この記事は、単独で記事を立てるほどでもない古民家(古商家や代官屋敷・藩校および茶室など居室のある伝統工法の建物全般)を紹介するための記事です。ときたま更新します。
この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。
日記から転載した部分が含まれるので、サイト内に重複する記事があるかもしれません。
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- 見沼自然の家(埼玉県川口市)
- 見沼通船堀鈴木家住宅(埼玉県さいたま市)
- 旧大石家住宅(東京都江東区)
- 志賀直哉邸 書斎(千葉県我孫子市)
- 旧栗山家主屋(東京都目黒区)
- 旧三田家住宅長屋門・土蔵(東京都世田谷区)
- 林丘亭(東京都杉並区)
拠点として活用中!見沼自然の家(埼玉県川口市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#MinumaShizen
この日は川口市の行衛というあたりをぶらぶらした日でした。行衛についてはあとで記事を立てるとして。
GoogleMapを見たら古民家があるらしかったので寄ってみたのがここです。見沼自然の家。
埼玉県川口市行衛649
https://www.openstreetmap.org/?mlat=35.87593&mlon=139.72247#map=17/35.87593/139.72247
埼玉県の農業史跡、歴史的疎水とも言える見沼代用水路。吉宗の時代に新田干拓のために開削されました。
玉川上水も昭和用水路もそうですが、いまでも現役な水路って、言われないと普通にただの水路ですな。
公園橋。意匠が面白い。写真じゃわかりづらいのですが、てっぺんに白鳥の親子のレリーフがのってます。
ちょっとわかりにくいけど屋敷森があって、そのなかに目的の「見沼自然の家」がありました。
前情報なしに行ったものですから何も知らなかったのですが、古民家を見学する施設ではなく、自然体験の拠点として住人のいなくなった古民家を活用している施設でした。
なので、江戸時代的な光景を期待していくと裏切られますし、作業をしている人々がいるので写真も撮りづらいです。
ただし生活感はあって、それは見学目的で整備されてる古民家には無いテイストです
各地の古民家の中には囲炉裏を焚いたり昔の生活体験イベントをやってるところもありますが、それらは言わばショー。
それとちがって「見沼自然の家」はガチの利用なんで、リアルが感じられました。
ただまあ、三段ボックスとか江戸時代にないものもあって、時代劇の資料に使うには難がありますけど。
見学向け古民家には無い良さを感じつつも、自分がこの場にいてはいけないような気まずさも感じつつ。
見学向けの施設ではないため、そういう歴史的な説明版もありません。
「旧〇×家住宅」みたいなのすらわかりません。間取りの形式とかの説明もなし。
囲炉裏が無いのは床上浸水の多いこの地域ならではなのか、明治大正昭和の頃に
「もう囲炉裏でもないでしょ」
と潰してしまったのか。
そういうのもわかりません。
自治体に寄贈されている農家って名主とかの家が多かったりするのですが、この家はそうじゃないのかも。
もしかしたら、利用申請者ではない私はこの日、入っちゃいけなかったのかもしれない。なにも言われなかったけど。
古民家の説明は無いけれども、敷地には見沼用水路と見沼溜井の歴史の説明版がありました。
要約すると
「江戸時代に新田開発が進んだよ!昭和初期(戦前)に東京の水源地として見沼田んぼをつぶして貯水池に変えようと画策されたよ!でも農民の猛反対で撤回されたよ!」
ということです。
説明版には書いてないけど、結局、見沼溜井は戦後、芝川第一調節池として田圃をつぶされ遊水地に変わりました。
嗚呼、人民は弱し官は強し。
床の間を本棚にするなんて見学目的で整備されてる古民家では絶対に見られない光景だから、希少性はありますな。
見学用の古民家ではないため、屋根もかやぶきではなくトタンです。
