近世大名は城下を迷路化なんてしなかった_バナー



[城址] 西は無防備!小粒だが精緻な境目の城・小坂城(茨城県)

この記事どう? ええよ~

土塁の屈曲が見事・小坂《おさか》城(茨城県牛久市)

場所以外の下調べはせず、前知識無しで訪問。訪問日:2016-08-31。

単独記事を立てるまでも無い城址 | 桝席ブログ……に入れなかったのは、つまり、単独記事を立てる価値があると個人的に思うほどのよい城だったということ。

ただし、私が攻城計画の参考書・必携書にしている『都道府県別 日本の名城ベスト10』では、茨城県ベスト10に入ってない。茨城県の土の城、レベル高いんだな。

追記。『都道府県別 日本の名城ベスト10』は 2010 年の本。小坂城の公園化や説明版の整備は 2011 年。今なら評価も変わるのでは?と思う。

[城址] 西は無防備!小粒だが精緻な境目の城・小坂城(茨城県) | ブログ桝席

  >小坂城(茨城県牛久市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
  https://kojodan.jp/castle/886/

↑訪問人数こそ少ないけど、平均評価は高い。さすがに、こういう城を見に行く人はわかってる感ある(建物のない土の城で、この評価は立派)。

登城口。駐車場にバス駐車場もある(コミュニティ・バスの運行があるらしい)
小坂城(牛久市) 登城口デッキより。

牛久市小坂町愛宕山 – OpenStreetMap

国道 408 号を東に走ると左手に小さいながらも
「小坂城 50m先」
の看板が出てくるので、岡見城よりはよっぽど迷わないし、コミュニティ・バスでも行ける。登城口までそんなに坂はない。車・自転車・公共交通機関、いずれの旅行者にもオススメできる城址。トイレと水飲み場がなかったのは璧《たま》に瑕《きず》か。

正直、登城口あたりは斜面もゆるやかで、第一印象では、あまり期待できない城だと感じた。しかし、登ってみたらガラッと印象が変わった。

これだ。小さくて地味だが、実に精緻に計算された空掘と土塁が縦横に走っていた。
小坂城(牛久市)

言葉を尽くすより、ただ写真を貼るだけの方が説得力が増すだろう。
小坂城(牛久市)

小坂城(牛久市)

小坂城(牛久市)

小坂城(牛久市)

小坂城(牛久市)

三の丸から二の丸への土橋。
小坂城(牛久市)

ちなみに、一の丸へは、どうやって行けばいいのか私にはルートが見えず、無理矢理に空掘りを越えた。

説明版によると、一の丸への虎口はあるものの、残存度がよくなく、木橋がかかっていたのか、それともいったん堀まで降りて登る形式だったのか、発掘調査でもよくわからなかったらしい。

この堀の向こうに竪掘があったらしいが、説明版をよく読んでおらず、藪を漕ぐのがいやで堀を越えなかったので、見ていない。
小坂城(牛久市)

シジミ蝶かな?ピントがずれた。
小坂城(牛久市)にて。 シジミ蝶だろうか。

 

小坂城公園案内図。
小坂城(牛久市) 案内図

一の丸をL字の二の丸が半周して囲み、その北側に四方を空掘で守られた三の丸を配置。その東に小さな四の丸があるという縄張り。

形式的には梯郭+連郭の複合になろうか。

きわめて面白いのは、城の西側が無防備に近いところだろうか。斜面はゆるやかなままであり、三の丸はわざわざ、西側の土塁に開口部を設けている。

説明板では、西側の攻撃を想定していなかったのか、なにか別の目的があったのか今のところ不明と書いてあった。

私は、徹底的に撤退路の確保だと思う。

完全に、東からの侵攻に備えた境目の城であり、規模的にも城というより砦に近く、籠城することは考えてない構造だったのだろう。勝ち目がなくなったら、さっさと敗走できる城。

