3.3. 第一印象
交差点の定義は終わりました。では、いよいよ地図調査の結果を見ていきます。
「全選手入場ッ!!!!」
弘前城 盛岡城 出羽本庄城 久保田城 米沢城 山形城 仙台城 棚倉城 二本松城 白河城 会津若松城 水戸城 古河城 小田原城 村上城 新発田城 長岡城 掛川城 大垣城 膳所城 桑名城 松坂城 大和郡山城 岸和田城 新宮城 篠山城 明石城 津山城 岡山城 備中松山城 福山城 広島城 松江城 丸亀城 大洲城 徳島城 高知城 小倉城 臼杵城 府内城 唐津城 八代城
国立公文書館デジタルアーカイブから41城を選び、会津若松城下の正保城絵図(福島県立博物館蔵)を加えた42城としました。
五所川原(青森) 北上(岩手) 平澤(秋田) 能代(秋田) 赤湯・宮内(山形) 楯岡(山形) 増田(宮城) 常豊(福島) 矢吹(福島) 本宮(福島) 喜多方(福島) 大洗(茨城) 岩井(茨城) 茅ヶ崎(神奈川) 坂町(新潟) 中條(新潟) 小千谷(新潟) 西方(静岡) 羽島(岐阜) 今津(滋賀) 四日市(三重) 宇治山田(三重) 安堵(奈良) 大津(大阪) 南富田(和歌山) 大井(京都) 大塩(兵庫) 豊田(岡山) 総社(岡山) 松永(広島) 広(広島) 荒木(島根) 多度津(香川) 阿南(徳島) 須崎(高知) 門司(福岡) 長洲(大分) 鶴崎(大分) 浜崎(佐賀) 鏡(熊本)
比較対象の非城下町は、なるだけ近い地域から地形や規模の似通った市町村を選びました。
つまり、恣意(しい)的に選んでいます。完全にランダムに選んで、東北の大規模な都市と南方の離島の寒村を比較しても意味がありませんから。あなたも同意してくれると思います。
とはいえ、国土の7~8割が山地である日本です。江戸時代には三百ほどの藩がありました。つまり、そこそこ良い土地があるとたいてい城下町になっていたのです。
ですから、近隣に地形と規模が似た非城下町が見つからない場合もあり、地形か規模かどちらか一方しか似ていない市町村を選ばざるをえないケースもありました。
さて、では、さっそく地図を見ながら検証していきましょう。まずは東北地方から。
3.4. 地点別調査結果
3.4.1. 東北編
■ 弘前(ひろさき)城(青森県)
一見、方格設計を志向しているように見えます(方格設計とは碁盤の目状の都市設計のことです)。
にもかかわらず、三差路が非常に多い。なるほど、防衛のために丁字路にした……と、言っていいのでしょうか?
城の東に一直線にのびる道は丁字路が連続していますが、これが敵の直進を妨害しているようには見えません。
敵の左右移動は妨げられているかもしれませんが、高低差のない平地に置いて優先して防ぐべきは敵の横移動ではなく前進の方でしょう。
(なお、本書の地図は城下町・非城下町とも、すべて北が上に来るよう向きを統一しています)
■ 五所川原町(現・五所川原市)
弘前の比較対象の非城下町として、五所川原町 約2,500m四方を選びました。
弘前城とくらべると方格設計は控えめです。どちらかと言えば、弘前城下より五所川原町の方が迷路的であると言えます。
■ 盛岡城(岩手県)
方格設計が見られますが、平行を固持して京都のような都城設計を徹底するよりは、平行を崩しても少ない平地を有効活用する道を選んでいます。
地形由来と考えられない人為的なクランクは存在しますが、塁濠を横断する箇所(すなわち城地)に隣接してるか、上級家臣居住区(すなわち城地と城下の中間)にあります。城下の迷路化とは断言できません。
外郭より外にあるクランクは山や河川のそばにあり、地形による屈曲であることが明白です。
また、道幅の描かれた道路においては、袋小路がほぼ存在していません。地形由来とも作図省略とも考えられない唯一の行き止まりは、侍屋敷の中心で途切れています(図 3.4.1.5)。
たった一ヶ所の行き止まりでは、防衛のための迷路化とは考えられません。これは侍屋敷中心からの専用道路でしょう。
盛岡城下は、第4章の文献調査では、主役とも言うべき重要な城下として登場いたします。よく覚えておいてください。
よみがえる日本の城9 盛岡城 (歴史群像シリーズ) (Amazon)
■ 黒沢尻町(現・北上市)
