近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー



[研究] 近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(6) 3.4.4. 近畿編

この記事どう? ええよ~

3.4.4. 近畿編

■ 膳所城(滋賀県)

図 3.4.4.1: 膳所城

図 3.4.4.1: 膳所城

本丸の不定形を内堀で解消し、二の丸より外では方格設計が強く出ている点が目を引きます。

にも関わらず十字路の比率は低い結果となりました。

なるほど、城下の街路は複雑で、迷ってしまいそうです。

しかし、この城を攻めるなら、普通は琵琶湖から船で接近するのではないでしょうか?

陸路でも湖岸線をたどれば迷わず到達できる城であることは、子供でもわかる理屈です。

■ 今津町(現・高島市)

比較対象は琵琶湖の湖西のやや北にある今津町あたりの約2,000m四方としました。

図 3.4.4.2: 今津町(現・滋賀県高島市)

図 3.4.4.2: 今津町(現・滋賀県高島市)

道路が東西南北を守ろうとしており、方格設計への志向が見受けられます。

非城下町でありながら地形由来に見えないクランクがいくつも存在するのが興味深い所です。

■ 桑名城(三重県)

図 3.4.4.3: 桑名城

図 3.4.4.3: 桑名城

おおむね方格設計都市です。南西に平行や直角の崩れが少し見えます。

方格設計都市でありながら、十字路の比率は低く、丁字路ばかりの町並みです。

今度こそ、防衛のために迷路化した城下でしょうか? でしょうか? でしょうかあああっ?


しかし、かつて東海道は熱田宿から桑名宿まで、あるいは佐屋宿から桑名までは渡し船で結ばれていました。


桑名城を攻めるなら、普通は水軍を主力に選ぶのではないでしょうか?

桑名は揖斐川・木曽川の河口で、そもそも陸路を作るのが難しい場所でした。

つまり、ここも大垣同様に排水のための放水路・下水路が都市設計において優先され、街路は水路に左右された可能性が高いのです。


とはいえ、城下の西側に寺町が集中しているのは、有事の際に寺領を出丸として使うためとも考えられます。寺領の入り口で道が途切れてるのは、そこを防衛地点、敵の想定侵入口とみなしていたからかもしれません。

判定はグレーです。桑名城の城下は防衛のために複雑化された可能性を捨てきれないとしておきましょう。

■ 四日市市(三重県)

比較対象は四日市市4,000mを選びました。

図 3.4.4.4: 四日市市

図 3.4.4.4: 四日市市

江戸時代は幕府直轄領で、代官屋敷の置かれた陣屋町だったので、城下町に準じた部分があると思われます。


市街地に十字路が多く表れていますが、平行や直角をかたくなに守ろうとしてるとは言えず、方格設計への志向はほどほどといったところでしょうか。

また、幹線もゆるやかにうねっています。反面、田畑における小径は平行や直角が見られ、少し方格設計があります。


この時代の東海道が四日市を南にすぎ、濱田の先で大きく屈曲しているのが興味深いところです。マクロな視点でのクランク。

日永村のあたりで天白川が急に蛇行しているので、川の流速の落ちるここが、渡河ポイントだったか架橋ポイントだったのでしょう。


中世においては、街道はちょっとした理由で屈曲しました。障害物を迂回するためだったり、渡河ポイントや切通(きりとおし)へ向かうためです。

重機がない時代です。山を切り開いて道を作る、トンネルを掘る、川幅の広い場所に架橋する……というのは難しく、迂回したり既存の渡河ポイント・切通を使うほうが安上がりでした。

さらには、交通の主体が四輪の乗り物ではなかったため、中世において屈曲はそれほど不便ではなかったのです。ヒト・馬・大八車(二輪)の場合、方向転換はそれほど難しいものではないのです。


既存の渡河ポイント・切通に新たな街路形成が引きずられる現象は、非城下町でも城下町でも同じように起こりました。

 