小坂城。英語だと Osaka castle。検索エンジン経由でたどり着いた日本語が読めない外国人を悩ませそうな、罪作りな名前の城である。

鎌倉時代から文献に現れる名門、小田氏の配下である岡見氏が城主だったらしい。岡見氏の先祖らしい人物は室町時代に文献に現れる。

小坂城は小野川の河岸段丘である舌状丘陵の先端の小さな坂の上に築かれた城だ。そして小田氏-岡見氏ラインは東の江戸崎城を本拠とする土岐氏と対立していた。

岡見氏自身の本来の居城は、ここより西の岡見城だったろうし、後にはさらに西の、牛久沼のほとりの牛久城に移った。

後北条氏の台頭とともに岡見氏は主家の小田氏を裏切るのだけど、小坂城を守っていたころは、主家の小田氏がさらに北西、現つくば市の小田城に控えていたことになる。

つまり、ここは最前線の城、境目の城だったということだろう。

ここより西方にいくらでも体制建て直しのための城があったわけで、よほどのことがないかぎり、この城で篭城する必要はなかったはずだ。

だから、退路を確保するし、防衛よりも出撃に重きを置いた城になる。

さらに言えば、西側の守りを堅くすると、もし城を奪われたとき、奪い返すのが大変になるのだ。そういうことも考えての構造だったのだろう。

西側こそ無防備に近いものの、先述した通り東の敵に向けての合理的な曲輪の構成、横屋がかりは見事であり、設計に明確な意図が感じられる素晴らしい城だった。

—-

四の丸も西と南に土塁がない。説明版では四の丸の軍事上の役目を解説しておらず、天目茶碗やかわらけ、臼片が発掘されたことから、文化的施設があったのでは?とも推測していた。だが、私は四の丸はいつでも出撃できるよう部隊を配備しておく出丸、もしくは外枡形だったと思う。

南側にはたしかに土塁がないけれど、事実上の二重掘になっている。
小坂城(牛久市)

この二重堀構造こそ、四の丸が独立性の高い曲輪、すなわち出丸だった証しではないか。

三の丸と四の丸の間の空掘は屈曲せずまっすぐ降りていた。
小坂城(牛久市)

私はこれを現地では竪堀的な目的のためと見たのだけど、いまにしては出撃用の通路、すなわち追手道と思えてきた。

ただし江戸時代には三の丸に愛宕神社があったため、あとから作られた参道の可能性もあるそうだ。

先述したように、現地説明板では、四の丸だけから天目茶碗やかわらけ、臼片が発掘されたことから、文化的施設があったのでは?と推測していた。

しかし、天目茶碗は禅僧や茶人が好んだために文化的遺物のように思えるが、本来、紀元前から存在する質実・頑丈な日用品だ。

そして茶道が普及する前からお茶の覚醒作用・不眠作用は知られていた。

だから、私はやっぱり、四の丸は緊急事態・緊急出動に備えた寝ず番が常時配置されていた出撃用の曲輪だと結論したいのである。

さて、そんな小坂城。実際の戦闘の記録では南東の小野川対岸にある泉城城主・東条重定が攻め寄せた『小坂の戦い』があるらしい。

ところで、ある日いちはやく敵を発見した、きくという女中が褒美に殿様から笄をもらうのだけど、後日うっかり、その笄を井戸に落としてしまう。きくは責任を感じて城勤めを辞め、いったん実家に帰るが、翌日自殺しているのが発見された……という哀しい逸話が小坂城には残っている。

いったん実家に帰ったのがミソで、連座を怖れた親による自殺に見せかけた他殺だったんやろなあ、と思うが、まあ私の憶測だ。

そんな憶測はともかく、この、きくが敵を発見したというのが『小坂の戦い』のときだとすると、興味深い点がひとつある。

きくは、敵を南西方向に発見しているのだ。南東の東条重定は南西から攻めたのだ。敵だってバカじゃない。そりゃ、遠回りしてでも攻めやすいほうから攻めるに決まっている。

バカ正直だったのは、東方面ばかり見張って、きくに手柄をとられた小坂城兵たちだろう。

あるいは、笄を井戸に落としてしまったというのは生きのこった人間の述べた綺麗事で、現実は恥をかかされた侍が、きくの笄を井戸に投げ捨てたのかもしれない。想像がふくらみますな。

その、小坂城の、ほぼ無防備なゆるやかな西斜面。曲輪ではないためだろう、樹木が伐採され公園的に整備されなかなか展望がよい。
小坂城(牛久市)

記念のシェー。これを撮った城は、たいてい気に入った城だということ。
小坂城(牛久市) 登城口でシェー

気に入った城でも人目が気になって撮れないことが、ままあるけれども。

まっすぐしか飛べないため、退かない象徴として武士から好まれたトンボ。
小坂城(牛久市)にて。 トンボ

しかし、中世において武士は合理的に、非常に合理的に行動した。勝てない戦ならさっさと撤退した。そうして、「次のいくさ」のために体制を立て直した。

撤退せずに玉砕するまで戦うのが武士の美学になっていくのは、天下が統一に向かい戦国が終息していく過程でのことである。


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