盛岡の比較対象は黒沢尻駅(現在の北上駅)を含む約3,000m四方としました。
幹線沿いの市街地に直交交差点が連続しています。市街地以外は曲線的な道路が大半を占めています。ただし複雑交差点は盛岡の半分以下となりました。
■ 出羽本庄城(秋田県)
正保城絵図で言う、出羽之国油利之郡本城。さほど大きな城下ではないわりに、明確な方格設計が見られます。4つある複雑交差点のうち3つは近くに虎口または塁濠が存在しており、城地であって、城下ではありません。
■ 平澤町(現・にかほ市)
出羽本庄城の比較対象は平澤町(現・秋田県にかほ市)を中心とした約2,500m四方です。地形は類似していませんが、他に適切な非城下町を近隣に見つけられませんでした。
江戸時代に地震で干潟が隆起した地域です。「西の松山、東の象潟(きさがた)」と称賛された風光明媚な景勝地域で、残丘が面白いように残っています。
地図でさえ見飽きないオモシロ地形ですが、道を作るのには向いてなかったのでしょう。郊外の道路は残丘のあいだをぬうように、曲がりくねりながら伸びています。
港と駅のあいだに市街地がありますが、十字路は(クランク十字路を含めて)2ヶ所しか見当たりません。防衛目的でなくとも丁字路ばかりの街区は発生しうるのだとわかります。
■ 久保田城(秋田県)
関ケ原後に北関東から秋田へ転封させられた佐竹氏の築いた久保田城です。どんな城下だったのでしょうか?
非常に強い方格設計が見られるものの、街路の平行・直角はわずかに崩れています。
複雑交差点は町と田畑との境界や、河川沿いや、濠に沿って連続しています。してみると、城下に複雑交差点が生じる理由は、やはり地形に由来するケースが多いと言えるのでしょう。
地形由来とは考えられない不自然な行き止まりは、絵図の上では描かれていません。
久保田城は町割の際に
「街路にお見通しが通ってない」
と藩主・佐竹義宣公が家臣を叱り、自ら現場に出向いて直させたという記録が残っています。
少なくとも佐竹義宣公は街路が屈曲している都市設計を望んでいませんでした。くわしくは第4章で解説します。
週刊 名城をゆく 48 久保田城・横手城 小学館ウィークリーブック (Amazon)
■ 能代町(現・能代市)
久保田城下町の比較対象は、能代町(現・秋田県能代市)を含む約3,500mです。
やや平行・直角の崩れがありますが、おおむね方格設計の市街地となっています。
十字路の比率は久保田城下町とほぼ同じでした。三差路の比率は能代町の方が高く、反面、複雑交差点は少なくなっています。
■ 米沢城(山形県)
回の字型の町割で有名な米沢城です。上杉氏が米沢に転封される前、会津盆地に築城を開始して未完成に終わった神指城も回の字型であることが判明しています。上杉氏の(というか直江兼続の?)トレンド町割だったのでしょうか。
明瞭に方格設計であるばかりか、京都的な都城制の志向さえ感じられます。城を中心として東西南北に直線道路!
これらの道は中堀や外堀で屈曲を余儀なくされていますが、塁濠を横断する箇所、すなわち虎口は城地であるため、ここでの屈曲は城下(居住区)の迷路化に当てはまりません。
しかしながら、十字路の比率は決して高くなく、北西・北東・南西・南東の斜め方向を見るとクランクが多く生じているのが見てとれます。
また、地形由来とも思えない、不自然な行き止まりもたくさんあります。これらは防衛のための街路複雑化でしょうか?
もし、防衛のための街路複雑化だとすれば、東西南北に存在する直線道路はなぜなのか? その矛盾が気になるところです。
■ 赤湯町-宮内町(現・南陽市)
比較対象は赤湯町と宮内町の両集落を含む約3,500m四方です。
交差点数が米沢の半分以下と、比較するには不適当なサンプルですが、米沢と同じく盆地で、かつ城下町でない同規模の集落は近隣に見つけられませんでした。
赤湯の中心地にわずかな方格設計が見えますが、十字路の比率は高くありません。宮内町の方はクランク交差点が4つほどあり、方格設計が見えるわりには、道が良いとは言えなさそうです。
田畑に意外と十字路があります。十字路ではあるのですが、しかし、その道は曲がりくねっています。
そのような中、幹線のみがまっすぐ直線を描いているのが目立っています。明治になって敷かれた道路でしょうか?
