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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(7) 3.4.5. 山陽山陰編

3.4.5. 山陽山陰編

■ 津山城(岡山県)

津山

図 3.4.5.1: 津山城

おおむね、方格設計が見られますが、河川に近いエリアでは平行・直角の崩れが見られます。河川地形の影響と考えられます。

さらに、城の西側では正方形に近い地割なのに、北西・南・南東と南西の端のあたりでは短冊形の地割となっています。都市計画の不統一感、はなはだしーい!


目を引くのは南東部の異常に連なる十字路でしょうか。京都に通じる道において十字路が連続するのは丹波篠山城でも見られました。


いやいや。東から西に突き出した舌状丘陵の先端に城地があるってことは、仮想敵は西から来る敵でしょう? だとしたら東への道は通行便利になってて不思議はないじゃない……

しかし、全体的にいちばん方格設計が整ってるのは、城の西のエリアなのです。ここに、敵を街路の屈曲で防ごうという目論見を見出すのは困難です。


まとめると、津山城下は東西どちらとも接近が容易な城下なのでした。防衛のための街区迷路化は見出せないと結論せざるをえません。

■ 豊田村(現・奈義町)

比較対象は津山よりやや北にある豊田村から北吉野村にかけての約2,000mとしました。

豊田

図 3.4.5.2: 豊田村(現・岡山県奈義町)

交差点の総数は津山にだいぶ差がついて少なくなりました。明治維新後に開発の手が入った土地なので、やや比較対象として不適当な地点です。

しかしながら、同じ岡山県内に津山ほどの規模の盆地で、かつ城下町じゃない場所を見つけられなかったので、豊田村を採用としました。


方格設計はほとんど見られません。

■ 岡山城(岡山県)

岡山

図 3.4.5.3: 岡山城

居住区は旭川の西側に集中し、東側にはわずかにしか存在していません。その西側に、明確な方格設計が見られます。

北西および南西にクランクや行き止まりが少し見られますが、数が少ないため城に近づく敵を迷わす役に立つとは思えません。

城の西にある大きな寺と外堀沿いの長い侍屋敷は、西からまっすぐ来る敵を防いでいるように見えます。


しかし、そもそも宇喜多秀家の治世のとき、物流の大動脈である西国街道が三の丸の中心を通るように城下を改造しています。

そこには、防衛のために町を迷路化しようという意思は感じられません。感じられる のは、街道のもたらす富を甘受しようという経済目的と、買い物を便利にして生活環境を向上させようという意図です。


そう考えると、単に街道沿いを優先的に商人に割り振った結果、大通りに面している必要のない寺と侍町が裏通りに回されただけ、という可能性も捨てきれなくなります。

■ 倉敷町(現・倉敷市)

比較対象は倉敷町の約1,500m 四方としました。岡山同様に埋め立てで平地が拡大した土地です。

倉敷

図 3.4.5.4: 倉敷町(現・岡山県倉敷市)

いやもう、びっくりするくらい複雑な街路構成でした。クランク交差点が非常に多い。

商業地として発展した物流の要衝なので、きっと十字路が多い町なのだろうと思っていましたが、むしろ、こちらのほうが迷路のような町でした。


市街地は大きい。方格設計もないわけじゃない。でも、少々の方格設計など焼け石に水なほどに、複雑交差点が多かったのです。


倉敷は江戸時代は天領であり、代官町・陣屋町でした。つまり、農村とは異なる、準城下町という位置づけです。


しかし、都市設計に強制力を発揮できるほどの権力を代官が有していたかどうか。


むしろ、もともとは瀬戸内海に面した古くからある港町だったのが、埋め立てによって運河の上流の物流拠点へと街の性格が変わったところに、複雑な街路の生まれた要因がありそうに思えます。

■ 備中松山城(岡山県)

備中松山

図 3.4.5.5: 備中松山城

近世城郭では少ない山城を持つ城下町、備中松山(現・高梁市です。峡谷の町という印象があったため、地形の影響を受けて、方格設計はないだろうと思い込んでいました。

ところがどっこいぎっちょんちょん。立派な方格設計があったのです。


東西方向の道は一直線ですが、南北方向の道は一直線ではなくアミダ状で丁字路が連続しています。この丁字路は北にある御根小屋および登城口に近づくのを防ぐ方向になってると言えます。では、今度こそ、防衛のための丁字路でしょうか?


