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目次
- (1) 第1章~第2章 ←イマココ
- (2) 第3章 3.1~3.2
- (3) 3.3.~3.4.1. 東北編
- (4) 3.4.2. 関東編
- (5) 3.4.3. 中部編
- (6) 3.4.4. 近畿編
- (7) 3.4.5. 山陽山陰編
第1章
城下は本当に迷路か?
1.1 研究の動機
「城下町に屈曲や丁字路が多いのは防衛のためである」
と、多くのお城解説書や入門書がそう述べています。たとえばこのように。
経済効率だけを見れば、京のように碁盤目状の街路を巡らすのが理想的であったが、それはできない相談だった。なぜなら、城下町もまた城の防御の一翼を担う存在と位置づけられていたからである。
直線の部分はできるだけ少なくして、所々を行き止まりにする。不案内な人間でもあっさり城門に辿りつけるようでは駄目で、あえて法則性のない街路が巡らされた。
出典: 『凹凸地図で読み解く日本の城』(技術評論社)
また、筆者は次のような逸話も目にしました。
「豊臣政権きっての武闘派・福島正則は関ケ原後に安芸に転封されると、支城として鞆城の拡張と城下整備を命じた。正則の行った鞆の町割はカギ型路やT字路、湾曲路を駆使し、二町先が見通せないものであり、合戦の時に敵の侵入を阻み、進路を迷わせ、鉄砲の威力を発揮させないものだった」
と。
筆者がお城について学び始めたころには、素直に
「なるほどなあ」
と鵜呑みに感心したものです。
しかし、後年、広島城の縄張図を見て疑問がわいてきました。
「じゃあ、なんで広島城下は、クランクや丁字路やカーブが少なく、おおむね碁盤型の都市設計なんだろう?」
と。(図1.1.1)
引用した正保城絵図の元号である正保は1645年~1648年。
福島正則の改易後ですから、この城絵図には福島正則の町割が反映されていなければならないはずです。
もちろん、広島城を築いて城下を最初に町割したのは毛利輝元です。基本設計は輝元による城下であることは、疑いようありません。
しかしながら、西国街道(山陽道)を城の南の城下へ引き込んだのも、城の北側に居住区を拡張させたのも福島時代のことでした。
ましてや、福島正則の改易の原因となった1619年の広島城無許可修繕(武家諸法度の違反)のときは、広島城下のほとんどすべてが洪水の被害を受けていました。
町割をやり直して、防衛のために意図的なクランク・丁字路を設置する絶好の機会だったのです。
しかし、福島正則はそれをやりませんでした。
これは、福島正紀が防衛のために鞆の城下を迷路化させたことを踏まえると、実に奇妙な矛盾です。
この洪水に先立つ1609年のこと。広島城の支城として新築された亀居城が家康の勘に障り、正則は謹慎と亀居城の廃城を命じられています。
このときはまだ一国一城令(1615)の前でしたが、事実上、正則は支城を作れなくなったわけです。こうなると本拠地の防衛力を高めるしかありません。鞆の防衛力を街路屈曲で高めた福島正則です。1619年の広島城修繕の際には、城の修繕は正式な許可が下りるまで保留し、街路屈曲で一時的にしのぐという安全策も選べたはずです。
……ただし、城下の街路屈曲が防衛に役立つという前提が真実であるならば。
この前提そのものを疑い出すと、次々と面白いことが見えてきました。
そもそも鞆は起伏の多い半島に築かれた城なので、城下に平地が少なかったのです(図1.1.2)。
さらに城域も800m×500mほどと狭く、目標となる鞆城は丘陵の上で隠しようがありません。すくなくとも「迷わせる」という点においては無理があると思われます。
すなわち鞆は地形的にこうならざるをえなかった町割と考えるのが妥当です。
軍防的な意図でこういう町割がされたと考えるのは難しいのです。
こうなるともう、疑念は止まりません。
長篠(ながしの)の合戦を例に出せば、鉄砲は防御側にとっても有用な兵器でした。
敵が鉄砲を有用活用できないように街路を屈曲させたのなら、鉄砲の有用性低下は防衛側にも等しくふりかかったのではないでしょうか?
