訪問して6年間、エントリを立てなかった
越前国 丸岡城。現在の福井県坂井市にある、現存十二天守の城のひとつだ。
写真のタイムスタンプは 2010-03-31 になっている。 ところが、自サイトを検索しても、一行も触れてなかった。
リサイズした写真などはあったので、つぶやいてはいたのかもしれないが、 単独エントリは立てなかったようだ。現存十二天守の城なのに。
なぜか?
理由はふたつ考えられる。ひとつは、写真をあらかた失敗してしまったこと。
もうひとつは、訪問先としてお勧めしにくい欠点が多いため。にもかかわらず、この城だけにしかない特徴も多く、つまり、語りにくいのだ。
という言い訳をあらかじめ書いてから、6年前の記憶をたどりつつレポートしてみよう。
丸岡城はアクセスがあまり良くない
このときは福井バイパス沿いのネットカフェに一泊し、朝、バスで福井駅に戻ってそれからJRでJR丸岡駅に行き、4km の道のりを歩いて丸岡城まで行った。
歩いた理由は丸岡駅に着いて、バスの行き先を見たら丸岡城へ向かうバス路線が見つからなかったからだ。
福井バイパス沿いのネットカフェに泊まったのなら、福井駅から丸岡へ行く京福バスの路線バスが利用できた。
が、当時はまだ城めぐりを始めたばかりで、事前に交通手段を下調べしておくなんてことはせず、行き当たりばったりで訪問していたので、福井駅から丸岡城へ向かう路線バスがあると思っていなかったのだ。
丸岡城へ行くための路線バスは、当然に最寄りである丸岡駅から出てるだろうと思っていたのである。お城の最寄り駅から3つも隣の福井駅から出てるバスに乗るという発想はなかったのである。
それに、仮に福井駅からの路線バスに気づいていたとしても、電車で三駅分もバスに乗るなんて出費も甚だしすぎる!こっちは18きっぷで来てんだぞ!……と、蹴っていたことだろう。私は自分と言う人間をよく理解している。
私だって宮崎という田舎から出てきた地方出身者で、路線バスの路線がどんどん消えていっているのは知ってたんだから、予想してしかるべきだった……と、当時は、丸岡駅→丸岡城への路線バスが廃線になったのだと思い込んで、歩くことにしたのだった。
ところが(これを追記しているのは2020年だが)、丸岡駅から丸岡城駅へ向かうバス、実際にはあるにはあったのだ。ただ、下車するのがに「丸岡城前」なんてわかりやすいバス停ではなかったため、気づけなかったのだった。
丸岡駅から丸岡城へバスで行くには、京福バス 丸岡永平寺線に乗って、丸岡バスターミナルで下車すればいい。お城のすぐそばとはいかないが比較的にお城の近くまでバスで行くことができる。
“行き先:JR丸岡駅→丸岡南中学校→福井大学病院→永平寺口駅”だ。これが丸岡駅から丸岡城へ近づくためのバスなどとわかるわけがない。当時の私はスマホを持ってなかった。ガラケーはあったがプリベイドな通話・メール・カメラくらいしかできないやつで、ウェブは閲覧できなかった。
市内を循環するコミュニティバスも存在するようだが、こちらも「丸岡城」の名を冠したバス停は無い。これでは検索にヒットするわけがない。検索した人間は簡単に「丸岡駅から丸岡城へ向かうバスが無いのだな」と誤解するだろう。
>福井県坂井市/坂井市コミュニティバス「ぐるっと坂井」
https://www.city.fukui-sakai.lg.jp/kikaku/kurashi/toshi-keikaku/kotsu/bus/gurutto-sakai.html
観光客を増やしたいなら、こういう地味な部分の気配り・足固めをしっかりしてほしい。ネットスラング的に言えば
「そういうとこやぞ」
である。
– – – –
そんなこんなで丸岡駅に行き、んだよバス無いのかよー、しかたねえ 4km くらい歩くか……とお城を目指して歩き始めた。
駅から城までバスやタクシーを使うか、歩くかは距離やスケジュール次第なのでなんともいえないが、 1.5km 以下ならたいがい歩くことにしている。いろいろ発見があるからだ
