはないのです。たった一ヶ所の屈曲があるだけで、大名は城下を迷路化したとは言えないのです。

わざわざ土塁を築いている点も着目しましょう。この事実からは、土塁や石垣ではないと虎口になりえない――木造住宅で作った屈曲では防衛に役立たないと考えられていたのではないか? という推論が導き出せます。

木と紙でできた極東の都市など焼いてしまえば終わりだ……と20世紀の某戦争で実証されたことは、記憶に新しい、筆者の生まれる前の話です。

■ 中條町(現・胎内市)

比較対象は中條町(現・新潟県胎内市)を含む約3,000m四方としました。

図 3.4.3.5: 中條町(現・新潟県胎内市)

図 3.4.3.5: 中條町(現・新潟県胎内市)

方格設計はわずかです。複雑交差点の割合も他の非城下町より多い結果になりました。

■ 長岡城( 新潟県)

図 3.4.3.6: 長岡城

図 3.4.3.6: 長岡城

十字路が思いのほか少なく、正方形の地割でもありません。

が、東西南北を守った直交街路による町割を志向しているのは明白です。


丁字路群は街道から城へ近づく敵を妨げてはおらず、防衛のための迷路化とは言い難いものがあります。


城下の北側の道があみだくじ状なのは、敵の左右移動を妨げていると見えなくもありません。

しかし、長岡では河川にはさまれた土地にある城です。そもそもにおいて、敵は河川によって左右移動を制限されているのです。

このうえ街路で左右移動を制限するのは、さほど効果があるようには思えません。

それをするくらいなら、城に近づく方向を丁字路で阻止すべきだろうと思います(城下の丁字路が本当に戦闘に役立つなら、ですが)。

■ 小千谷町(現・小千谷市)

比較対象は盆地である点が長岡と共通する小千谷から約3,000m四方としました。

図 3.4.3.7:  小千谷町(現・新潟県小千谷市)

図 3.4.3.7: 小千谷町(現・新潟県小千谷市)

(現在では廃駅となった)西小千谷駅の近くにのみわずかな方格設計がありましたが、基本的にウネグネ道です。

複雑交差点の割合は非城下町の平均を下回りました。


■丸岡城(越前)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■上田城(信濃)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■高遠城(信濃)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■飯山城(信濃)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


■ 掛川城(静岡県)

図 3.4.3.8: 掛川城

図 3.4.3.8: 掛川城

方格設計は見えますが、平行と直角を厳格に守ろうとはしなかったと見えます。

目抜き通りが南東で大きく屈曲していますが、これは山地と逆川の蛇行を避けた結果であることは明白です。

遠見遮断のために歪みを設けるなら、曲げるのは町の中央部であるか両端にそれぞれ設けるかでないと、片方から来る敵に対してしか効果がありません。

一方向にしか備えないのは、乱世においては残念な設計と言えましょう。味方や部下が明日の敵になるのが下克上の世でしたから。


そう、ここに都市の迷路化による防衛というアイデアの問題点があります。

街路による防衛術は、急な情勢変化への対応が難しいのです。


ある日突然情勢が変わって、敵と味方の位置が180度まるっと切り替わったとしましょう。

すると、それまで敵の侵入を阻んでいた迷路は、逆に援軍の到着を遅らせる困ったちゃんと化すのです。


城下に作った迷路的街路が不要になったからといって、簡単に再開発はできません。当たり前ですが、住んでる人がいるからです。


武士だからって何でも許されたわけじゃないのです。住民の中には殿様みずから頭を下げて招いた有力商人や一流職人もいました。

乱世においてさえ、武士がその権力でゴミでも払うように立ち退きを命じることができたのは、賤民(せんみん)や貧しい農工商くらいまでだったのです。


そう考えると、都市を迷路化させて防衛するというアイデアは、その迷路が邪魔になったとき処分に困るリスクのある防衛術と言わざるをえません。

あなたが大名だったら、そんな防衛術を採用するでしょうか?

