岩槻城址公園いってきた
3/26 に岩槻城址公園に行ってきました。
この広場は戦国の往時は沼だった場所で、ようするに、当時の面影はあんまり残ってない、 公園化された城址です。
夜明け前に軽く降った雨が、昼過ぎにまだぬかるみのまま。水はけは良くなさそうで、 数百年前はここが湿地帯だったことがなんとなくわかる。
縦に並んだヘッドライトの形状が面白いと思う。鉄道車両としての価値・見所はマニアじゃないのでよくわからない。東武鉄道の元・特急車両。地震の影響か、この日は中に入らせてもらえなかった。
マジもんのトーテムポールがある城址というのもあまりないだろう。カナダ・ナナイモ市から贈られたものだという。
いまどき珍しい土管のある公園。残念ながらオトナが通るには辛いサイズ。
私が幼少の頃には無かったタイプのアスレチック遊具。ゴムかー。
一部の桜は三分咲きだった。たぶんソメイヨシノではないと思う。
木馬。これはわかるけど……
この二体が、壊れてこうなったのか、もともとこういうデザインなのか判別できず。ヒツジとブタ?いや……うーん……
多重の折り返しと朱塗りが美しい岩槻城址公園の「八ッ橋」。
がーん。
いや……。いいんだ、べ、別に歴史的遺構ってわけじゃないし……
城址としての遺構
沼を埋めて造られた広場方面はあーんまり城址って感じじゃなかったのですが、かつて鍛冶曲輪と新曲輪だった場所周辺には、そこそこ整備された遺構が残ってました。
鍛冶曲輪。ここに「白鶴城址」の石碑があったので、岩槻城の別名が白鶴城なのだろうと思う。
空掘。
深さもたっぷり。斜面の傾斜も急。岩槻城は大構も持ち、相当な堅城だったはず。秀吉の関東攻めの時も、ちゃんと兵を残して本気で戦ってれば忍城と同じくらい良い勝負が出来たのではないかと思う。実際は城主が小田原城に詰めてて城主不在で兵も不足してたためか、数日で陥落した。
ここで空掘の底の畝(歩きにくくするためにワッフルのような凹凸を堀底に造った)が発掘されて、畝が後北条氏の城の特徴であると証明されたらしい。その畝の一区切りを模したと思われるコンクリ円柱が埋められていた。
合戦で死んだ無名兵士の墓標。
時代はぐっと下がって、江戸時代の中後期っぽい造り(と、私には思えた)の城門。
こちらは裏門。お!むくり屋根!(むくり屋根 好きなもんで……)
……と、まぁ、城址としては少々物足りないものの、なんにもない今じゃただの公園ってわけでもなかったのでまずまずでした。