痕跡建築。トマソンと呼んでもいいが、どの分類になるのかわからない。
路線バスでお城に向かったら見ることはなかっただろう。それほどの巨樹ではないが、形が素晴らしい。
丸岡城は天守以外の残存度が低い
到着報告的にガラケーのカメラで撮影。なぜなら当時、他にモバイル環境がなかったからだ。
丸岡城は丸い岡の上に建っている。日本全国波瀾万城の4コマでもネタにしたが。
見てのとおり、公園の石垣は明治以降に生まれた谷積みを隠そうともしていないし、近年になっての復元建造物などもない。 予算がないんだろうなー、と思うが。
現存十二天守で、天守以外は建物が残ってないというと宇和島城もそんな感じだったけど、丸岡城はもっと徹底していた。 門もなにもない。
しかし泥がつまりまくりで、あんまり管理されてなかったので、遺構じゃないのかもしれない。
あとからピントが合わせられるカメラは、まだ地球上に存在していなかった。
ちなみにそのような夢のような21世紀カメラが地球上に現れた今も所持してはいない。
霞城公園の桜は一分咲きといったところ。早く着きすぎて開城時刻まで時間があったので、霞城公園をぶらぶらした。今だったら地形や土塁跡や堀跡がないか探して回るものだけど、当時は建物がない=見るものがない、という状態。 そんなわけで写真もない。
問題はこのとき、写真のピントを城に合わせるか桜に合わせるかで試行錯誤し、マニュアルフォーカスにしてしまったこと。
そして、設定を戻すのを忘れてマニュアルフォーカスのまま、オートフォーカスだと思い込んで写真を撮りつづけてしまったため、ぜんぶ写るんですみたいなピンの甘い写真になってしまったのだったああああ
しかし天守は超個性派。唯一無二
ここまでつらつらと文句を書いた。アクセスは悪い。天守以外なにも残ってない……と。 しかし、肝心の天守は、超個性派・唯一無二の、見るべき価値のある天守なのだ。
そもそも現存十二天守という次点で、選ばれし天守なのである。
だから作られた時代がちがうかというと、そうとも限らないだろう。
天守台は重い建物を支えるため、頑丈だが整形しにくい岩石を使い、塀くらいしか乗らない場所には見栄えを優先して脆いが整形しやすい石を使う、という適材適所は当時からあっただろうから。
加工しやすい石で隙間のない石構造物を作るなんて、古墳時代にもできたことだ。
だもんだから、作られた時代がちがうかどうかは私の眼力じゃ判断できないのであった。
ただし整形隅石の方も割石の隅石の方も、縦横比が同じくらいだから、同時期のものかな……という気はする。
初期の天守は天守台と天守一階のサイズをそろえることができなかった……とものの本にある。 これも、お城について学び始めたころは言葉通りに受け取ってた。いま、冷静に考えてみる。当時だって時間をかけたら可能なはずだ、と結論せざるをえない。江戸時代ほど道具やノウハウが洗練されてなくても、サイズが合うまで作り直せばいいだけのことだ。理論上は不可能じゃない。
乱世だから建設に予算と時間がかけられないため、事実上の不可能であった……ということだろう。
正直、建築を見たい人間にとっては邪魔でしかないのだけれど、わずかな予算の中でできる観光客に楽しんでもらえる展示物……となると、こんなものでしかないのだろう。
現存天守の階段はどこもここも急なのだけど、結びこぶのある登り縄が用意されていたのは、私が訪れた天守の中ではここだけだ。さすがに笑う。居住性のかけらもない。
石落とし。床板が釘止めされていて、真下に攻撃できない。そんな石落とし、あるか?
丸岡城は地震によって一度、完全に倒壊して、そのとき無事だった部材や損傷の少ない部材を使って再建された城だ。 (それを現存十二天守と言っていいなら、一部でもオリジナルの材料を使って再建すりゃ現存天守を名乗れるんじゃないか?と思わないでもないが……)
再建されたときに釘止めされたのか、もとからなのか、どっちだろう?