……が、そのまっすぐに敷かれた幹線すら、鉄道路線や河川を超える部分では、クランク状に屈曲しています。
ここは着目しておきたい点です。
■ 山形城(山形県)
わずかに平行・直角の乱れはありますが、基本的には方格設計都市です。 外濠の北東の虎口から北に一直線に伸びる道、外濠の東の虎口から東に一直線に伸びる道は、街路の複雑さで防衛しようとしてるとは見えません。
とはいえ、方格設計があるわりに、クランク交差点や、地形由来と思えない屈曲や、行き止まりが多いのも事実です。
当然と言えば当然ですが、外濠より内側は、丸の内です。
筆者はあまりにも広いため、非戦闘員の住居も含まれる一般居住区という意識で見ていました。しかし、ここに町屋は無く、すべて侍町で占められていました。
丸の内ならば、原理原則的には城下ではなく城地です。城地なら、防衛のために食い違いや屈曲を作ってても不自然ではありません。
いずれにせよ、地図だけでは推論の域を出られそうにありません。判断は保留としましょう。
日本の城 45号 (山形城) [分冊百科] (Amazon)
■ 楯岡町(現・村山市)
山形城下町との比較対象は楯岡町(現・山形県村山市)から約4,500mとしました。
楯岡城は一国一城令で廃城となり、以降は宿場町として栄えたので非城下町として扱いました。
強い方格設計が見えますが、十字路はさほど多くなく、クランク十字路が多く存在しています。
■ 仙台城(宮城県)
出たなコノヤロウ、と言いたくなるほど強烈な方格設計を見せつけてくれる東北最大城下町、仙台です。
その一方で、京都的な都城制らしさ――すなわち城郭が都市の中心線上にあり、城郭から四方に伸びる大通りによって都市が上下左右に分割されている――は見られません。道路の平行・直角も地形に合わせて柔軟に変更されています。
そして筆者は地形由来とは考えられない不自然なクランク・不自然な行き止まりを仙台城下に見出すことはできませんでした。
つまり、仙台の城下は街路の複雑性をもって防衛にはしていなかったのです。
仙台城―天下睨んだ独眼竜の堅城 (歴史群像・名城シリーズ (13)) (Amazon)
■ 宮城県増田
比較対象は現在の名取市増田を中心とした約4,000m四方としました。
田畑部分に、下手な城下町より明確な方格設計があります。一方で丘陵部には三差路が多く、全体に占める十字路の割合は3割に届きませんでした。4割を超えた仙台との差は歴然です。
■奥州白石城(宮城県)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。
■最上東根城(山形県)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。
■出羽上山城(山形県)
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。
■ 棚倉城(福島県)
城の南側に方格設計が見えます。しかし、十字路は少なく、多くが丁字路になっています。
この丁字路は敵が城に近づくのを妨げる向きになっているので、防衛のための丁字路という可能性があります――が、それならばなぜ、同様の街路が城の北側では見られないのでしょうか?