さらには、
- 街路屈曲が城の新改築の代用となるほど防衛に役立つのなら、なぜ幕府はそれを禁止しなかったのだろうか?
- 街路屈曲が城の新改築の代用となるほど防衛に役立つのなら、それをやることは謀反準備と幕府から疑われなかったのだろうか
- 四重天守を三重に作り直すほど幕府に気をつかっていた江戸時代の大名たちが、そんなリスクを冒すものだろうか?
- そんなリスクを冒さねばならないほどの差し迫った危険が江戸時代の各藩にあったのだろうか?
- 福島正則は1619年の水害でも城そのものの修繕にこだわり、城下の迷路化を代替の防衛策としていない。これは街路屈曲に防衛効果が期待できない証拠ではないだろうか?
- そもそも、城下町は三差路やクランク、行き止まりが多いという前提は本当だろうか?
- 多いというのは比較の話であるけれど、城下町でない町と比較して、どうなのだろうか?
などの疑問を抱くようになりました。そこで、実際に調べてみることにしたのです。それが、この研究の動機でした。
第2章
概要、用語の定義、調査手順の説明
2.1. 結論:近世大名は城下の迷路化なんてしなかった
まず最初に、結論から先に述べました。これが本書のゴールです。
理由も述べずに結論を述べられても困ると思いますが、書名にしてしまったことですし。もう少し詳しく書くと、こうです。
近世大名は、ごくわずかな例外をのぞいては、防衛目的で街路を迷路化なんてしませんでした。
城まで簡単にたどり着けないほど迷路化された城下を正保城絵図から見出すことは困難です。
また、街路屈曲防衛術の根拠とされた文献は、一級史料とは認められない巷説あるいは誤解でした。
応仁の乱に代表されるように中世日本の都市戦とは、焼き討ち、焼き討ち、アンド焼き討ちです。
放火を用いる敵に対して、迷路化された都市は防衛にきわめて不利に働きます。
迷路的な街路は迅速な消火活動を阻害し、家から家への延焼を起こします。避難する住民は簡単に渋滞を起こしパニックになり、消火や避難はますます困難となります。守備側は防衛どころではありません。
敵は街が燃える様子を安全圏で遠巻きに眺めるだけです。危険を冒して無理攻めする必要はありません。
たとえ放火せずとも、平屋の続く日本の都市では屋根に上がるだけで、街路の屈曲による遠見遮断は無意味になります。
都市の中に敵が侵入したとき、その場合はたしかに複雑に屈曲した街路が敵の進撃を阻むでしょう。
しかし、考えてみてください。敵が侵入する前の段階において、複雑な街路が防衛にどう、影響するかを。
出撃・補給・伝令・指揮官の移動——これらすべてにおいて、複雑な街路は守城側の速やかな行動を阻害し、時間と労力を無駄遣いさせるのです。
これらの不利に甘んじるだけの価値が、遠見遮断と騎馬の突進阻止にあるでしょうか?