おそらくは持ち主が大正期か昭和期にトタンに変えて、ゆずり受けた川口市も別に復元しようともしなかったということでしょう。
それはそれでかまわないけど、せめて元の持ち主の名前くらいは、どこかに小さく表示してあげて欲しいと思います。
な、長い…→見沼通船堀鈴木家住宅付属建物復元艜船(埼玉県さいたま市)
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#MinumaSuzuki
ふと、通りすがったら、古そうな家の前に看板があるのに気づいた。看板の文字は読めなかったが、まちがいない、文化財だ。
まちがいない……とノリで書いてしまったが、実は、
「町内の案内板とかだったらやだなあ」
と思いながら道路を横断した。
しかして、その正体は、やはり歴史的建造物であった。見沼通船堀鈴木家住宅付属建物復元艜船。長いよ。艜なんて一部のフォントでは出ないよ。表示されてない人のために書くと、舟偏に旁が帶という漢字で、これで「ひらた」と読むのだという。
なぜ、ここを「通りすがった」のか、よく覚えていないのだけど、どうやら長徳寺のビャクシンを見たあと、時間があまったらしく、街の公共地図かなんかで、
「見沼通船堀公園?ほう、そんなものがあるのか。行って見よう」
と訪れた、帰りにこの古民家を見かけたようだ。
ちなみに、見沼通船堀公園の方は、残念なことに当時の自分の興味があまり利水土木に向いておらず、あんまり見ないで、写真も少なめだったため、本ブログでは記事に起こしていない。
いま、利水土木も守備範囲になった私は、いずれ再訪するだろうが、まあともかく当時はそうだった。
ところで、古民家の方は当時から守備範囲だったので、鈴木家住宅の方は、それなりに写真を撮っており、こうして記事にできるというわけである。
見沼通船堀という冠詞が付くのはなぜか。それは、鈴木家が 18 世紀、幕府の見沼干拓工事に参加し、完成と同時に差配役に任じられたからだ。
今も残る屋敷母屋の大きさを見ると、インフラを抑えた奴が大儲けするのは、古代から現代まで変わらんのだなー、と思う。
もっとも、この母屋が二階建てに増築されたのは明治以降であろうし、今もなお、ご子孫が住んでいるらしく、母屋の内部見学はできないので、注意が必要かもしれない。個人的には外観だけでも十分、楽しめると思う。
そして、見学可能な付属建物復元艜船も、公開は土日のみである。私が訪れたこの日は、たまたま土曜日だった。
「ここ、入っていいんだよね……?」
と不安になりながら細い通路を曲がって母屋の裏に行くと、じゃーん。
ようやく現れた、見沼通船堀鈴木家住宅付属建物復元艜船!ああ長い。
あと、妙にモダンにリフォームされた母屋の裏手側w。まあ、いまも住んでるんだから、そりゃそうするわな。 江戸時代と同じ生活をしろと家主に不便を強いるわけにはいかない。
納屋。ごく普通に納屋。説明板には色々と造りの説明があったが、ようするに納屋だ。
内部に置いてあったものも、唐箕や臼、杵などで、特に通船業特有の道具はなかったと記憶している。
日本の土間に使われた三和土《たたき》は和製コンクリだの日本の風土に合ってるだの、過大評価する人もいるけど、まあ、こんなもんだ。
中二階もある。干拓された低湿地だから、洪水時の避難施設という面があったのだろう。
なお、納屋も米蔵も大正時代の関東大震災で大破し、修理されたという。
そして、見沼通船堀鈴木家住宅付属建物復元艜船の最後の部分、艜船《ひらたぶね》
ガラスケースごしで、よくわからんし(もしかしたら引き戸は開けることができて中に入れたのかもしれないが、そうは思わなかった)、復元と言っても 1/2 サイズの復元なので、こんな展示なら近隣の博物館にでも寄託した方がいいんじゃないかと感じた。
>平田舟 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E8%88%9F
風のないときは綱で引いて運航したとあった。江戸時代ののどかな風景を連想させる。たぶん、実際にはやってられねえ重労働だったことだろうけど。
そんなこんなで、古民家にありがちな
「癒されるわ~。なごむわ~」