■ 松坂城(三重県)

図 3.4.4.5: 松坂城

図 3.4.4.5: 松坂城

さあ、会津若松城でも触れた、蒲生氏郷さん町割ヘタ疑惑の代表例とされる松坂城です。

「伊勢の松坂 毎(いつ)着(き)て見ても ひだ(飛騨)の取様で 襠(まち/町)悪し」
の、松坂城。その城下は、はたして……


なんということでしょう、そんなに、道が悪くありません!!!(図 3.4.4.5)。むしろ十字路の割合は城下町の平均を上回るほどでした。


城の周りの侍屋敷群は同心円状にヨコの筋が通ってて、決して複雑ではありません。クランクは多少ありますが、多いというほどのものではなく、地形由来と見なすことができます。

町屋は伊勢街道に対して平行な道が通り、面積は広くないものの、方格設計になっています。

なにより伊勢街道。まっっっすぐ城下を貫通してます。


天然の濠であろう阪内川と交差する部分でも、城東の外濠と交差する部分でも、城門・虎口の類は見られず屈曲もありません。

いや、内堀の4つの虎口すら、食い違いがあるのは3つで、ひとつは枡形があるだけで食い違いがありません。さすがに「大丈夫か? この城」と心配してしまうほど。


正保城絵図が書かれた時点で、蒲生氏郷の会津転封から50年以上が過ぎてますから、氏郷の敷いた街路が大幅に変わった可能性はあります……が、はたしてどうでしょうか。

江戸時代初頭に、そのような松坂の大改造があったという話は見当たりません。


ともあれ、松坂の町割は
「正保絵図の書かれた1645年~1648年には」
決して道が悪くはありませんでした。少なくとも、この期間の、この絵図の上では。

■ 宇治山田(現・伊勢市)

宇治山田(現・三重県伊勢市)の 3000m × 1300m の範囲を比較対象としました。伊勢神宮の門前町です。

図 3.4.4.6: 宇治山田(現・三重県伊勢市)

図 3.4.4.6: 宇治山田(現・三重県伊勢市)

交差点の総数が松坂を大きく上回り、比較対象としてはやや不適な面が見えます。

しかしながら、都市と言えば城下町であった江戸時代における「城下町ではないけど都市」のサンプルとして示唆に富む結果になりました。

明治以降に駅ができたことによる人口増加の影響もあるとは思いますが、伊勢まいりブームは江戸時代こそ最盛期でした。門前町の発展はそのころと考えます。


平行・直角はそれほど守られておらず、三角形の敷地も多いです。方格設計はあるものの計画性のない自然発展的なものと言っていいでしょう。

この規模の都市でありながら、街路は単幹線に沿う「長き町」がそのまま大きくなっているのです。

これは、行政が介入せず住民まかせだと、碁盤目街路は生まれにくいという事実を示しています。迷路化を望んだわけではないのに、結果として無秩序な街路になりやすいのです。実際、ここまで見てきた非城下町には、その傾向が少なくありませんでした。


宇治山田町では十字路の割合も、非城下町全体の平均を下回っていました。


■伊勢 亀山城(伊勢)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■福知山城(丹波)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■丹波 亀山城(丹波)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


■ 大和郡山城(奈良県)

図 3.4.4.7: 大和郡山城

図 3.4.4.7: 大和郡山城

城の東~南に明白な方格設計が見られ、逆に西~北では方格設計が乏しくなっています。

絵図には西にわざわざ山が描かれており、地形の影響で碁盤の目が崩れたことは明白です。

■ 安堵村(現・奈良県安堵町)

比較対象は同じく盆地の低湿地である安堵村の約2,000m四方としました。

図 3.4.4.8: 安堵村(現・奈良県安堵町)

図 3.4.4.8: 安堵村(現・奈良県安堵町)

田畑の部分に強い方格設計志向が見えます。

逆に集落では丁字路や三差路だらけという、なかなか興味深い結果になりました。

■ 岸和田城(大阪府)

