製粉用としては日本最大級の水車の残る工業農家 三鷹のしんぐるま。
訪問日は 2016-07-17。
三鷹に、幕末から昭和にかけて稼働した製粉用の水車小屋が現存する古民家があるという。その名も『しんぐるま』。
東京都の有形民俗文化財指定のみならず、日本機械学会から旧峯岸水車場として機械遺産の認定も受けている貴重な存在であり、なんと、入場料が 100 円、必要な施設だ。
古民家なんて、市区町村が管理するやつは、無料なやつが多い。有料なのは川崎の日本民家園だとか、小金井の江戸東京たてもの園だとか、なるほどさすがに質も量も納得のクラスになるのだ。
しんぐるまは、それに次ぐレベルの内容だというのか。たしかめなくてはなるまい……
と、意気込んだわけでもなく、だんだんママチャリで自宅から行ける範囲内で、まだ行ってない古民家が無くなってきたから、とうとう三鷹あたりまで遠征しだしたというだけであった。直線距離で、だいたい 22~23km 。だるい。
そういうわけでママチャリを漕いで昼前に到着。三鷹市大沢の里。
かつては国分寺崖線の湧水を利用したワサビ田もあったほどの場所だったが、昭和の高度成長時代には生活排水の流れ込む汚い低湿地となっていたいう。
そういう場所だったからこそ、宅地として開発されず残ったのだろう。
いまとなっては国分寺崖線の見られる貴重な自然緑地である。
アオサギの食べる生き物は、必ずしもきれいな水の指標とは限らないけど、少なくとも生き物が住める環境にはちがいないらしい。
ここには湿性花園があり、水田がある。なんとこの水田、三鷹市唯一の水田なのだそうだ。
この1ヘクタールに満たない水田から得られるコメは年間約1トン。少ないというなかれ。お隣の武蔵野市や小金井市では、コメ生産量はゼロなのだから。水田のない東京都の市や区はけっこう多くて、ゼロにくらべたら1トンは無限大にも大きい。
なぜ、ここに水田があるのか。答えはいわずもがな。水車『しんぐるま』で、年に一度、精白・製粉の実演を行うためだ。
しんぐるまは、湿性花園と水田のある緑地の対岸にある。小屋の向こうに復元修理された母屋の茅葺屋根も見えた。
というわけで、橋を渡って、入場料を払い、いよいよしんぐるまへ。
すると、古民家にはよくあることだけど、お年を召されたガイドが数名いらっしゃり、拒否権のない強引さでガイドが始まったのだった。
しんぐるまは、普通の古民家とは一線を画している。ここの場合、重要なのは水車と水車小屋と、その機構であり、母屋の方は、言わばオマケである。
つまり、機械の部分が見どころなのであって、そういうのはやはり、ガイドが説明してナンボだったりする。また、見てない所で下手に触られても困るだろうから、監視の意味でもガイドによるツアー形式での工場見学にならざるをえないのだろう。
と、事情はわかるのだけど、私はただ、鑑賞しに来ただけだったのだ。資料写真を撮りに来ただけなのだ。 近世の製粉事情を勉強しにきたわけではないのである。ひとり静かに鑑賞して、写真を撮りたかったのだ。
気にせずどんどん写真を撮っていいですよ~とガイドの方はおっしゃっていたが、話したくてウズウズしてる雰囲気を醸し出してるご老人の横で、あんまり無視して、いつものように100枚以上もパシャパシャはできないのである。
そして、撮ったら撮ったで
「研究者の方ですか?」
とか質問するんだもの。研究者じゃなかったら写真を撮っちゃいかんのか。ンモー。
気が引けてしまい、終わってみれば、いつもの 1/3 くらいしか写真を撮ってなかった。 しんぐるまは素晴らしかったけど、この点だけはどうにも残念だった。
なお、ガイドの内容はさすがに濃密で、一人でパンフレットだけをたよりに回ったのでは絶対に見逃すような部分も教えてもらったので、痛しかゆしである。
おそらくガイドしてくださったのは、水車小屋を三鷹市に寄贈した峯岸清ご本人だったのではなかろうか。
>三鷹市 |三鷹の水車「しんぐるま」|峯岸清さんについて
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/suisya/shinguruma/minegishisan.html
うん。なんとなくこんな人だったような気がする(人の顔を覚えるのが苦手な奴)。
でーん。ずらりと並ぶのは杵《きね》と搗臼《つきうす》である。
峯岸家はこの水車をもって、近隣の農家の精白や製粉を有償で引き受けることで生計を立てていた。いわゆる、家内制手工業というやつだ。教科書で習ったやつ。
峯岸家の精白・製粉業は幕末に始まり昭和は戦後まで続いたので、この水車小屋も改良に改良が重ねられ、非常に複雑な機構になっているのだけれど、この杵と搗臼の部分はきわめてシンプルだ。
これだ。水車の力で、この搗心棒が回り、搗心棒から十字に突き出た「なで棒」が杵を持ち上げ、落とす。それだけである。非常にシンプル。クランクなどという軟弱なものはない!である
詳しくは、↓以下のサイトを見るとよい。Flash であるが、動画で杵と搗臼の稼働の様子が見られる。