な部分は、まったくないと言っていいのだけど、そうは言ってもご子孫が貴重な古建築を好意で公開なされているに違いなく、ありがてえかたじけねえと思える文化財でした。
予定になかったスポットで、当たりを引いた感じというか。こういうのは時間がたっても記憶が濃いですな。
旧大石家住宅(東京都江東区 仙台堀川公園内)
再訪したので項目が上に上がりました。
訪問日:2015-10-24
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#ooishike
見た。江東区の有形文化財。しかし内部公開をしているのは土日祝であり、訪れたのは平日。よって特徴的な水害に備えた内部構造は見ることができなかった。
なんといっても、団地や高校などの高層建築に囲まれている、そのギャップが良い。
近くに団地があるので上からも見られる。秋なのですでに陽がかげってきてて、よくわからない写真になってしまってるが。
出入り口は平側にあるのに縁側は妻側。海苔や水産物の生産業もしくは販売業を営んでいたのかも。説明板には典型的な半農半漁の家
とあった。
トップページ/施設案内/文化施設/記念館・資料館・科学館等/旧大石家住宅
https://www.city.koto.lg.jp/sisetsu/13400/13472/16767.html
仙台堀川公園 – OpenStreetMap
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.67437&mlon=139.83604#map=17/35.67438/139.83604
訪問日:2016-05-21
はじめて、大石家住宅を訪れたのは日没後だった。たまたま、所用で通りがかって。
再び訪れたのも、別件でこのあたりを訪れたときであって、それが上記の写真なのだけど、内部公開日ではなかったので、外観のみとなった。
それから半年後。一之江名主屋敷を見たあと、
「ここから近いし、今日は内部を公開してる曜日だ!」
ということで、見に行ったわけです。
団地にはさまれてひょっこり現れるたたずまいも、秋と春では印象がちがう。
そして、例によってボランティアのじいさんたちが管理員として常駐してて、たのんでもないのに勝手にガイドを始められて、 無下にお断わりするわけにもいかず相槌を打つのに忙しく、本来の目的である写真はあまり撮れなかったのでした。orz……
いや、もちろん、興味深い話を聞くことができました。写真よりそっちのほうが、のちの自分にとって価値のある情報になるとは思うのですが。でもー。
“水害に備えて広く作った屋根裏”を撮り逃しちゃったよ、ちくしう。
外観からの推測だと、そんなに屋根裏が大きそうには見えないけどな。記憶では、天井が低かった印象もない。
区内最古とはいえ、失礼ながら、そこまで貴重な文化財とも思えない。限定的な公開日と管理員、そして非公開時の鉄柵は文化財を守るというより、火災から団地を守る意味合いの方が大きそうだ。
囲炉裏を使えば、管理員が自分達で使うお湯がわかせて、煙に燻されて茅葺屋根の防虫になり、見学者はうれしい。一石三鳥。夏は管理員が地獄だそうだが。
旧松澤家住宅(東京都北区)のように、床上浸水に備えて囲炉裏を作らない、というライフハックは採用しなかったらしい。しかし、灰の入った金属箱を取り外せるようになっているように見えるな。やはり、水害対策は考えているようだ。
海苔養殖につかう、ヒビと呼ばれる杭と引き抜く道具……だったかな。
海苔の養殖に網を使うようになったのは江戸時代末期から明治になってからで、それまではこのようなヒビを浅瀬に突き刺して、生えるにまかせていたそうだ。したがって干潮のときしか収穫できなかった。
しかも、生態がわかっていなかった。海苔がどうやって子孫を増やしているのか、判明するのはなんと第二次世界大戦後だ。
稲作とくらべたら、縄文時代レベルの栽培が江戸時代中期くらいまで続いていたわけである。生態がわかってないので収穫量が安定せず、海苔は別名、運草とも呼ばれたそうだ。
それが、まず、網に海苔を生やすようにすれば干潮を待たずとも収穫できる。網の手入れは大変だが収穫量は増えた。
