島津の猛攻に耐え抜いた豊後竹田の堅城 岡城を見てきた。
九州の名城ベストテンに確実に入る、「荒城の月」のモデルとなったことでも有名な豊後竹田(大分県)の岡城を見てきました。
竹田市 岡城跡
http://www.city.taketa.oita.jp/okajou/
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所在地:大分県竹田市竹田提灯谷
もともとは大友氏の分家の志賀貞朝の築いた城で、 薩摩との戦争で三万七千の薩摩軍をわずか千名の兵で撃退し(←個人的には、いくらなんでも数字に誇張が入ってるだろうと思う)落城しなかったので、 ここは堅城であると世に知れ渡り、のちの秀吉の九州征伐後、豊後 岡領を与えられた中川秀成の居城になりました……と。
それゆえ、落ちなかった城であること・本丸にある天満神社の本尊が菅原道真公であることから、受験生の参拝も多い城なんだとか。
中川秀成は中川清秀の息子。清秀さんは『へうげもの』にも登場した古田織部の義理の兄だから、秀成は古田織部の義理の甥ってことになりますな。 だからなんだっていうわけでもないんですが、私ァ、自分の読んだマンガのキャラとの縁があると知ると急に親しみがわいてくるマンガ脳の持ち主なので。
岡城 その堅城っぷり
はい出た。いきなり。この、岩盤を人力で掘りぬいたトンネルを通らないとお城に近づけません。
鎌倉か。
コモンズにある↓この写真、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Roadway_Sign_to_Oka_Castle_Ruin.jpg
自分も撮ればよかった。
「お!おもしろい路面表示!」
と思ったのに、写真に撮るという発想が湧かなかった。猛省すべし>自分。
この日はうっすらと雪化粧した阿蘇連峰が見えた。
駐車場から見あげた西の丸。さっきのトンネルのあった場所をなんとか突破したとして、ようやくこれだ。当時の薩摩兵になったつもりで考えてみよう(当時は石垣は無かったと思うけど)……無理じゃっど!逃ぐっど!
大手門へ向かう途中の石垣の巨石。
往時に削られた切岸なのか、明治以降の公園化にともなって削られた斜面なのか、私にはちょっとわからない。
このあたりに鉄砲方詰所があったという。 土産物屋は営業してなかった。
年末年始につき、駐車場のレストランなども休業してたのだけど、 かわりに岡城への入場料がタダでした。勝手に見ていけ、荒らすなよ信じてるぞ状態。 信頼ベース社会っていいですよね。
石垣が無い場所でも、この岩盤絶壁。おらこんな城(攻めるの)嫌だー。薩摩へ帰ぇるだー。
明治には払い下げられ、建物は取り壊され、荒廃した城で遊んだ思い出を連想しながら『荒城の月』を作曲したという。(ただしややこしいことに、作詞者の土井晩翠は仙台青葉城・会津若松城・陸奥九戸城をモチーフにしたらしい)
……が、それはそれとして、ペンションの名前に『荒城の月』はないと思うんだがなー。
駐車場から 0.5km ほど。ようやく大手道の入り口到着。 ちなみに受付で竹の杖が借りられます(無料)。この日は受付も閉まってたけど出しっぱなしで自由に借りられた。
いまから山城を巡る人に、私とてニワカながら忠告しておきますと、杖を貸し出してる城では借りといた方がいいです。マイステッキ持参なら別ですが。
需要があるから用意してあるということですな。片手はふさがるけど、山城では杖があった方が疲労が少ない→それだけねちっこく見て回れる…・・・てことになります。
岡城の特色の、半円形の上部を持つ石塁。多くの城なら築地塀が建つ部分に石垣を伸ばしたような石塁がある。
上部に開いた穴から察するに、このうえにさらに柵か杭があったのでしょう。
石垣と違って塀と同じくらいの厚みしかない石塁なので、端の方も算木積みになってないのが面白い。
大手門の石垣。当時はここに門櫓があったのだろう。
仮名交じり文による、岡城の説明と注意書き。なんと昭和 16 年。太平洋戦争の開戦の年だよ。 そろそろこの看板が歴史文化財入りしてもおかしくない。
岡城だって天空城候補
日本で空中楼閣・天空城と言えば兵庫県の竹田城が有名ですが、 ここ竹田の岡城だって(←ややこしい)、なかなかどうして、天空の城っぽいですよ。
ただし曲輪を俯瞰で撮れる良い撮影ポイントがあまり無いのが、被写体として竹田城にかなわない理由なんでしょう。
霧が出れば……それでも霧が出ればッ……(フォトショップによるフェイク霧)
こことか、桜を全部とっぱらえば、縄張りと石垣が綺麗に見えそうなんだけど……。
って、無理。ここ、桜の名所で、シーズンには大混雑するほどの人気スポットだから。
それをとっぱらうなんてとんでもない!