ここで筆者は無慈悲に地形図を取り出します(図 3.4.5.6)。

備中松山

図 3.4.5.6: 正保城絵図備中松山(左)と色別標高図(右)

色別標高図出典: 地理院地図 – 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp
※加筆は筆者による

この図を見れば、(イ)~(ロ)の道がクランク状に曲がった理由は明白です。せりだした地形を避けた結果に他なりません。AとBでは10mもの標高差があるのですから。

備中松山 頼久寺ちかく

図 3.4.5.7: 頼久寺通り

写真はC地点の頼久寺通りから東方向を撮ったものです。山ぎわの斜面がいかに急斜面か、わかります。これほどの段差があったら迂回せざるをえません。


Ⅰ,Ⅱ,Ⅲの小高下川(内濠)にかかる橋についても、地形のためと考えた方が良さそうです。城郭ファンである筆者の気持ちとしては、わざと橋の数を少なくして御根小屋を防衛したのだと思いたいのですが。しかし、ロマンは排除せねばなりません。

橋の位置の標高は65m~70m(Ⅰ)、75m~80m(Ⅱ)、85m~90m(Ⅲ)と、高さで均等にばらけるようになっています。これは無駄な橋を作らず、かといって橋の不足も出さず、適切な数の橋で適切な交通量を確保する架橋であったと考えられます。筆者の願いむなしく、防衛のためと考えるのは難しくなりました。

結果として橋の部分でクランクが生じています。が、四日市市の項でも述べましたが、四輪の乗り物が主体ではない江戸時代において、クランクはそれほどの障害ではありません。ヒト・馬・大八車(二輪)にとって、方向転換はそれほど苦にはならないのです。

クランクが増えるのと、橋の維持管理がかさむのを比較して、江戸時代の執政者が前者を選んだであろうことは、容易に想像できます。


では、図 3.4.5.6:の南側、紺屋川(外濠)では、なぜ65~70mの範囲に四本もの橋がかかっているのでしょうか。言っていることが矛盾してやがらァ、この筆者め。

しかし、その答えは正保城絵図にしっかり書いてありました(図 3.4.5.8)。

備中松山

図 3.4.5.8: 備中松山城下の河岸

図 3.4.5.8のC地点をみると、「舟渡」とあります。言うまでもなく対岸への渡し船の航路がここにあったということです。Dの中州へ渡る橋のやや上には石積みの堰(せき)も描かれています。中州で背割りされた分流のEには「舟道」の文字が見えます。

つまり、堰で湛水して川の流速を落とし、A~Cのあたりを高瀬舟(主に河川の物資輸送に使われた木造船)の舟溜にしていたことがわかります。

そのA~Cの道路を見てみましょう。道路が堤防の石垣を越えて川まで達しています。正保城絵図の備中松山城下において、道が堤防を越えて川まで達しているのはこのA~Cおよび中州への橋があるDだけです(郊外は除きます)。

道が堤防を越えているのはなぜでしょうか。当然に、この船溜のそばのA~Cが荷揚げ地点、すなわち河岸であったのでしょう。ここで荷揚げするために、堰を作り流速を落とし舟を停泊しやすくしたのです。

物資はここで陸に上げられ、城下へ運ばれていきました。


さて、A~Cのある本町・新町エリアから小高下川(内濠)を越えて北にあるのは、御根小屋と侍屋敷だけです。政庁ならではの物資を必要とはするでしょうが、商人の店舗は存在しません。北へ向かう物流量はたいしたことありません。

逆に伊賀谷川(紺屋川とも。外濠)より南はどうでしょうか。下町と南町があり、単純に面積だけを見ても、備中松山城下の人口の半分がここに存在していそうです。

南町は足軽町です。上級家臣ほど城(御根小屋)の近くに屋敷を構えるのが原則ですから、下町の侍屋敷は中級~下級武士の住居でしょう。したがって下町・南町の人口密度は高く、半分どころかもっと多い人口が伊賀谷川より南に存在していたと考えられます。

大工町、鍛冶町、そして一部の商人町も、このエリアにありました。


伊賀谷川より南エリアの要する物流量は莫大だったのです。


本町で荷揚げされた物資を大量消費地である南のエリアへ効率よく運ぶために、伊賀谷川には四本もの橋がかけられたわけです。

……え? だったら、なぜ最初から南で荷揚げしないのか、ですって?