そしてついに、第二次世界大戦後、イギリスの海藻学者・ キャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー – Wikipedia によって、海苔が糸状胞子によって増えることが発見された。
ドリュー博士の発見は、研究を通じて親交のあった九州大学の瀬川宗吉教授にもたらされた。瀬川宗吉教授は発見を熊本県水産試験場の太田扶桑男技師に伝え、太田技士によって、ついに海苔の人工採苗に成功したのである。
いま、日本の海苔のトップブランドとして有明海苔が君臨しているのは、このためだ。
こうして、海苔の生産量は安定し、みんな幸せになりました。めでたしめでたし……とは、ならなかったのである。
つまり、収穫量がすくなく、しかも安定していない。という時代の海苔は、高級食材であり、養殖業者は高級食材を前提とした商売をしていたわけだ。
そこへ、大量生産・安定供給・機械化で狂ったような価格崩壊が起きた。あとはみなさん、ご想像の通り。 手作りを売りにした超高級食材専門の海苔屋になれた老舗と機械化に転身成功した体力のあった海苔屋を除いて、 昔ながらの港町の小さな海苔屋はことごとく壊滅しましたとさ。
この古民家を提供した大石家が、海苔養殖業を続けられたのか、それとも廃業したのか、それは私の知らないところではあるけれども。
そもそも、海苔が今のような形になったのも、徳川綱吉の頃のことらしい。紙漉きの道具で乾燥させてみたら、うまいこと紙みたいになった。保存も利くし持ち運びに便利じゃわい……ということで、人気になったわけだ。
で、あるからして、海苔作りに使う道具は紙漉きに使う道具と似てるというか、ほぼ同じ。
道具が同じわけだ。ゆえに、ついでに紙を漉こうかと海苔屋も考える。大石家もそうだったらしく、オフシーズンには、浅草紙と呼ばれる江戸時代の再生紙を作っていたそうだ。
江戸時代の再生紙としては、大阪の堺紙ってのもあって、あそこも港町だから江戸時代には海苔の養殖が盛んだったのだろう。
そう、彼らは再生紙も作った。同じ道具で鼻をふいた紙やケツを拭いたかもしれない紙を漉いて再生紙にし、同じ道具で食べ物である、しかも高級食材の海苔を作っていたのである。
日本よ、これが江戸時代だ。
名主の古民家にくらべたら質素であったけど、床の間はあるし、なにより現代まで建物が残ったくらいだから、大石家は名主補佐くらいの立ち位置だったのだろうか?……と思って、
「ここらじゃ裕福な家だったんですかね?」
と管理員のじいさんたちに、なにげなく聞いてみた。すると
「いやー、そんなことないよー。ふつうだよ、ふつう。ここらの平均的な家だよー」
「なあ?大石さんとこ、べつに金持ちじゃねえよなあ?」
「うん。あそこは普通だよー。俺らと同じ。ふつう」
「だよなあ」
顔見知りかよ。
志賀直哉邸 書斎(千葉県我孫子市)
訪問日:2016-09-01
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#Shiganaoyatei
単独記事を立てるまでもない史跡の訪問ログ と、どっちに書くべきか迷ったけれども、 志賀直哉だから見に行ったわけではなく、古民家だから見に行ったのでこっちで。
恥をしのんで告白するが、志賀直哉はほとんど読んでない。高校のときか中学のときか、『城之崎にて』を習った記憶はある。が、まったく覚えていないし、ウィキペディアであらすじを読んでさえ、まったく思い出せなかった。それくらい、感銘は何も受けなかった。
基本、群れるやつらは嫌いだしな>白樺派。白樺派に属する芸術家で、わずかに興味がもてるのは岸田劉生くらいか。
知り合いの女性が
「武者小路実篤って『仲良きことは美しき哉』が、彼の名言として残っちゃう時点で、なんかヤじゃないですか」
と言っていたが、まったく同感だ。ぷるわーかー。
残っているのは書斎だけで、それも一時は他人に払い下げられていたものを再移築したらしい。
だから、屋根は本来、杉皮葺きだったけれども、消防法の制限か維持費の問題か、現在は銅板葺きに変わってる。