>三鷹市 |三鷹の水車「しんぐるま」|水車のしくみ
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/suisya/shikumi/index.html
クランクを使わず力づくで持ち上げて落としているわけだから、なで棒はすぐに摩耗する。堅いケヤキを使ってもご覧の有様。
臼の部分。シンプルと書いたが、むらなく精白できるよう、また杵が長持ちするよう、江戸時代ならではの工夫はたくさんあった。
この歯車は水車の心棒の力を撫で心棒に伝えるのに使われた。
つまり東西をX軸、南北をY軸とした場合、水車の心棒(Y軸)の回転を撫で心棒(X軸の回転)に変換するために、歯車が使われたのだ。
いま、こうして展示されている歯車を見ると、江戸時代の技術ではこうした巨大で歯車を作るのは、非常にコストのかかることだったのだろうと思える。
原理はわかってるし、生産も可能。だけどコストが高いのでなかなか普及せず、なかなか普及しないからコストが下がらず、の悪循環がこの時代にも。
しかし、先に述べたように、峯岸家は戦後までこの精白製粉業を続けた。最初はシンプルだった機構も、だんだんと歯車が増え、ベルトやクランクなどを使いこなし、回転運動を往復運動に変えることも覚え、水車動力を最大限に活用した。
ただし、電気で動く精白機、製粉機が出てきたら、水車小屋を持つ峯岸家のアドバンテージは無い。そもそも、昭和30年代も後半になると、峯岸家に精白や精米を依頼する近隣の農家そのものが減り始めていたのではなかろうか。
そして昭和43年(と、三鷹市のサイトにはあるが、現地説明板には昭和44とあった)、水車小屋農家としての峯岸家の命脈を断つ出来事が起こった。
水車小屋農家としての峯岸家の命脈を断つ出来事とは?そう、河川改修事業により、野川の水量が減ってしまったのだ。
これは、水車小屋経営としては息の根を止められたも同然だ。増え続ける東京の人口。下流域の洪水を防ぐためには、しかたがなかったのだろうが、水車経営者としては
「そんなん知るか!」
だったのではなかろうか。国あるいは都から峯岸家に何らかの補償があったのかなかったのか、私は知らない。
ガイドをしてくれたご老人も、
「むかしはね、野川って、もっと水量があったんですよ」
と、悔しそうに何度も何度も言っていた。やはり、峯岸清氏ご本人だったのだろうか。
ところで、水車は関係ないけど、いかにも昭和 30 年より前って感じのステキ自転車が。
水車小屋と物置の間には、水路の流量を調節する小さな水門があった。
これはサブタと呼ばれ、大正期には物置がもっと大きく、建物から出ずに水量調節できたとあった。
というのは現地説明板の記述なのだけど、三鷹市のサイトでは、排水口にあった水門がサブタとしてある。
どっちが正しいのか、少し悩んだが、おそらくどっちもサブタなのだろう。水門が二か所あって悪い理由は無い。
なお、排水口は撮り逃した。
かつての水路の取水口側の一部は暗渠になっている。ちょっとしたドラクエ感。
こうした部分は、ガイドに案内してもらわなかったら、気づかなかっただろう。不平もあるが感謝もある。
そして工場見学が終わり、ガイドから解放された私は、母屋を楽しんだのであった。
どうも峯岸さんのご先祖は先見の明がある人が多かったようで、明治期には水車経営だけに依存するリスクを避けて、養蚕を始めた。ぞんざいな天井は、そこで蚕を飼っていたからだ。
糸巻機も機織り機も古民家の道具としてめずらしくはないけど、養蚕をやっていたことを踏まえると、材料生産から製品化まですべて自社で行えば、そりゃあ強いさ、と思わずにいられない。
実際、養蚕業のおかげで大正・昭和にかけて、なかなか裕福な生活ができていたのだという。
雨戸の戸袋が水車の廃材利用。これは他の古民家にない特徴で目を見張った。
そうはいっても、やはり、あの水車小屋の圧倒的パワーの前には、この母屋も形無しだ。
ちなみに、『しんぐるま』の水輪は、ふだんは動いていない。動かすと摩耗するからでもあり、また、そもそもの水車を動かす水量がないからだ。
ただし、年に一度だけ、10月上旬頃に精米・製粉作業を特別公開している。本記事冒頭の水田は、このために存在していると言っていい。すごい!見学は申込制で、やや面倒であり、私も去年、今年と申し込まなかった。遠いよ三鷹市……
問題の水量は、ポンプで汲み上げることで解決しているとかだったと思う。すごい。もう、水輪そのものをモーターで動かしちゃえよ、と雑な私は思わないでもない。
なお、えー、水車、動いてないの?という人のためか、しんぐるまの比較的近くに、鑑賞用の水車が設置されている。
蚊帳。峯岸清さんが子供の頃は、欠かせないものだったという。低湿地が近くにあって、生活排水で汚れてたとなると、そりゃあ、ね。
正直に言えば、こういう生活臭のある部分を、もっとじっくり、舐めるように味わいたかった。人見知りが激しいのはデメリットしかないな。
私が訪れた 2016 年 7 月 16 日は渇水が激しく、ここより下流の深大寺あたりでは、ほとんど水が枯れたような状態だった。