図 3.4.4.9: 岸和田城

図 3.4.4.9: 岸和田城

一直線の街道に面したシンプルな構造の都市です。

街道と濠が交差する箇所に屈曲虎口と城門が設けられています。ここで遠見の遮断や敵の突進阻止が可能になっていますが、冒頭からしつこいほど申し上げている通り、塁濠は「城地」であり、「城下」ではありません。


街路は方格設計と言えますが、平行する道路が少ない「細き長き町」であるため、とりたて十字路の割合が高いわけではありません。

■ 大津村(現・泉大津市)

比較対象としたのは、岸和田のお隣、大津村(現・泉大津市)を含む2,000m四方です。

図 3.4.4.10: 大津村(現・泉大津市)

図 3.4.4.10: 大津村(現・泉大津市)

集落に方格設計の傾向が少し見えますが、徹底したものではありません。ただ、大津村は小径に面白みがありました。

特に南の忠岡村で顕著(けんちょ)ですが、海に対して垂直な小径が何本も走っているのに、それらの小径と直交する道は幹線一本こっきり。横棒のないあみだくじみたいなことになっています。なぜ、道を横棒でつながなかったのでしょうか? その不便に甘んじた理由はなんなのでしょう?

興味は尽きませんが、本書のテーマと外れるため、疑問は疑問のまま放置して、次に進みます。

■ 新宮城(和歌山県)

図 3.4.4.11: 新宮城

図 3.4.4.11: 新宮城

方格設計はほどほど。徹底しようという感じではなさそうです。地形に逆らわず、できる範囲だけ方格設計を用いたというところでしょうか。

■ 南富田村(現・白浜町)

図 3.4.4.12: 南富田村(現・和歌山県白浜町)

図 3.4.4.12: 南富田村(現・和歌山県白浜町)

方格設計は見られません(え? それだけ?)。

■ 篠山城(兵庫県)

図 3.4.4.13: 篠山城

図 3.4.4.13: 篠山城

難物その2がやってまいりました。天下普請の城で、藤堂高虎の縄張により有名な篠山城です。回の字型の町割でも知られています。町割は残念ながら(?)藤堂高虎ではありません。初代藩主・松平康重の家老、岡田内匠らによる町割です。


私はこの調査を行う前、篠山城の城下こそ方格設計の代表格で、迷路化から遠いと思ってました。

が、調べてみるとさにあらず。十字路の比率は城下町の平均を下回りました。


とにかくこの城下町は、回の字型都市のヨコの道・環状道路に対してタテの道・放射道路が少なすぎます(※注 ここで言う「タテ」とは城および環状道路に対して垂直方向のことです。南北方向のことではありません。高低方向のことでもありません)。さらに、クランクもあります。なぜ、そんな町割になってるのでしょう?


今度こそ防衛のためと考えてもいいのかもしれません。なんとなれば、篠山城は豊臣包囲網として天下普請で築かれた城だと言われていますから。

しかし、対豊臣の城となると、南東の十字路の連続は、どう解釈すればいいのでしょう? 大坂は、まさにその方向にあるのです。


とはいえ、篠山城の街路には奇妙な点が見られました。


あきらかに、つなげた方が交通の便がよくなるのに、あえて町屋でふさいでいる箇所が東南と北西、それぞれひとつづつ、城下町への出入り口となる付近に存在するのです(図 3.4.4.14 , 図 3.4.4.15)。

図 3.4.4.14: 道を塞いでいる町屋(南東部分)

図 3.4.4.14: 道を塞いでいる町屋(南東部分)

図 3.4.4.14で示した部分は城門および塁濠との交差地点にも近いため、城地の範疇と見ることができます。しかし道を塞いでいる建造物は町屋や寺ですから、城下の範疇でもあります。


もうひとつの北西部分の方(図 3.4.4.15)。

図 3.4.4.15: 道を塞いでいる町屋(北西部分)