もともと大正期の建物だから、当時もこういうコンクリ基礎だったのか、再移築でこうしたのか、私にはわからない。古写真ではコンクリ基礎は無いように見えるものの、陰になって見えてないだけの可能性もある。
ただ、外壁は本来、下まで漆喰が塗られていたのが判明しているが、現在は腰が板張りになっている。やはり、維持費的な問題か。
志賀直哉ら白樺派がこのあたりに住んだのは大正の一時期の、短い期間だったそうだ。バルビゾン派の画家たちに憧れでもしたのだろうか。
ちなみに、志賀直哉 – Wikipediaには戦後間もなくの時期、公用語を「世界中で一番いい言語、一番美しい言語」「論理的な言語」であるフランス語にすべきとの主張をしたことがある[2]
←(脚注 [2])^ しかし、志賀自身はフランス語はまったく解することが出来なかった。
とあり、草を禁じえない。
志賀直哉邸跡は緑雁明緑地という、緑々しい場所のハケの下にあるが、ハケの上に通じる道があった。
行ってみよう。なにがあるかな?たぶん何もないのだろうが。
うむ。なにもなかった。よし!安心・納得の何もなさっぷり。満足した。
見下ろした書斎。銅板葺きが、一見スレート葺きに見え、さすが大正モダンやで、と勘違いしそうになる。
平成になってから、関東の歴史的建造物の失火・焼失が相次いでいて、同一犯の犯行を疑う声もある。
調べてみると漏電からの失火という可能性が多いそうだ。しかし、昭和のころならいざ知らず、平成の配電盤が、そうそう漏電するか? なぜメンテナンスしなかったのか。古い配電盤を使いつづけた理由はなにか。いろいろ思う。むずかしい問題だ。
土日には内部を解放するらしいが、あいにく平日に訪問した。まあ、しょうがない。
内装は漆喰仕上げの壁、船底天井に網代を張り、棹縁に柱の磨き丸太を用いています。柱は杉材で手斧跡を残したなぐり仕上げとし、虫食い跡のある杉丸太の梁や垂木を見せます。床柱には青桐の皮付き丸太、落とし掛けには彎曲した百日紅を用いるなど、数奇屋風の手法であるが、かなり独創的で趣味的な建物となっています。
……とのことで、むしろ内装にこそ、この建物の真髄があったらしい。これから行かれるのであれば、土日に行くことぢゃ。死にゆくジジイの遺言だと思って聞いてくだされ。
まあ、別棟として書斎、アトリエを持つのは作家や画家のひとつのゴールだな。
旧栗山家主屋(東京都目黒区すずめのおやど公園)
訪問日:2015-12-03 頃
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#kuriyamake
150cm くらいのすきまのない垣根。180cm くらいのすきまのない門。休館日に中が見られないのはしかたないけど、せめて外観だけでも楽しませてほしい……。居住者がいるわけじゃないのに、誰からなにを隠そうとしてるの?と、すっかり悪い第一印象を持ってしまった。
もちろん、旧三田家住宅のように古建築に不審火が相次いでいる昨今なので、ガチガチに垣根と門で守ろうという思惑はわからんでもない。わからんでもないが、もうすこしなんとかならんかったのか。
しかたないので道路の反対側の児童公園にあったすべりだいの上からパシャリ。
後日、開館日に再訪する機会にめぐまれた。が、すっかり印象が悪くなっていたせいか、写真は失敗ばかり。しかも撮り逃しもやらかしてしまった。
移築の際に地盤が軟弱だったのか、コンクリ基礎。テンションさらに下落。
ひとつ収穫もあった。私はこれまで、移築に際し茅葺屋根が銅板葺きに変えられるのは予算の都合だと思い込んでいた。茅葺屋根職人は減りつづけているし、維持費が捻出できないのだろうと。
しかし、実は都市計画法や建築基準法に抵触してしまうからだった。人口密集地では燃えやすい茅葺屋根が法律で禁止されていたのだ。江戸時代から続く基本的な防火対策。勉強になったと同時に、敷地のせまい都市公園に古民家を移築することが望ましいことなのかどうか考えさせられた。
防火地域 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E7%81%AB%E5%9C%B0%E5%9F%9F