そりゃあ、本町・新町は下町・南町より標高が高いからですよ。陸路で低い所から高い所へ運ぶより、水路でいったん高い所まで運んで、そこから陸路で低い方へ運ぶ方がラクだったにちがいありません。南のエリアより消費量が少ないとはいえ、北のエリアとて物資を必要としなかったわけではないですから。


まとめましょう。備中松山城下の南北方向の道にクランクが現れている理由についてです。

  • 山沿いの道が地形の影響を受けて屈曲し、他の街路も影響された
  • 小高下川・伊賀谷川の橋は地形と需要のバランスを考えてかけられた
    • 結果として橋の部分でクランクが生じた

つまるところ、備中松山城下の街路も、防衛のために屈曲したのではなく、城下の住民の利便性のために屈曲したのです。

現代のわたしたちには、なかなか直感的に理解しがたいことですが、「自動車が無い」「重機が無い」「コンクリートが無い」時代には、地形に逆らわず道を屈曲させたり、橋をかけ過ぎないことこそが最適解でした。

その時代の技術、その統治者の資本力、その地域が必要としたもの。それらを考えずに、現代の観点で見て不自然な街路を、城下町だから防衛のために違いない! と考えるのは短絡に過ぎるのです。

■ 総社町(現・総社市)

比較対象は総社町から約2,000×1,000mとしました。地形はあまり高梁に似ていないのですが、他に適当な非城下町が見つからなかったので。

総社

図 3.4.5.9: 総社町(現・岡山県総社市)

エリア東側の水田地帯は、まずまず方格設計していますが、道に微妙なカーブが存在し、平行も若干、乱れており厳格なものではありません。


総社駅南の市街地には十字路の連続がありますが、主街道と副街道で梯子状の街路を形成しているにすぎない段階で、碁盤の目のような街路と言える状態ではありません。

■ 福山城(広島県)

福山

図 3.4.5.10: 福山城

方格設計が見えます。しかし、クランク十字路もトップクラスに多い城下でした。これは城下を迷路化した証拠でしょうか?

東側の十字路群が多いエリアは町屋が多く、西から南にかけてのクランクや丁字路の多いエリアは侍屋敷や寺・神社が多くなっていました。とすると防衛のためのように思えます。


筆者は最初、福山城城下の干拓事業が20年という長期間にわたったことを理由に、街路が複雑化したのだろうと考えました。しかし、この推測は問題を複雑に考えすぎだったようです。

なまじ干拓で出来た城下という前知識があったために高低差の影響とは考えていなかったのでしたが、あらためて地形を確認したら、やっぱり方格設計が崩れた原因は地形に求めることができたのです。

福山

図 3.4.5.11: 福山城下の地形(福山駅北側の丘陵が福山城)

出典: 地理院地図 – 国土地理院
https://maps.gsi.go.jp

図 3.4.5.11は福山城下の標高2m~7mを1mピッチで塗り分けたものです。濃い部分ほど高くなります。

なんのことはない、起伏のほとんどない東側の干拓地では方格設計が守られ、2m~4m程度の微高地である西側ではやや方格設計が崩れ、干拓地と微高地がまだらのように入り混じる南側では方格設計が激しく崩れていたという、それだけのことでした。

興味深いのは勾配(こうばい)の大きい西側より、標高差の少ない凹凸が入り組んだ南側の方が、方格設計の崩れが目立つ点でしょうか。

この南側。まだらのように入り混じるといっても、干拓地と微高地の標高差は1mもありません。数十センチの差です。

すなわち城下町建設が始まったとき、このあたりが陸地と湿地の境界であり、州浜が形成されていたのでしょう。

ご存じですか州浜。和菓子の方じゃないですよ。その名前の由来になった地形の事で、河川の堆積地に生まれる入り組んだ浜辺のことです。


南側では、まず存在するギリギリ陸地といえる部分だけに住居が作られ、それから湿地が干拓され、住宅街が形成されていったために、街路が複雑になったのだと推測されます。

■ 松永町(現・福山市)

福山城の比較対象は松永町(現・広島県福山市)の約1,500m四方としました。

松永

図 3.4.5.12: 松永町(現・広島県福山市)

水路に囲まれた方形の土地に目が行きます。この、城郭の曲輪のような場所の正体は、塩田。


かといって塩田に沿って街区があるわけではなく、初期段階の方格設計が見られる程度の町でした。

■ 広島城(広島県)