逆に言えば桜のシーズンには被写体として魅力的な城となるわけだ。
天守(御三重櫓)があった場所からの眺望。
本丸跡。けっこう狭い。御三重櫓と天満神社や隅櫓・渡櫓があったくらいで、 御主殿はなかったらしい。
♪テリレリテリレリ……テリレレー♪(効果音 from ゼルダ) 「スコップを見つけた!いろんなところを掘ってみよう!」
天満神社。明治の廃城後、城下の神社がいくつか合祀されたころはもっと大きい神社だったらしいけど、昭和になって当時の宮司の夢枕に立った神様の
「移転すべし」
というお告げを聞いて城下町へ移転し、今は小さなお堂があるのみ。
たぶん、不便だったのだと思う。神主さんも氏子たちも。 人々の小さな不満を解消する小さい政府のような神様。さすが、この国は神様が 800 万もいるだけあって、サービスが行き届いている。
さて、この岡城天満神社。最初に書いたとおり、落ちなかった城であることにあやかろうと、受験生の参拝が多いらしい。
しかし私はギャグマンガ家。落ちなかったら困る。縁起がわるい。なんとか落とさないと。
そんなときはシェーだ。神様には(ギャグマンガの)神様で対抗だ!やれやれ。これでひと安心。
本丸を無事、落として(?)、悠々と後にする。
西の丸方面
岡城は谷をぐるっと囲むような「く」の形の縄張りをしてて面白い。
床と間取りだけが再現された、家臣の屋敷。面白い試みとして評価したい。
日本全国の城で馬鹿みたいに費用のかかる天守復元・御殿復元をやってるけど、 無理にやんなくてもいいと思うのですよ。
お城や歴史を大事にする気持ちは大切なことだけど、 税金は大事に使う気持ちだって大切だ。 お城を復元すれば観光客がわんさか来るってほど甘くはないし、 アテが外れれば維持費が毎年かさむ。
ほんのわずかに残雪。
搦手門の石垣。金色のススキが生い茂って帽子か髪の毛みたいになってるのが面白かったのだけど、いまいち満足のいく写真にならなかった。 どれも構図が悪い。どういう風に撮ればよかったのだろう。残念無念。
西の丸。藩主の御殿だの家臣の屋敷だの生活空間はこっちにあったらしい。広い。
搦手道。せまくてグネグネ。教科書どおり。
搦手道の途中にあった祠。立小便禁止の警告ではない……と思う。水の流れたような跡があるから、水神様でも奉っているのかな。
今年できたばかりだと思われるラクガキ。たとえ地面であっても曲輪や土塁は立派な史跡の一部。やってはいけない……んだけど、各地の現存天守のラクガキを見たあとでは、これくらいなら大目に見てあげようとか思ってしまった。
桜や紅葉や名月の時季に来ると、より素敵な城なんでしょうな。そういうときは人も多そうだけど。
おしまい。