城の北側に伸びる白川道は、地図の北から主郭北東隅の枡形まで屈曲していないのです。城を囲むように流れる桧木川・根子屋川は外郭の扱いでしょうが、そこを横断する箇所(すなわち外郭虎口に相当する部分)さえ、北・東・南とも屈曲虎口が存在していません。
■ 常豊村(現・塙町)
比較対象は同じ東白川郡の盆地から常豊村(現・福島県塙町)の2,500m四方としました。
計測された交差点の総数は棚倉城と大差ありませんが、方格設計は駅前に少しある程度で、基本的に山であり、谷であり、地形に逆わない曲がりくねった道路敷設であると言えます。
■ 白河城(福島県)
三差路・クランク・行き止まりが多くみられ、迷路化された城下町のように見えます。が、城の西には十字路の連続、城のすぐ東には、北から南に一直線に貫く縦貫道。
防衛のための迷路化された城下町だと思ったのに、こりゃいったいどういう設計だ? と矛盾を提示してくれやがってます。
■ 矢吹町(福島県)
比較対象は白河と同じく阿武隈川の扇状地で少し下流にある、矢吹町を含む約3,000mとしました。
十字路は多少ありますが、方格設計を強く志向したわけではなさそうです。そして、ぐねぐね道。
■ 二本松城(福島県)
方格設計は控えめです。侍町と町人町の境界に植栽の垣根があり、細道がそこで行き止まりになっています。
植栽ごときでは敵の侵入を止めることは難しいので、これは外敵に対する防衛のためというよりは、封建社会の秩序維持のために道路を分断したと見るのが妥当でしょう。
秩序維持も一種の防衛とはいえますが、外敵を道に迷わすための行き止まりではありません。
■ 本宮町(現・福島県本宮市)
比較対象は二本松城より少し南にある本宮町(現在の福島県本宮市)を含む3,000m四方としました。
駅前に十字路の連続が見えますが、全体として方格設計は乏しいようです。
やや複雑交差点が多い結果となりました。
■ 会津若松城(福島県)
出典: 『若松正保城絵図』 福島県立博物館蔵
この城に触れないわけにはいかない、会津若松城。
見ての通り、強い方格設計が見られます。ただし外堀より北の町方エリアでは、クランク交差点が連続しています。
クランクは基本的に東西方向への移動を阻むように食い違っており、北から若松城へ近づく敵を阻むようにはなっていません。防衛目的のためのクランクである可能性は低いでしょう。
また、城の周囲の侍町(足軽町)にはクランクが少ないのに、非戦闘員の居住区にはクランクが多いというのも、屈曲を防衛とする従来の説に基づくと矛盾です。普通、逆ではないでしょうか。
なお、近世会津若松の都市設計の基礎をなした蒲生氏郷には、次のような巷説があります。
「蒲生氏郷は町づくりが下手だった。近江日野を統治していたころ、城下町を貫く幹線は弧状に屈曲していて、二町先が見通せなかった。
次に伊勢松坂に転封されたが、城下町の道の悪さは
「伊勢の松坂 毎(いつ)着(き)て見ても ひだの取様で襠(まち)悪し」
と、俗謡で揶揄(やゆ)されたほどだった(「ひだ」は飛騨守(ひだのかみ)、すなわち蒲生氏郷を指す。「襠」は「まち」と読み、着物のゆとりのこと。ヒダの取様が下手だからマチ(町)が悪いとかけている)。そして会津に転封となり黒川を若松と改め、城下を建設したが、またもや
「黒かはを 袴にたちてきてみれば まちのつまるは ひだの狭さに」
と笑われる有様だった。ここでついに氏郷は自分の町割下手を認め、元・武田家の家臣に命じて会津若松の町割をやりなおした。こうして、会津若松は今のような碁盤の目のような都市になったのである」
筆者はこの巷説が事実だとは思ってません。くわしくは第4章で解説します。
さらに、疑問も感じます。もし
「複雑な道は防衛のため」
というのが近世人の常識ならば
「蒲生氏郷は町割が下手だったんだぜゲラゲラ」
と笑ったところで
「笑う貴様がもの知らずなのだ」
とツッコまれるのがオチだったのではないでしょうか?
近江日野の屈曲は多くの城郭解説書で、遠見遮断のために弧状の町割にしたと解説されています。
城下が複雑であることは、防衛のためのすぐれた知恵なのか、下手な街づくりなのか。巷説ではここの混乱の整合がとれていないのです。
この、蒲生氏郷による会津若松の町割からは、城下が複雑化する要因として非常に示唆(しさ)に富む事実が判明しました。
いま、筆者は上に述べた懐疑点について、すべて解決に至っています。 くわしくは第4章文献調査で明らかにします。
蒲生氏郷は、はたして本当に町割が下手だったのか。俗謡はなぜ混乱しているのか。
これらの疑問について、文献調査でまとめて掘り下げるとしましょう。
会津若松城―士魂支えた風雪の城 (歴史群像・名城シリーズ (15)) (Amazon)
■ 喜多方町(現・喜多方市)
会津若松の比較対象は喜多方町(現在の福島県喜多方市)を含む約3,500m四方としました。
会津若松の北西に位置し、商工業都市である会津若松への農作物を供給する地域として機能していました。
市街地に多少の十字路はありますが、全体的に「まんべんなく三差路だしウネウネ道」なのでした。
←前へ (2) 第3章 3.1~3.2
目次へ: (1) 第1章~第2章