広島

図 3.4.5.13: 広島城

ついに、この研究のきっかけとなった広島に到達しました。感無量。やっぱり、どう見ても碁盤目型ですねえ。

なるほど、城の北辺の対岸、白島(古くは箱島)に丁字路とクランクが集中しています。向きも北からの敵を防ぐ方向です。横移動を妨げないとはいえ、重要なのは城に近づく方向の遮断ですから、これは防衛の役に立っています。

この白島は福島時代に拡張したエリアです。武闘派の福島正則は、城北の備えとして整備したのでしょうか。でも、広島城を北から攻めてくる仮想敵って?

毛利が押し込められた長州の萩はほぼまっすぐ西。西北西ですらありません。防府の中心である山口も、吉川の岩国も、西から南西です。北北東の吉田郡山に毛利の残党はいたかもしれませんが、軍勢と呼べるレベルにあったとは思えません。

地点名 緯度
広島 N34°23′
N34°24′
山口 N34°11′
岩国 N34°10′

しかしまあ、ここは万全に備えたものとしましょう。長州を出発して古巣の吉田郡山に駐屯してから攻めるという作戦は考えられることですから。


が、白島が太田川デルタの分流点だったことを考えると、水害のたびに頻繁(ひんぱん)に地形が変わり、その影響を受けて街路が複雑化した可能性も捨てきれません。もしかすると連続する丁字路とクランクは、上流のからの土石流の勢いを殺すためだったかもしれないのです。広島県は日本一土砂災害の多い県なのですから。


自分が敵の武将だったら、わざわざ渡河して白島に渡り、けっこうな距離を戦い、ふたたび濠をわたるなんて作戦は選びませんね。城の東北隅か西北隅から直で主郭へのアタックを選びます。その方が対岸から本丸までの距離が短いですから。


いずれにせよ、防衛以外の理由による丁字路・クランクという可能性を排除できません。


さて、広島といえば太田川の三角州に生まれた都市ですが、その渡河地点を見ると、なかなかに奇妙です。

広島

図 3.4.5.14: 小屋橋(のちの天満橋)


広島

図 3.4.5.15: 本川橋(左)と元安橋(右)


広島

図 3.4.5.16: 京橋(左)と猿猴(えんこう)橋(右)


お気づきになりましたでしょうか。川は天然の濠であり、城の防衛線です。虎口を設置して当然の場所です。にも関わらず広島城下では、いずれの橋詰にも門や屈曲を作っていないのです(図 3.4.5.14、図 3.4.5.15、図 3.4.5.16)。

なるほど、本川橋と元安橋のあいだにクランクは見えます。しかし直角でもなければ道幅の半分程度のゆるい食い違いです。そのうえ挟み撃ちされたら逃げ場のない中州です。これは、ここで戦うための屈曲とは断定できません。


たとえば福山城の正保城絵図では芦田川にかかる橋のたもとに門・番所・枡形・屈曲を備えた堅固な虎口が描かれています。(図 3.4.5.17)。

福山

図 3.4.5.17: 福山城渡河地点

一概には言えませんが、福山城のように重要な渡河地点は虎口とするのが主流であったと思います。広島のような大藩において、メイン街道である西国街道の各橋のいずれにも門を設けていないのは、実に奇妙です。


寺社はどうでしょうか。多くの城下で、防衛の要となる部分に寺社を配して有事の際の出城としていたと言われます。

と、いうことで広島城下の寺社を拾い上げた結果がこちらです(図 3.4.5.18)。

広島

図 3.4.5.18: 広島城下の寺社(白色部分)

まるで、お城を囲んで防衛するかのように、配置されていました。

が、はたしてこの、まんべんなく配された寺社群は出城として機能するのでしょうか? 大半は町人町の長屋と大差ない大きさなのに。

この敷地面積ならば、侍屋敷や侍町の建物を出城にすれば同じことのように思えます。そちらの方が直属の部下だけに後々トラブルも少なそうです。

真面目な話、出城としての機能を期待できそうなのは東の郊外にある二ヶ所の寺社くらいではないでしょうか?

