この記事は、単独で記事を立てるほどでもない庭園を紹介するための記事です。ときたま更新します。
あんまり庭園に興味はないのですが、近世城郭には庭園がセットなことが多くて、城好きとして庭園を「知らない興味ない」といつまでも突っぱねるのも情けない。
なんで興味がないかというと、基礎知識がないからで、正直どれも似たり寄ったりに見えて、綺麗だな落ち着くなとは思っても、どれがどうであれが好きでなんだかんだと語ることができないから。
結局は、勉強すれば解決するという話ですな。
それでも、訪問した庭園や庭園風公園の写真が増えてきたので、こうして不定期更新用エントリを立ててみました。
庭園は基本的に見て美しい場所なので、私が駄文を連ねなくても写真を貼れば、なんとなくさまになる。なら、基礎知識がなくてもまあいいやと思って。
この記事内では新しく書かれたものほど、上になります。
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元は徳川御三卿・清水家の下屋敷 甘泉園公園(東京都新宿区)
訪問日:2015-10-07
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#KansenenPark
ここの湧水がお茶に適していたので、甘泉園の名がついたそうだ。
残念ながら今は湧水は枯れてしまっているという。ともあれ、武蔵野台地の東端、広い目で見て国分寺崖線のハケの水のひとつとみなせたのかもしれない。
……なんて、油断してると、ときどきハッとするほど美しい景色が現れる。
なんでも、ブログにしてみるもんだ。文章化することで、漫然と見てた時には思い至らなかった視点にあとから気づける。
大名の庭園と、庭園公園は、そもそもの設計から違うのだ。
甘泉園公園は、いまでこそ庭園公園だけど、もとは大名のための庭園だ。大名が、散歩して四季折々の風流を楽しむための庭だ。
殿さまが自分が楽しむための庭なのだ。
明治以降に作られた庭園は、そこがちがう。目白庭園なんか明白に、多くの人々に楽しんでもらうための庭だ。一見してコンセプトが明瞭でわかりやすく、美しい。そのかわり、深みがない。
大田黒公園となった、大田黒氏の敷地も似たようなものだ。基本的に、来客をもてなすことに重点を置かれた設計だ。
なぜなら、明治以降の人間は、あちこち自由に旅行に行けるからだ。
そう、それはもう猫のように自由に。でも、大名はそうはいかない。
江戸時代、旅ばやりになるのは後期からだけど、それだって関所があったりなんだかんだと大変だった。 芝居を見に行ったり、花街に行ったりしているけど、馴染みのない町内にはまず行かないし、見知らぬ人間が町内を歩いていたら警戒されるような時代だった。
町人でさえそうなのに、大名ときたら。
お忍びで吉原通いする大名がいなかったわけじゃないけど、例外である。
普通は、自分の屋敷の敷地と江戸城の往復くらいだ。参勤交代で国元に行けるとはいっても、関係ない土地に旅行へは行けない。
せいぜい、鷹狩りかなんかで、江戸の近郊に行けるくらいのものだ。
となると、自分ちの庭を面白くするしかない。
わかりやすさなんかくそくらえ。激安の殿堂ドンキのごとく、どこになにがあるかわからないワクワク感、季節によって驚きのある庭にしたくなるのが人情というものではないか。
このへんとか、このときはピリッともしないけど、季節や時間が合えば劇的にうつくしくなりそうな気配がある。
そんなにたくさん庭園を見たわけじゃないけど、歴史のある庭園ほど、なんだか雑な部分がまだらに存在するような印象があった。
それは、大名が自分のために仕込んだ、忘れた頃に自分を驚かすびっくり箱だったのではないか?というのは、私が勝手に思い込んだ俺理論なのだけど、すくなくとも、いま、私は腑に落ちている。これでいいのだ。
美術評論家の邸宅だった場所 大田黒公園(東京都杉並区)
訪問日:2015-10-07
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#OtaguroPark
杉並区、大田黒公園。音楽評論家大田黒元雄の意思にもとづき、遺族から寄贈された邸宅跡地を公園化したものだ。入場無料。紅葉の時期にはライトアップされるという。
名前は公園だが、回遊式日本庭園として整備されているので、このエントリに収録することにした。
そもそも、ここを訪れたのは、大田黒元雄の邸宅が茶室として現存しているからと聞いたからだ。数年前より、私は古民家巡りもしているのだ。
だが、古民家用の記事ではなく、庭園用の記事の方に書くということは、つまり——、そう、ご名答! 茶室はろくに鑑賞できなかったのだ。が、その話はひとまず置いておこう。
公園の門をくぐると、まるで古刹の境内のように鬱蒼と生い茂る樹々に圧倒された。
公園内では、新郎新婦のタキシードとドレスをまとった男女が写真を撮られていた。結婚記念の写真を撮っていたようだ。 つまり、それくらい写真映えのする公園だということだ。
回遊式日本庭園とやらは、若干、樹木に押し負けてて開放感に欠けるきらいはあったが、悪くはなかった。木漏れ陽は正義。
あまり日本庭園っぽく感じなかった理由は、公園内に洋館があるせいかもしれない。
大田黒氏は敷地に洋館と日本建築の2邸を建てた。明治から昭和にかけてのお金持ちの多くみられたパターンだ。 昭和とは音楽評論でお金持ちになれる時代だった。すごいね。
>大田黒元雄 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E9%BB%92%E5%85%83%E9%9B%84
大きな窓から中がうかがえる。ちくしょうブルジョワめ~~~とか思ってしまう。みんなビンボが悪いんや。
さて、ここらで、うすうす感じていた嫌な予感が、どうやら的中したらしいと悟らざるをえなくなった。 茶室が見えないのだ。
杉並区には、ここのほかにもいくつか、寄贈された古建築を茶室として利用できる公園がある。
これらの茶室はいずれも利用するには有料で、事前の申し込みが必要だ。
が、わたしは別に茶室を利用したいわけではなく、鑑賞できればそれでいいのだ。 内部が見られないのは残念だが、まあ、お金を払うわけでもないから、外観を写真に撮れればそれでいいや……というつもりで訪問したのだ。
が、この大田黒公園の茶室は管理棟と休憩室とトイレと垣根でブロックされ、外観はほとんど見せてくれなかったのである。なんだい、ケチ!