鉄砲伝来以降、騎馬武者の有用性は大きく下がり、大坂の役の頃には騎馬で突進するような戦術は主流でなくなっていたというのに。
日本の近世城下町の道の複雑化は、実際には、地形・商業・利水など様々な理由によるものでした。
防衛に有利な起伏の多い土地を選んだ結果により、街路に屈曲が増えるケースがあったとは言えるでしょう。しかしそれは、地形のために直線道路を作るのが大変だったからであり、設計者が積極的に街路の屈曲を望んだわけではないのです。
本書はこの結論に至った論拠をこまごまと述べ、最終的に城下の街路が複雑化する「様々な理由」についてまとめたものです。
2.2. 用語の定義:城地は防衛施設、城下は居住地
前提:主郭と囲郭の虎口には屈曲がある。しかし主郭と囲郭は城地であり、城下ではない
論説の前に、この前提について述べさせていただきます。筆者は虎口や城門付近、および主郭内の道が防衛のために屈曲している点に異論はありません。
言葉の定義をはっきりさせたいと思います。本書では、城の防衛機構が存在するエリア、すなわち主郭より内側と囲郭(外郭/惣構(そうがまえ)/中郭/内郭など)を『城地』、外郭または惣構より内側で、主郭および囲郭以外のエリアを『城下』と呼びます(図2.2.1)。
図2.2.1は、標準的な城郭都市の模式図です。
『城地』……曲輪・天守・櫓・門・塀・石垣・土塁・濠・空堀がこれに相当します。いわゆる防御機構が存在するエリアです。
(あれば)中郭や外郭の塁濠も『城地』ですし、その塁濠と道路が交差する部分に作られる虎口も『城地』です。
『城下』……原則として防衛機構が存在していないエリアです。 町人町および、下級武士とその従属労働者の居住区(侍町・足軽町・中間町)が該当します。
問題は上級家臣屋敷で、通常は主郭(城地)に上級家臣屋敷が収まります。しかし城によっては上級家臣屋敷エリアが内堀より外にあり、街路を形成するほどになっています。こうしたエリアは『城地』と『城下』の両方の性格をもつと考えなければなりません。
また、金沢のように武士の住居と町人の住居が混在した藩もあります。 上級家臣宅エリアが『城地』か『城下』か、その両方か――本書の第3章では、各城下町ごとに考慮しました。
『城下町』……『城地』と『城下』を合わせた部分が『城下町』です。最外郭(総構)があるなら、最外郭(総構)より内側すべてが『城下町』です。
図2.2.1の、斜線が無いグレーの部分は『城地』です。筆者は、武士がこの部分を迷路化したことに異論はありません。この部分は防御機構です。防衛上もっとも重要になる虎口や城門、そして主郭内部の道を屈曲させたり迷路化させるのは当然です。また、江戸時代初期の兵法書にも、そのように設計せよとあり、疑問の余地はありません。
問題は斜線ストライプで示した『城下』の部分です。居住区です。
はたして近世大名は本当に、この部分を迷路化させたのでしょうか?
皆さんも散歩すれば容易に見つけられると思いますが、食い違い路は城下町じゃない町にもたくさん存在します。
ふつうの町の街路が、防衛目的以外の理由で食い違うのだとしたら、城下町の食い違い路だって、防衛目的以外の理由で食い違うことがあったはずです。その可能性を考慮せず、城下町に残る食い違い路だから防衛目的だと決めつけるのは非論理的です。
なぜ、城下町なら問答無用で防衛のためだと決めつけられるのでしょう?
なお、『城下』の定義でも述べましたが、大藩の城や主郭の小さな城では上級家臣の居住区が主郭(城地)の外に作られるケースがありました。
このような上級家臣屋敷エリアは防衛の役目を持つ城地でありながら、居住区としての城下でもある、両方の性質をもった場所です。
防衛の役目を持つエリアならば、そこに防衛のための屈曲があっても不思議ではありません。
しかし、居住区でもあるのです。非城下町と同様に防衛以外の理由で街路が屈曲化した可能性を考えなくてはなりません。
よって、本書では原則、上級家臣屋敷エリアは城地と城下の両方の性格を持つ場所として、ケースバイケースに検討しました。
ちなみに『甲陽軍鑑』の派生本の一種である『信玄全書 末書』には、この武家の屋敷構えについて師匠と弟子の問答が載っています。
問答では、この上級家臣の屋敷構えが屈曲しているのは縄張術(築城術)の秘伝ではないか? と弟子が質問します。
しかし、甲州流兵法の師匠は
「さにあらず」
と答えているのです。
これについては、第4章でくわしく見ることにしましょう。
2.3. 調査対象:地図・文献・都市発達史
