本家烏城・岡山城を見た
丸亀城を見たあと、帰り道の途中に寄るのにちょうどよかったので岡山城を見に行きました。
たぶんかつての外郭の石垣だと思う。防御力の高い中学校かなーと思ったけど、 あとで地図を見て確認したら防御力の高い「勤労継続支援B型事務所」でした。 なんだ?B型って。
みえたー。ちなみにお城の北の後楽園の方は時間がなくてスルー。 一般的な観光ルートは後楽園→岡山城、らしいのだけど。
川面に映える金烏城 ― 岡山城
http://www.city.okayama.jp/museum/okayamajou/index.htm
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所在地: 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3-1
せっかく明治期の破却を逃れたのに、太平洋戦争で消失してしまった天守。現在のは外観復元内部コンクリ城。残念ではあるけど、外観は忠実に再現されてらしいので昭和の復元の中では上出来な方でしょう。
ときどき松本城がその黒い外観から「烏城」と呼ばれることがありますが、 本来、烏城と言ったらこの城を指します。秀吉好みの黒の城の代表格。 秀吉の重臣・宇喜田秀家や小早川秀秋が入り、のちにこれまた秀吉恩顧の大名の池田氏が入りました。
漆喰ぬりたて。さわると死ぬで(←死にません)
六十一雁木上門。名前が仰々しいけど、趣のある良い門。
岡山城の石垣は楽しい
野面積(左)と打込接(右)の石垣。石垣初心者にもわかりやすいステキ城郭。
コンクリですき間を充填されてしまった野面積石垣。昭和の修理なのだろうか。
実際、石垣のあちこちで歪みやはらみが発生していてやばそうな感じであった。
修理中の箇所もありーの。
ほぼ、パズル。
たしか野面積ができる穴太の技を修得した石垣職人って、ご高齢な方が一人いるかいないかレベルだったはず。こうしてしるしをつけないと復元不可能になっちゃうんでしょう。
近年、発掘された宇喜田時代の石垣。
野面積(奥)と切込接にだいぶ近づいた打込接(手前)の石垣。しかし、率直に言って、手前の石垣はあんまり積み方が上手くないような……小早川さんか池田さんかわからないけど。
門の近くなどの石垣の目立つ場所に置かれた巨石を鏡石と言うのですが、 それに彫られた「岡山中学址」の碑文。
なんか重厚なので誤魔化されがちですが、
やってることは本質的にDQN観光客が記念に引っかいて書くラクガキと変わらない。
立派に文化財の破壊でないかい?これ。同窓会生は反省するように。
たぶん、苔が枯れてオレンジ色になったのだと思う。無彩色な石垣の世界が急にカラフルに!なんか良いぞ。単に私がオレンジ色が好きだからそう感じるだけかもしらんけど。
枯れた苔……であってます、よね?(ドキドキ)
櫓とか天守とか
不明門(あかずの門)。実際には明治期に破却。1966 年にコンクリ復元。
月見櫓。焼失を免れた現存櫓。国の重文。
1620 年代に池田忠雄が建てたものだからか、天守とちがって漆喰塗籠の「白の櫓」なんですな。
お濠。南側かな?
天守ぅぅぅぅぅぅーーーーーーー!
犬山城もそうだけど、川のそばの天守は良いですね。
橋のトラス越しに見ても良い。
水平が取れてなくても良い(←良かねーよ)
天守内部は、どこの城もそうであるように、ここも博物館。 展示内容は正直に言えば、やや退屈な部類であったのだけど、 コンクリ城を少しでも感じさせないようにしようという、こうした配慮が好ましいと思った。
藩主の上座の再現。こうしたジオラマは地味にありがたい。撮影可能なのもナイス。
天守からの眺望。大都会岡山やるじゃん。
天守礎石。コンクリ復元する際、礎石だけここに移動させて展示したとのこと。
回してみた動画
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ニコ動
ここも天守が本丸の端にあるせいで、一部うまくつながらなかったなー。
そのほか
宇喜田期の地層(のちに城郭を拡張するさい宇喜田期の石垣を埋めてしまったらしい)。 で、この向う側はずっと宇喜田期の地層なのかーと思ったら……
地層の一部がはがれて下地の布が見えてた。で、この地層が、この場所にあった地層なのか、別の場所の地層を貼ってここに展示してあるだけなのかハッキリせず微妙な気持ちになってしまった。
桐の紋。……は秀吉の家紋。宇喜田も小早川も池田も秀吉恩顧の大名だから、いつの瓦だかわからんなーと思った。
ウィキペディアによれば、秀家当時のイメージで再建
だから桐の紋の瓦なんだと。
うーん……それはどうだろうなー。縄張りは池田期以降のままなんだから、意匠も幕末に合わせるべきだと思うけどなー。
本丸御殿の間取りだけタイルで再現されている。悪くない。
本格木造復元の本丸御殿があるにこしたことはないけど、 莫大な税金を投入するだけの見返りがあるかどうかと思う。 この間取りのタイルと想像力で往時に想いを馳せてこそのお城スキーだと思うが、どうか。
家老屋敷の床だけを復元した豊後竹田の岡城も良かった。
表書院にあった泉水。土管を通して人工的な噴水だか湧水だかを設けていたらしい。優雅。
穴倉。火事のときに宝物を避難させるための場所じゃねえかなーと思ったけど
(江戸城の穴蔵の説明はそうだったから)、ここの穴蔵の説明板には
「非常用の食料庫と考えられます」
とあった。
良いお城でした
どうも中国路の城は戊辰戦争で戦うでもなくアッサリと薩長を素通りさせてしまった城というイメージがあります。広島城も姫路城も。実際に戦ってたらその城の歴史上、最高に華々しい一節となったでしょうに。徳川の西国への備えという役目だったはずなのに……
でも、そうして戦火を避けたおかげで、貴重な文化遺産として今の我々が楽しめる。 それはそれで良いことです。
名合戦・名勝負のあった城の方が心躍るのはもちろんですが、 櫓や石垣など、当時の実物が残ってる城も、静かにグッときます。 「モノ」の存在感というか。
こういう、遺構の城下町への溶け込みっぷりとかを見ると、 来てよかった!としみじみ思いますね。