図 3.4.4.15: 道を塞いでいる町屋(北西部分)

図 3.4.4.15に示した北西の方は塁濠との交差地点にあります。ただし近くに城門はありません。

利便性だけなら、居住区をこのようにするメリットはありません。城下町への出入口の近くなので、防衛のためにこうしている可能性が考えられます。

道をふさいで、侵入者の進行方向を固定するというのは、街路の迷路化して敵を迷わせるという考え方とはまったく逆ですが、防衛のために城下を工作するという発想は同じです。

また、細い場所で戦うというのは、寡兵が多勢と戦う時のセオリーです。古代からそうです。篠山城がそのような考えで城下町の出入り口付近の町割を設計したと考えてもおかしくはありません。

これはさすがに、防衛のために交通不便にしたものと断定していいでしょう! ……と、筆者は最初、そう考えました。


しかし、残念なお知らせがあります。防衛以外の理由も見つかりました。商業目的で屈曲させた可能性も、あり得てしまったのです。残念ながら。


城下の商人たち(および、商人たちから上納金を受け取る篠山藩)が、旅行人に商店街を素通りされては困る……なるだけ商店街を長い距離歩かせたい、と目論んだ可能性は考慮すべきでしょう。

現代の我々もデパートの2階で、次のエスカレーターまで、歩かされるでしょう? そういうことです。

蒲生氏郷は日野を治めていたころ、旅人に対して城下に必ず立ち寄ることと、おふれを出したくらいです。城下を迂回する商人は罰すると言い切るほど、素通りは困るものだったのです。


こうした可能性を考えると、篠山城下の道を塞ぐ町屋の存在が防衛のためとは断定できません。それは証拠不十分であり、地図調査だけではなんとも言えないのです。

コーヒーブレイク

コーヒーブレイク

そろそろ地図調査を読むのにも飽きてきたころではないかと思います。地図調査はここで6割ほど。残り4割、あせらずまいりましょう。


■ 大井村(現・亀岡市)

篠山城の比較対象は大井村の約1,200m四方を選びました。兵庫県ではありませんが篠山城と同じ丹波なので許してください。

図 3.4.4.16: 大井村(現・京都府亀岡市)

図 3.4.4.16: 大井村(現・京都府亀岡市)

そこそこ東西南北を守って道を引いているのが見られので、若干の方格設計志向はあったのかもしれません。

が、十字路の割合は少ないです。特に田畑より集落の中心部の方が三差路が多く、道の複雑度が増しています。

集落を斜めに貫いている道路は明治以降のものではないかと思います。

■ 明石城(兵庫県)

図 3.4.4.17: 明石城

図 3.4.4.17: 明石城

きっちりと南北・東西を守った道が多く方格設計に見えますが、交差点は直交せずクランクが多くなっています。ただしクランクが多いのは丸の内(三の丸)であり、ここは城地の性格を持つ地点でもあります。

三の丸より外のエリアにおける、防衛のための迷路化の可能性について考えてみましょうか。

迷路化が防衛であるという視点で見ると、城の正面である南側に十字路が連続しているのは矛盾です。


海に近づくほど方格設計が崩れるのは地形由来の可能性が高いでしょう。

■ 大塩村(現・姫路市)

比較対象は大塩町を含む約2,000m四方です。なお、隣の曾根町は現在は兵庫県高砂市となっています。

図 3.4.4.18: 大塩村(現・兵庫県姫路市)

図 3.4.4.18: 大塩村(現・兵庫県姫路市)

大塩村の名の通り、製塩のための水路と浜辺が大きく面積をとっています。

大塩村では幹線から左右に支道が伸び、魚骨状の街路を成しています。

曾根町の方は二本の道の合流地点に「丸く小さい」街区が形成されたようです。


次へ→ (7) 第3章 3.4.5 山陽山陰編

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目次へ: (1) 第1章~第2章


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