旧栗山家は説明によると年寄(名主の補佐)であり、普通の農民には禁止されていた長屋門もあったという。しかしこの主屋で天井があるのはザシキだけ。床の間だの食い違い棚だの凝った欄間だのふすまに装飾だのもない。見たところ上農あるいは中農といったクラスで、豪農の家という感じではなかった。
というか、これでは信州とかの田舎のそば屋であって目黒区の農家の家具じゃないと思うんだよなあ。栗山家が使ってた家具をそのまま置いてますってんならしぶしぶ納得するしかないが、正直、そうは思えない。
露出を間違った写真ばかりで伝わりづらいが、電灯は必要最小限で、屋内はかなり薄暗かった。
灯りはこうみえて LED らしく、手をかざしても温かくなかった。ちょっと見直したが、全体としてテンション下がりまくりだったのは否めない。
高い垣根に囲まれて庭もないので、全体像を撮るにはこうしてパノラマ合成するか、魚眼で撮るしかない。
そんなこんなでテンション下がりまくりだったのと、あんまり時間もなかったせいで、特徴的な長方形の断面の大黒柱は撮り逃しました。ぅぁぁぅ。
実は長屋門が解体保管されているらしく、将来復元される予定とのこと。もし垣根や門を変えるなら、もうすこし外観観賞に配慮してもらいたいなと思った。まる。
すずめのおやど緑地公園 – OpenStreetMap
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.61805&mlon=139.68468#map=17/35.61805/139.68468
場所はここ。ちょっといろいろ忙しかったので編集しなかった。そのうちやると思う
旧三田家住宅長屋門・土蔵(東京都世田谷区深沢二丁目)
訪問日:2015-11-21
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#mitakenagayamon
たまたま近くに行ったので見た。駒沢オリンピック記念公園の少し南。ネットで調べても正確な番地が判明しなかった困った物件。番地表示板を探すの忘れた。ストビューを見る限り、番地表示板は出て無さそうだけど。
旧三田家土蔵・旧三田家長屋門(深沢二丁目広場)東京都の古民家 – NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2143821029258924901/2144014384115753103
にまとめる際に、長屋門を古民家に入れるかどうか悩んで、いちおう「長屋」てつくからな……と、とりあえず民家に入れた。
が、やはり居住のための建物という感じではなかった。せいぜい、寝る場もないほど来客があったときには、ここも使った…くらいのものだろう。
しかし、この公園にはもともと、長屋門や土蔵のほかに、ちゃんと母屋があった。2009 年に火災で焼失したのだという。
【東京】築120年の古民家が火事で全焼…世田谷区深沢「三田家住宅」
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1234854385/-100
17日午前6時5分ごろ、東京都世田谷区深沢の区立深沢二丁目広場敷地内に、同区が一般展示用に保存していた 築120年の「三田家住宅」の母屋から出火、木造一部2階建て約280平方メートルを全焼した。 土蔵も一部が燃えた。けが人はなかった。警視庁玉川署で詳しい出火原因を調べている。 同区教育委員会などによると、三田家住宅は、旧農家の住宅で、母屋は1889年に建築された。 母屋の屋根が茅葺(かやぶ)きの寄せ棟造りになっており、当時の富農を象徴する造りを今に残す貴重な建物だったため、 同区が1998年に所有者から無償で借り受け、日中は内部を無料で一般公開していた。前日は休館日で施錠されていたという。
現地に行って、ここがそうか!2009 年、なんとなく覚えてる…と思った。
管理員の方に
「放火ですかね?」
と聞いたら、
「そう、いわれてますけどね。警察が犯人を捕まえないので、わかりませんわ」
