近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー



[研究] 近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(4) 3.4.2. 関東編

この記事どう? ええよ~

3.4.2. 関東編

■烏山城
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■沼田城
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。

■笠間城
城絵図に描かれた城下町の交差点数が50未満と少ないため、対象として不適当とし調査対象から外しました。


■ 水戸城

図 3.4.2.1: 水戸城

図 3.4.2.1: 水戸城

方格設計は……ありまァす!(ネタが古い)。


えー……。

連郭式の縄張であるためか、丘陵の上の侍屋敷エリアは堀切によって分断され丁字路が生じています。

下町エリアは水路に沿って丁字路とクランクが集中してしまっています。


結果として、方格設計が見えるわりには三差路が多く、十字路が少ない城下となりました。

しかし、迷路的な理由で三差路が多いわけではなく、迷路的な理由で主郭にたどりつくのが難しい城とは見えません。

もちろん、堀切をいくつも越えたり丘陵の断崖を登って本丸に達するのは困難でありましょうが。

それに、那珂川(もしくは那珂川の左岸)に沿って進めば都市を通らずとも城の側面に到着するのです。迷うもクソもありません。

■ 大貫町+磯浜町(現・大洗町)

比較対象は大貫町と磯浜町(両者は合併して現在は大洗町)を含む約4,000m四方としました。

図 3.4.2.2: 大貫町と磯浜町(現・茨城県大洗町)

図 3.4.2.2: 大貫町と磯浜町(現・茨城県大洗町)

方格設計は見当たりません。台地上の田畑になぜかクランク状に曲がった道が存在するのが気になりました。防衛上の屈曲でしょうか? 実った稲穂を雀に見つけられないよう、遠見遮断しているのでしょうか?

冗談はともかく、一見平坦な田畑の農道でも、何らかの理由でクランクが生まれることがわかりました。

その「何らかの理由」は地図から読み取れません。しかし防衛以外の理由でも道はクランク屈曲するという事実は明らかになりました。

■ 古河城

図 3.4.2.3: 古河城

図 3.4.2.3: 古河城

濠より外側では方格設計が見られます。濠より内側では、努力の痕跡は見えるような気がしますが、十字路は一ヶ所にとどまりました。

古河城の遺構は現代では河川改修によって見る影もなくなってしまいました。つまり、ここは湿地の城であって、水害に悩まされた地域でした。巨大な濠は洪水に備えた遊水地を兼ねていたのでしょう。

迷路っぽさはありません。道もほぼ東西・南北方向に合っているため、むしろ迷いにくい城下だと言えます。

図 3.4.2.4: 古河城侍町

図 3.4.2.4: 古河城侍町

ところで、この、土塁の南にある侍町は、なんとしたことでしょうか(図 3.4.2.4)。

これでは増水したらひとたまりもありません。

おしおき部屋? 宇宙戦艦ヤマトの第三艦橋?

おそらく、土塁を築いた後で人口が増え、困ったな、しかたない、ここに住んでよ! 洪水のときは気合でがんばれ! てなことだったんでないかと思います。


建築計画なんて、現代ですら想定外のあれやこれやでドタバタするもんです。2020年東京オリンピックや、築地市場の豊洲移転とか。

ましてや江戸時代。三百諸藩もあれば、雑で行き当たりばったりな町割をした藩も少なくなかったと思うんですよね。

まっすぐつながるはずだったのに、あれ? 食い違っちゃった……まー、いいか……なんてことも、ときどきあったんじゃないでしょうか。

■ 岩井町(現・坂東市)

比較対象は古河より少し利根川下流にあった岩井町を中心とした約3,000m四方としました。

図 3.4.2.5: 岩井町(現・茨城県坂東市)

図 3.4.2.5: 岩井町(現・茨城県坂東市)

方格設計は見当たりません。しかし、十字路は非城下町の平均より高くなりました。

また、複雑交差点も高めです。道はおおむね曲線的です。

■ 小田原城

図 3.4.2.6: 小田原城

図 3.4.2.6: 小田原城

地図の左上は欠損しています。

戦国一の合理主義者とほまれも高い後北条氏の城下町です。

もっとも正保城絵図は後北条氏滅亡後、50年以上たってからの地図なので、後北条氏時代の町割がどの程度残っていたのか、難しいところです。


町割には明確に方格設計が存在しています。そのうえ、街路の東西南北を可能な限り維持しようというという気概すら感じられます。

海岸線とそれに沿う主街道は北東⇔南西に伸びてて、本丸のある舌状丘陵は北西⇔南東に連なってます。

たとえ方格設計するにしても道の向きは地形に合わせたほうが、経済的にも防衛的にも利がありそうなもんですが。それ以上に、東西南北に街路を合わせることが重要だったのでしょうか?


城下を通る主街道は、惣構と交差する地点(つまり外郭虎口)で2回、城東の町屋で1回と計3回の屈曲があります。外郭虎口は城地ですから、城下における屈曲は1回に過ぎず、迷路化と呼べるようなものではありません。


そのうえ、このたったひとつの城下の屈曲は城東に存在するため、西から攻めてくる敵に対しては何の意味もありません。

図 3.4.2.7: 小田原城下主街道の屈曲

図 3.4.2.7: 小田原城下主街道の屈曲

惣構を築いた頃の後北条氏、そして江戸時代の小田原藩や親分である徳川家が想定していた敵は西と東、どっちから攻めてくるんでしたっけ?

「いやいや。西側は山地だし、さらには天下の険たる箱根も存在するから、屈曲は必要ないのだ」
という擁護は可能でしょう。

しかし、その線でいけば東だって酒匂川(さかわがわ)という天然の濠があるわけですから、東も屈曲させる必要はないと反論できます。

この矛盾を無理なく解決する答えがひとつあります。
「そもそも、門や塁濠をともなわない城下の街路の屈曲は、防衛目的で屈曲させたものではない」
です。

■ 茅ヶ崎・平塚(神奈川県)

比較対象は小田原と同じく相模湾沿岸にある茅ケ崎から平塚にかけての約4,000m×1,500mとしました。

図 3.4.2.8: 茅ケ崎・平塚(神奈川県)

図 3.4.2.8: 茅ケ崎・平塚(神奈川県)

平塚の方(西)には方格設計が見られます。細く長いのは宿場町として発展した歴史があるからでしょうか。

一方、茅ケ崎(東)はまるで不織布のような規則性の少ない街路です。そのうえ市街地周辺に民家が非常に多いのが目につきます。どうやら、相模川・小出川デルタの低地を避けて湘南砂丘上に市街地・住居が集中しているようです。

地図では一見平坦に見えます。しかし実は、無秩序に見えた街路は等高線に沿って曲がりくねっていました。

比高10メートルに満たない範囲の中で、高さがそろう場所にせっせと道を作っていたのです。茅ケ崎もまた地形的な理由によって、道路がカーブしていたのでした。


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