城の東西に寺社が少ないのも、防衛目的の寺社配置に疑問を抱かせる要因です。 攻める側とて何度も渡河するのはリスクでしかありませんから、中州である中島や比治山(日地島)に、これほど寺社が多いのは、軍防以外の理由による可能性が高そうです。

海から来る敵に寺社をもって備えたと考えるのも無理があります。敵の水軍に備えるなら、寺社を配置するよりまず、軍港を整備するのが先決でしょう。しかし広島城下の舟入と加子町(船乗り町)は、正保城絵図の時点で南南西の中州に小規模なものがあるだけなのです。


結局のところ、広島城下において城下で防衛するという意識は希薄だったという事実が浮かび上がりました。西国街道に門が無いのは商業的利便性を優先した結果でしょう。セオリー通り、城周辺に上級武士を配し、街道沿いに商人町と職人町、その外側に侍町(足軽町)や寺社が割り振られたのです。


広島城は城郭内の櫓の数が日本一多い城でした。その数は76棟。絵図でも三の丸に建ち並ぶ櫓が描かれています。

主郭の面積は、このクラスの藩の標準サイズなので、広島城の櫓は異常ともいえる密度で林立していたことになります。

つまり広島では、防衛は徹底して主郭が担い、城下は商業のために最適化した。そう推測できるのです。


なお、三の丸の侍屋敷エリア(上級家臣宅エリア)に十字路がないのは、防衛のための可能性があります。何度も繰り返す通り、このエリアは城地と城下の中間、どちらの性格もあるエリアだからです。

■ 広村(現・呉市)

比較対象は広村(現・呉市広)の約3,000m四方としました。規模は小さいものの、広島城下と同じく河口の三角州です。

広

図 3.4.5.19: 広村(現・呉市広)

平地の開拓された新田地域には明確に方格設計があり、そうでない丘陵部や丘陵と平地の境目には三差路が集中しています。

新田開発のような行政による計画で開発された土地では、城下町でなくとも方格設計が生まれると、ここからわかります。ついでに、そのような計画があろうとも地形はどうにもならないのだということも、わかります。


■三原城(広島県)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


■ 松江城(島根県)

松江

図 3.4.5.20: 松江城

おおむね方格設計が見えます。城の北側と南西にある丘陵部、そして中州で方格設計が崩れているのがわかります。

松江城といえば現存かつ国宝の天守が有名です。虚飾を廃した戦闘本位の天守だと評判の松江城ですが、城下はどうでしょうか?


城の周囲は短冊形の方形で区切った豊臣大名に多くみられる町割で、迷路っぽさはありません。

中州の部分に複雑交差点や三差路が密集し、方格設計ではなくなっています。この部分は山城で言えば堀切に相当するような部分でしょうから、戦闘の重要部分として、あえてそのように設計した可能性も考えられます。


しかし、実はこの中州、白潟と呼ばれる部分は、堀尾氏入植以前から港町として栄えていました。正保城絵図を見ると、松江城の築城後も白潟は商人町だったとわかります。

つまり、松江は堀尾氏が城下町として開発したというより、すでに港町として発展していた白潟に目を付けた堀尾氏が城下町に変えたというのが事実なのです。

白潟の商人たちは、宍道湖~中海の内海水運を経済的基盤とする組織として自立しており、白潟衆と呼ばれていました(長谷川博史『中世水運と松江』)。

白潟衆は尼子氏に味方したとき、毛利勢から町を二度も焼き払われています。それでも後の堀尾氏時代には何人もの豪商が白潟に存在したというのですから、相当な繁昌の地です。

  • 堀尾氏は白潟衆の繁栄にすり寄った手前、強権を発動して白潟を区画整理できなかった
  • そもそも中州であり軟弱地盤であるため自由な建設が難しかった

というあたりが、白潟と末次本町近辺で方格設計が崩れている理由でしょう。


白潟から離れた南のエリアに町割された足軽町では驚くほど整然とした方格設計が施されています。松江城下では、防衛のために迷路化したという考えは捨てたほうがよさそうです。

■ 荒木村(現・出雲市)

比較対象は出雲大社のある荒木村から約2,000m四方を選びました。

荒木

図 3.4.5.21: 荒木村(現・島根県出雲市)

方格設計は控えめです。一説には、たびたび洪水を起こす斐伊川こそヤマタノオロチの正体とも言います。都市計画をしても水泡に帰す土地柄だったのかもしれません(1635年以前の斐伊川の流路は西に向かっており、荒木村のあたりで日本海に注いでいました)。


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