という話だった。伝聞の形で話されつつ、この管理員さんも放火だと考えてるのが言葉の端々にうかがえた。
↓ただ、こちらのサイトを見る限り、すべてを放火と決め付けるのも難しいようだ。
日本式建物火災
http://www7a.biglobe.ne.jp/~fireschool2/d-H2-13-3.html
すなわち、ネット民が放火だと決め付けてる事件のうちいくつかは、油などを用いた形跡がなく、電気系統の漏電による火災と判別しにくいらしい。
それにしたって、いまどき、そんなに頻繁に漏電火災が起きるとは考えにくい。知識のある放火犯なら油を用いない周到さはあるだろう。ある程度は漏電等の失火も含まれるだろうが、これだけ南関東で古建築の火災が続いているのは、やはり同一犯だと思う。
しかし、母屋がなくなったことで、屋敷森に囲まれたちょっとした聖域のような空間が生まれていた。
説明板によれば焼失した母屋は、築 120 年、明治期の建物で8間造りだったという。8間!明治なので江戸時代と単純比較はできないけど、相当な豪農の豪邸だったようだ。だいいち、ふつう、農家に長屋門はないもんな。←まちがい。わりかしある。むしろ中農~豪農の方こそ納屋や使用人の住居を兼ねた長屋門を作りがちだということを、色んな古民家をめぐって知った。
文化財等が保全された 身近な広場|活動拠点紹介|トラストまちづくり事業|一般財団法人世田谷トラストまちづくり
http://www.setagayatm.or.jp/trust/map/pcp/index.html
深沢二丁目公園 – OpenStreetMap
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.62159&mlon=139.66100#map=18/35.62159/139.66100
番地は不明なままですが、ようは深沢 2-13 のブロックの西側。
OpenStreetMap | 変更セット: 35492929
http://www.openstreetmap.org/changeset/35492929
林丘亭(東京都杉並区 柏の宮公園内)
訪問日:2015-11-04 頃
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=24#rinkyutei
見た。寛永期に小堀遠州に命じて作らせた茶室という言い伝えが残る。
ツイッターや NAVER まとめに書いたことと同じで恐縮だが、
その言い伝えが本当なら普通なら、何の文化財指定もされてないのはおかしい。(早とちりであったため撤回)
説明板によれば幕末に増改築が行われ、昭和34年にこの地へ移築(元は酒井家江戸下屋敷にあった)され、そのとき林丘亭と名付けられたという。
小堀遠州の件を抜きにしても、仮に寛永期の創建が事実なら、普通は国の重文、最低でも都指定有形文化財にはなってるはず。そうなってないってことは、言い伝えが真である証拠がないか、幕末の増改築と昭和の移築で寛永期の部分は失われたと見るべきだろう。ロマンに水を差す人間ですみませんねえ。2015-12-03 追記:まちがいなく小堀遠州が創建し、現在は東京国立博物館に移築されている「転合庵」も文化財に指定されてない。だから文化財指定されてないから小堀遠州による創建を否定できるというわけではないようだ。先述の部分は撤回します。
残念ながら、茶室利用者でない人は建物のそばまで行くことができない。外観を楽しむのみ。
杉並区 施設案内 – 柏の宮公園茶室
http://www2.city.suginami.tokyo.jp/map/detail.asp?home=H05323
近くで見てないので建物についてはなんとも言えないが、奔放かつ豪快な武蔵野の木立はすばらしかった。
庭園として目を見張るほどのものとは思えなかった(ただし素人の感想)。しかし木立は良い(二回目)
柏の宮公園 – OpenStreetMap
http://www.openstreetmap.org/?mlat=35.67755&mlon=139.62509#map=18/35.67755/139.62509