石落としと呼ぶより、別の名称が必要なんじゃないか。たとえば第三艦橋とか。
犬山城・松本城と現存最古の天守の座を争う丸岡城だが、廻縁のサービスに関しては敗北である。言ってもしかたがないことだが。
北国の寒さによって普通の瓦だと割れてしまうので、ここ丸岡城では特産の笏谷石を使って瓦を作ったのであったああああ。マンパワー無駄使いィィィイイイッ!!!
実はワクワクしながら見に来たのだけど、実物を見た感想は
「地味……」
だった。
おお!こんなものまで笏谷石で!……と思うところだが、これはちょっと説明を要する。
もともとの丸岡城の鯱は木型に銅版を貼ったものだった。
しかし昭和15~17年の修理のさい、戦禍で銅板が不足していたので、やむなく瓦と同じ材質で鯱を作った。それが写真の石鯱だ。
この石鯱、昭和23年の大地震で落下してしまったので、そのとき破損してしまい、そのまま展示されている
現在の鯱は元の木型銅張りに戻っている。……ということだ。
戦時中に文化財修理をやってんだな、のんきなもんだ……というのはともかく、鯱瓦が木型銅張りでいいんなら、平瓦や丸瓦もそれでいいだろ柴田勝豊さんよう……と思わずにいられない。
現実的には、銅張りより石瓦のほうがまだしも安かったってことなんだろうけど。
貴重な石瓦をなるだけ長期保存させるため、特殊な薬剤を塗布しその試験を行った結果が展示されていた。
さて、この丸岡城。天守台の石垣がすぐ崩れてしまうので、人柱が必要だということになった。
そこでお静という女が、自分の息子を侍にしてもらうという約束で、人柱になったのだという。
ところが城主はすぐに移封になったので約束は果たされず、それからというもの夜な夜なお静の……という怪談が伝わる。
この手の話はいろんなお城にあって真偽不明だったりするものだが、ここのはガチらしくお静の墓もある。
なにより私がガチだと感じた、その理由は……
石垣が下手だったからだ。そう、下手なのだ。積み方が。なんとなくだが。
あと、この城には一筆啓上の碑がある。日本一短い手紙として有名な一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ
お仙こと、仙千代がのちの丸岡藩主だからだ。
が、2010 年の私は、その手紙がここから出されたわけじゃないし……と、さして感銘も受けず、碑も写真に撮らなかった。
興味がなくても、とりあえず撮っとけ、あとで必ず後悔するから……と、本で読んでいても、やっぱり自分で後悔を経験しないと興味がないものを撮るようにはならないものだ。この頃の反省が、いま、生きている。なにごとも経験だ。
回してみた動画
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ニコ動
まとめ
近世城郭の平山城にしてはアクセスがあまりよくない。しかも天守以外なにも残ってない。 その天守がまたくせもので、個性的という点ではぶっちぎりなのだけど、その個性が地味とか素朴という方面に突出してるので、一般的なお城のように「派手さ」を期待すると裏切られる。……という、実に、おすすめしにくいんだけど一見の価値はある、困った城だった。
その魅力をひと言で言えば「渋い」だろうか。
豊臣秀吉に敗れた柴田勝家の息子・柴田勝豊の築いた城。柴田勝豊は秀吉側に寝返るものの、病によって賤ヶ岳の戦いの直前に、父の勝家より8日早く死んだ。
そういう侘び寂びを味わうべき城なのかもしれない。
そして、そんな世の無常を感じて打ちひしがれた人には、おなじ坂井市のこんなスポットがおすすめ。
東尋坊
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ちなみにこのときの私は丸岡駅⇔丸岡城の往復で 8km 歩いて消耗してしまい、東尋坊へ行く気力・体力が残っていなかった。
追記 2020-11-22:経験を積み、体力作りもそれなりにやってる今の私なら、8kmくらいでヘバることはないけど、当時の私は運動不足であり、重い荷物をコインロッカーに被けるとかキャリーカートを使うと言う知恵もなかった。