■ 西方村(現・菊川市)

比較対象は掛川の東にあった、旧西方村から約2,000m四方を選びました。

図 3.4.3.9: 西方村(現・静岡県菊川市)

図 3.4.3.9: 西方村(現・静岡県菊川市)

方格設計はほんのわずかです。これが山間部に道を開くということなのだと痛感させられます。地形こそ道路が屈曲する最大の理由なのだと。

そして、山城を降りて平野部に移動した近世大名たちの多くは、平野や盆地の中で少しでも丘陵が残る部分に平山城を築きました。


■西尾城(三河)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


■田原城(三河)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■刈谷城(三河)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が 50 以下と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


■ 大垣城(岐阜県)

図 3.4.3.10: 大垣城

図 3.4.3.10: 大垣城

はい、難物がやってまいりました。方格設計はあるのですが、平行も直角も細かく変動しています。

結果としてクランク十字路も多ければ、行き止まりも多い。丘陵があるわけでもない。これこそまさに、
「防衛のために城下を屈曲させた」
の代表例では?


しかし、地図を見ていくと、異常なほど濠があり、その形状も幅も、あまり統一感がないことに気がつきます。

東側は四重濠になっています。地図の外ですが東を流れる揖斐川を入れると事実上の五重濠です。西だって(地図の外の)杭瀬川を入れたら四重濠。

これほど濠があるのに、そのうえさらに街路を迷路化させる必要があるのだろうかという。いや、防衛に熱心だったのかもしれませんが。


ですが、考えるべきは大垣が日本有数の水郷であることでしょう。


美濃国が木曽三川の洪水で悩まされてきたのは有名な話です。一方で、大垣は東西を結ぶ交通の要衝で、かつ揖斐川(いびがわ)水運の重要拠点、大垣湊もありました。

つまり、大垣は都市設計がまず水路ありきで計画されたのです。


江戸時代の日本には、もちろん機械ポンプなんて存在しません。オランダのように風力を利用した排水ポンプを持つにも至りませんでした。

したがって、導水も排水も自然流下に頼るしかありません。

大垣のような水郷の盆地では、洪水被害を避けるために、排水路や遊水地としての濠を大量に用意しなくてはならなかったのです。城下の町割は、その大量の水路の影響を受けることになりました。

■ 竹ヶ鼻町(現・羽島市)

比較対象は大垣と同じく木曽三川の水害に悩まされた竹ヶ鼻町(現・岐阜県羽島市)を選びました。

図 3.4.3.11: 竹ヶ鼻町(現・岐阜県羽島市)

図 3.4.3.11: 竹ヶ鼻町(現・岐阜県羽島市)

ここは戦国時代までは竹ヶ鼻城の城下町でした。秀吉に水攻めされたこともあるほどの低湿地。が、江戸時代には城が置かれなかったため、本書では非城下町として扱いました。大垣と比較するのに適した土地と言えましょう。


駅周辺に方格設計があります。地図の北西の田畑も方格設計になっていることを見ると、明治以前から、方格設計の素地があったことが予想されます。

一方で、木曽川に近いエリアでは平坦地にも関わらず、方格設計が見られません。これは、氾濫(はんらん)予想地域では都市計画された道路を敷いても、洪水で簡単に破壊されてしまうという事情があったからではないでしょうか。


投資に見合うリターンがない場所では、都市計画は実施されません。現代と同じです。

近世城郭は城の周辺に家臣を集めました。築城や武具作成のため職人も集められました。もちろん、武士と使用人・職人らの生活を支えるために商人も招かれ、あるいは自然と集まってきます。

そのようにして経済が発展します。

人が集まる場所に、さらに人が集まる……のループです。さあ、どうなるでしょう?

そう、人口爆発が発生するのです。


このような次第ですから、江戸時代前期の大藩の城下はたいてい、人口の急増が予想される状態にありました。

人口の大幅増が予想しうるということは、
「都市計画しないと、城下が詰む」
のです。また、殿様のお膝元ならば
「都市計画への投資は回収が見込める」
ということでもありました。

逆に城下町ではない普通の町に”回収の見込み”を求めるのは難しかったことでしょう。


■岩村城(美濃)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


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