大仏もいいけど観音菩薩もね!牛久市 観音寺
訪問日:2016-08-31
夏休みの旅行先に茨城を選んだのは、もちろんメイン目的は
「一度は牛久大仏を生で見たっていいじゃないか」
なのだけど、やっぱりそっちは”ネタとして”であって、サブ目的は自分が本当に見たいもの。
すなわち城址や寺社や史跡なのである。
というわけで、小坂城を見たあと牛久大仏に向かう途中にある、観音寺へ寄り道した。
ついた瞬間、これは期待できる!というの雰囲気をビンビン感じた
この山門と本堂が、国重文なんだっけ……?と思いながら見たが、勘違いで県指定文化財だった。
全体にべたーっと朱で塗られていて、個人的には、あーんまり美しいとは言い難い山門だった。
文化財的には、美しさではなく古材をリサイクルして建てられた山門であるという点が重要らしい。
宝永年間(1704~1710)、本堂を大修復したときに出た古材を使って、この山門を建てたのだ。それ以前の本堂は大永五年(1525)建立なのだから、かなりの古さである。宝永だって古いのだが。
したがって、この仁王門の柱にはかつてのホゾ穴や貫の跡が見られる。肘木や組物も本堂(の古い部分)と同一なのだそうだ。
ああ、朱が塗ってなければ。魔を払う役目を担う山門だから、仕方ないのだけど。
しかし、仁王門の仁王像は県指定文化財にしとくにはもったいないほど迫力がある仁王像だった。
観音寺の名の通り、御本尊は十一面観音菩薩で、これまた茨城県指定文化財なのだが、非公開。残念ながら。
「見られないものを嘆いてどうする!今見られる像だけで満足するしかないだろおっ!!」
口をあけてる方が阿形《あぎょう》で、口を結んだほうが吽形《うんぎょう》。あわせて阿吽《あうん》……というのは聞いたことがあった。
観音寺の説明版によれば一説には口をあけてる阿形を「金剛」、口を閉じてる吽形を「力士」、合わせて『金剛力士』なのだとも言うそうだ。奥が深い。
先述の通り、大永五年(1525)建立、宝永年間(1704~1710)に大修復されたという。
そもそもの観音寺の縁起は聖武天皇の時代、8世紀半ばまで遡る、押しも押されぬ古寺である。
寺の記録によれば 1226 年に大破し修復したと伝わり、それが事実で鎌倉時代の部分が残っているとすれば、国宝も狙える貴重な寺だってんで、平成になっての修理の際、かなり綿密な調査が行われたらしい。
結局は、放射性炭素年代測定でも、装飾の様式から見ても、鎌倉時代の部分が残っているという証拠は見つからなかったようで、やはり現在に残る本堂は室町幕府末期、戦国時代まっただなかの大永五年(1525)建立で正しいようだ。
本堂は丹塗りされておらず、素材の味わいがそのままに現れてて、実に私の好み。最高。
牛久へ行って、どこが楽しかったかというと、そりゃあやっぱり牛久大仏なのだけど、どこが気に入ったかというと、圧倒的に観音寺だった。
そんなに離れてないので、時間があったらぜひ寄ってほしい。国重文は荷が重いかなと思うけど、県指定文化財はちょっと軽すぎる。関東指定文化財(そんなものはないけど)くらいの価値はある、素晴らしい古寺だった。
どのくらい気に入ったかというと、めったなことでは10円以上の賽銭を投げないケチな私が50円玉を投げたくらいだ。
こういう装飾を見て、うむ!〇×時代の様式で寺の格はどれくらいで……てのが即座にわかれば、もっと楽しいんだろうけど、さすがにね。お城も、寺社も……と、なんでもかんでもというわけにはいかない。人生は有限だ。哀しいことに。
私が子供のころは、まだ、”床下に簡単に入っていける民家”がけっこうあった。田舎だったからね。
かつての仁王門の礎石で、石灯篭などをリサイクルした石材らしい。
実にどうにも、ものを大切にするお寺だったようだ。
その精神は今でも生きていて、この参拝者用のあずまや、実はかつての鐘堂をリサイクルしたものだ。
言われてみると、現代の木造建築じゃないことがありありとわかる曲がり材の小屋組み。
たかがあずまやなのに、このありがたみ。
ほんの少し手作業で HDR 風味をうっすらレタッチしてみた本堂。
巨樹は、カヤ・イチョウ・スギなど数百年レベルのものがあるにはあったけど、特筆するほどでもなかったので、割愛。
いや、良い寺でした。金剛と力士の、キモい脇筋表現とか顔力《かおぢから》とか、見る価値のあるお寺だったと思います。