こうなると、素敵やんと思っていた庭園も袈裟まで憎しで、
「こんだけ木漏れ陽があったらきれいなん、あたりまえじゃボケ!うすぐらいんじゃ!」
などと思ってしまうのだから、しみじみ、人間の心は繊細だ。え?主語がでかい?
しかし、この茶室。太田垣氏の邸宅の日本建築の方。ここまで厳重にブロックしなきゃならんほどの建物のようには見えないんだがなあ。
>施設案内 大田黒公園茶室|杉並区公式ホームページ
http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/bunka/shiika/1007020.html
そんなこんなで、公園に入った直後の第一印象と出たときの感想が回れ右してしまった。
それから二年たってなるだけ客観的に写真を見ながら感想を述べてみようか。
個人的な好みで申せば、樹木の多さと密度のわりには、作為性が鼻につく。
私はやはり、もう少し自然な豪快さがある庭園が好みであるようだ。庭園なんてどれも同じだと思っていたが、じっくり考えてみると、そこに自分の好き嫌いが、たしかにあるな。大田黒公園は、そこに気づく材料になった。すばらしい。
もとは鷹狩りの地 目白庭園(東京都豊島区目白)
訪問日:2015-10-06
この項のパーマリンク:http://www.masuseki.com/wp/?p=28#MejiroTeien
別の所用でこの辺を通ったときに知って、寄り道して撮って、である。
平成2年に豊島区が作ったものだそうな。それ以前は、ここには公立学校共済組合住宅があった。
公立学校共済組合住宅になる前は?というと、これがよくわからない。
いや、一部はわかる。なぜなら庭園内に説明板があったから。
大正期には、現在の公園の東側(目白台3-18)に、鈴木三重吉の邸宅があった。 日本の児童文学と童謡に多大な影響を与えた雑誌『赤い鳥』を発行した人物だ。
つまり、ここで、雑誌『赤い鳥』は創刊され、『蜘蛛の糸』『杜子春』『ごん狐』なんかが生まれたのだ。うははー。しまった。五体投地で感謝するの忘れた。
いま、庭園内の茶室の名前が『赤鳥庵』なのは、鈴木三重吉が事務所として使った建物を『赤鳥庵』と呼んだことにちなんでいる。
では、それよりもっと前はどうか。
将軍など高貴なお方が鷹狩りに訪れる地で、そのときご休憩・ご宿泊にお上がりになるお屋敷があったからだ。文章に「ご」とか「お」が多いなちくしょうめ。
これは、1929 ~ 1945 の間、このあたりに存在した武蔵野鉄道の駅『上り屋敷駅』の由来になった。また、目白庭園から北に 100m ほど行くと『上り屋敷公園』があり、この古名を現代に伝えている。
ただし今昔マップをみたら、地名は『飛鴨』となっていた。
いずれにせよ、この西池袋二丁目と目白三丁目のあたりで殿さまたちが鷹狩りをなされたのは確からしい。仮の宿とはいえ、それなり防衛施設は有していたはずだから、開発されてなければ、城マニアの訪問リストしていたことだろう。
古い文献をあさり、上り屋敷の正確な位置を割り出し、西池袋二丁目と目白三丁目を丹念にめぐれば、虎口や土塁や堀跡が見つかる可能性が百にひとつふたつはあるかもしれない。が、私がそれをやりたいかというと、さすがにしんどいという気持ちである。
地名は飛鴨だったらしいが、目白庭園の池が、ずっとこの地にあった自然池なのか、庭園化に合わせて掘削された人工池なのかは、わからなかった。
話を現代に戻そう。大きくはないが、個人的には現代人好みの庭園だと思った。
ただ日本庭園にした、というのではなく、日本庭園というジャンルへの平成2年の回答という感じ。
たとえば江戸時代から続く有名な庭園とか、広すぎるせいもあるけど、観光客目線だと冗長すぎたり、不要だったり、逆にこれ必要?なものがあったりする。それは、それらの庭園が本来、そこの住人のための庭だったからだ。
近代以降の、住民や観光客のために新しく作られた庭園には、その枷がない。徹頭徹尾、ぶらっと訪問した人にためにカスタマイズされている。
コンパクトに必要十分にまとまっていて、ぐるっと一周して、ああ綺麗だったねよかったね、終了~、である。
滋味がないといえばそれまでだが、これはこれで、ひとつのコンビニエンスな到着点だと思うのだ。 庭園初心者で、これから勉強するかどうかもわからないような私は、とくにそう感じる。