本研究は、以下の手順で進めました。
2.3.1. 城絵図による調査(第3章)
- 正保城絵図を元に、各城下の交差点を種類(三差路 / 十字路 / 五差路やクランク十字路などの複雑交差点)ごとに計測する
- その城下町の比較対象として同じ県内で地形の似ている非城下町を選出し、同様に計測する。この際、江戸時代の非城下町の詳細な地図は基本的に存在しないため、明治~昭和初期にかけての地理院地図(旧参謀本部陸地測量部、内務省地理調査所による地図)を使用する
- これを正保城絵図の入手できる城すべてで行う。ただし絵図にかかれた交差点の総数が50に満たないものは城絵図の省略がはなはだしいか、都市計画が必要なかった小さな城下と考えられ、データとして不適当なため除外する
- 以上をもって計測したデータから、城下と非城下町の三差路 / 十字路 / 複雑交差点の割合を比較し、城下町が非城下町に対して、どの程度複雑であるのか(もしくは複雑でないのか)を検討する
以上が本書の第3章に当たります。
2.3.2. 文献による調査(第4章)
城下を迷路化するというのが当時の築城セオリーだとしたら、そのような言説が文献に見つからなければ不自然と言えます。
軍事機密ならば門外不出の秘伝扱いになってて簡単には史料が見つからないはず、と推定するのは当然の考え方です。しかしながら、もっと重要な軍事機密であろう、虎口の作り方や縄張の類型などが江戸時代には図入りで書籍化され、普及していたのです。
『甲陽軍鑑』なんて武士の本棚にあったらカッコイイものとして重宝されていたのです。
城下の迷路化が、全国的にどの大名も行っていた防衛手段なのだとしたら、ある程度、公知の手法でなければなりません。
そのうえ都市の改造は、隠そうにも隠し難い大規模事業です。その記録が文献にまったく記されないとは、考えられません。
いったい「防衛のための城下迷路化」は江戸時代のいつ文献に現れるのでしょうか?
これがわかれば、大名は本当に城下を迷路化したのかどうか、重大な手がかりになるはずです。
文献調査では、戦国末期以降の兵法書に書かれた築城術や町割に関する文書などを調べ、都市計画・道路設計についての言及・論説を調べました。
これは本書の第4章に当たります。
2.3.3. 碁盤目型都市の歴史を調査(第5章)
そもそも、街路の屈曲は防衛策として有効なのかどうかを海外の都市設計の歴史を踏まえて検討します。
街路屈曲が防衛において有用ならば、中国の都城制は千年以上かけて、なぜあのような碁盤目都市を王城としたのでしょう?
ローマ帝国の城郭都市やルネサンス以降の星型要塞都市が碁盤の目を志向しているのは、なぜなのでしょう?
可能性は3つあります。
可能性(1):世界は数千年かけても町の街路を屈曲させる有効性に気付かなかったが、優秀な日本人は戦国時代のたった150年で発見した
可能性(2):日本の城下の街路が屈曲しているのは、日本ならではの理由によるガラパゴス防衛術である
可能性(3)日本の城下の街路が屈曲しているのは、防衛のためではなく、ほかの理由による
複雑に迷路化された街路の対極は、中国の都城やローマ帝国が採用した碁盤目型街路でしょう。碁盤目型の都市計画が、いつ、なんのために生まれ、発展していったのか、その設計思想を追います。
碁盤目型街路が生まれた理由が判明すれば、近世日本において、碁盤目型が採用されなかった――あるいは、できなかった――城下町が存在する理由もおのずから明らかになるでしょう。
はたして、可能性(2)はあるのでしょうか。
もし、可能性(2)がありえないとしたら……、あなたのお好みの答えは(1)と(3)のどちらですか?
これは本書の第5章に当たります。
2.4 目標は近世城下町の街路を変化させた本当の理由の解明
このような手順で
「大名は防衛のために城下の街路を屈曲させたり、意図的に袋小路や丁字路、食い違い十字路を増やした」
という説が、どの程度に真実かを検証しました。
結論は本章の最初に述べた通りです。第5章まで読んでいただければ、いま懐疑的なあなたにも必ず納得いただけると思います。
そして、第6章において、1~5章をふりかえり、城下居住区の街路の屈曲はなぜ起きるのか。「防衛のため」という単純な、わずか5文字のフレーズは説明しきれない、複雑な事情や様々なケースについて解説します。この章をもって本書のまとめとします。
それでは、はりきってまいりましょう! まずは地図調査から!
次へ→ (2) 第3章 3.1~3.2