いろいろあるよ飯盛山
訪問日は 2018-08-20。
2018 年、夏。戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐるというテーマで旅行をし、旧滝沢本陣でひとときの休憩を堪能した私は、足早に白虎隊の自刃の地である飯盛山に向かったのでした。墓だとか碑だとかはわりと守備範囲外なので、実はそんなに見たかったわけじゃないけれども、戊辰戦争に関連する城と史跡をめぐる旅行で白虎隊自刃の地をスルーしたら、そりゃちょっとおかしいでゲスよおあにいさん、てなもんですから。
住宅街の細い道を歩いて飯盛山へ。こういう路地すき。すきすき。
鳥居が見えました。会津飯盛山厳島神社。どういう経歴で厳島神社を勧進したのかわかりませんが、興味があるわけでもなく。
戸ノ口洞窟(弁天洞窟)流出側
戸ノ口洞窟(弁天洞窟)流出口は、この神社のすぐ隣にあります。境内にあるという言い方でもいいでしょう。
流入側が素晴らしかったのは、当該エントリに書いた通り。
静謐な流入側と比べると、やはり観光地的であり
「あぁ……ふーん……なるほどねぇ……」
という煮え切らなさが。
真上から光が当たる時間帯だったので、洞窟が陰になってよく見えなかったせいもあるでしょうか。
こうした地元民しかしらない通路に隠れたということは、西軍に突破され、追い抜かれたという認識があったんですかね>白虎隊
流入側に比べてまるでつまらないというわけでもなく、轟々と流れる水路は良かったです。
会津さざえ堂
人混みは嫌いだし、やたら観光地化されたスポットも好みじゃないけど、別にメジャーな観光地を避けてるわけじゃないのです。
というわけで日本の栄螺堂建築の横綱。日本三大中世奇建築のひとつ。あとの二つは三仏寺投入堂と白川郷の合掌造り。三大の選者は私。文句あるかオラオラ。
見るんですよ。見らいでか。
>栄螺堂 > 会津さざえ堂 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%9E%BA%E5%A0%82#%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E3%81%95%E3%81%96%E3%81%88%E5%A0%82
二重らせん構造を持ち、入り口から出口まで一方通行で同じ通路を二度と通らず、最上階まで登り、降りられることで有名なお堂ですね。 栄螺堂は日本にいくつかありますが、ここまで徹底していて、個性的な栄螺堂は他にありません。
なんだこりゃ。検索して有名な歌人だとはわかったけど、でもやっぱり、なんだこりゃ。
だんだん近づくさざえ堂。長年、行ってみたい場所リストの上位にあったので、念願かなって感動もひとしお。
圧倒されるのは、やはり内観。放射状の垂木!六角形の梁!それを埋め尽くす千社札!
けっこう良い写真が撮れたつもりだったけど、PIXTA を見たら、どの写真もハイレベルでね。こういう薄暗くて三脚も立てられない建物だと、良いセンサーの高級カメラにまったく歯が立ちませんわ。ノイズと輪郭の明瞭さにおいて、もう、物理的にどうしようもないレベルの差がありました。
最初から最後まで一方通行と聞いていたが、これは管理者用のショートカットということになるのだろうか?
若干の狭苦しさが、深層心理の緊張を高め、この建物を過大評価させる。
がっつり怒られたんではないかと思うんですよ。学校名と学年まで書いたアホの子5人組。
特に信仰心があるわけではないので、最初のインパクトが過ぎたら、そこまで面白いというものではなかった気がします。が、やはり一度はこの目で見たい建物であり、私は見たのです。その満足は何にも代えられません。
白虎隊自刃の地
基本的にお墓は守備範囲外です。顕彰碑のたぐいも、わりとどうでもいいです。 が、飯盛山まで来て、ここを見ないわけにはいかない。白虎隊自刃の地。そして、お墓はともかく、白虎隊自刃の地には、少なからず興味がありました。
敗走する白虎隊は、なぜ飯盛山を目指したのか――答えはわかっていますが、自分の目で確認することが重要です。
というわけで、自刃の地へ。あ!空気が変わった!やべえ!聖域だ!ここ聖域!やべえ!
ニュースなどでは昨今、墓石に登るなどふざけた修学旅行生が少なからずいるらしいですが。 いいオッサンの私は、さすがにそういう場所じゃない空気を敏感に感じます。そっと手を合わせます。拝みます。
飯盛山で自刃したのは、白虎隊の一部の隊だけです。生き残った他の部隊もいれば、他の戦闘で絶命した白虎隊員もいます。
会津藩殉難列婦の碑。戦力にならない女性が籠城しても兵粮が早く減るだけだから、武家の女は自殺するのがご奉公……というマインドコントロールで自殺した会津藩の女性 230 人を弔う碑。
正直、会津戦争における会津藩のもっとも恥ずべき部分だと思うのですが、なんか美談扱いで隠す気ゼロだから、隠蔽されるよりははるかに良いと思いますね。
まぁ、自己犠牲の美化を恥ずかしいと思って隠したくなったとしたら、会津戦争すべてを隠蔽しなきゃならなくなりそうですし。
なにせ、主君のために死ぬことを美化しすぎたせいで、「命がけで戦う」を通り過ぎて「死ぬために戦う」までイッてしまったのが当時の会津藩士です。目標は「立派に戦って、死ぬ」。本質的には勝利が目標ではなく戦死が目標だったわけです>会津藩士
なぜ、白虎隊は飯盛山を目指したか。それは一刻も早くお城の状況を見たかったからです。おそらく当時から、ここが墓地で、樹木が伐採されており視界が開けていたのではないでしょうか。それを知っていたから、飯盛山を目指したのだろうと。
ここから若松城がどのくらい良く見えるか(あるいは見えないか)。城は約 2.7km 先です。
これは、だいたい新幹線から見る彦根城くらいの距離です。なに?新幹線には乗らないからわからない?じゃあ、東海道本線から見える岐阜城が約 3km 先です。つまり、あんましよくは見えません。
せっかく行っても望遠レンズを持たないあっしにァ、意味のない場所でごぜんやした。
調子の悪い P10 ユニット(光学7倍)は持っていかなかったんですよ。もう 2018 年当時、コンデジで光学 30 倍だの 50 倍だのざらにあって、いまどき3倍も7倍もたいして違わんよ、と思って。荷物を軽くしたかったですし。
通説では、ここからの肉眼じゃ、城の様子はあんまりよくわからない。しかし西軍はすでに城下に侵入してて、火の手が上がっていた。 運悪く、その煙で天守が隠れており、城そのものから黒煙が上がっているように見えたらしい。かわいそうに、経験の浅い年少者ばかりで構成された白虎隊中二番隊のうち生き延びて飯盛山に到達した何名かは、燃え上がる城下を城が落ちたと誤認して、喉を突いて自刃したのだと言われます。
あるいは誤認ではないが、負けを悟り、敵につかまり生き恥をさらすよりはと自刃を決行したのだと。
いずれにせよ、「死ぬために戦う」が根底にあったから起きた悲劇でした。
見たかったものを見て、やっぱ光学3倍じゃどうしようもねェなとぐぬぬして下山。動くスロープ(有料)などが見える。
有料スロープに土産物屋をひしめかせ、幟を立て、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、ここがかの有名な白虎隊自刃の地!さあさあさあさあ!……とやっといて、お墓の前では神妙にしろ!と言ったって、そりゃ修学旅行生も切り替えが難しいだろうと思うのですよ。まだ子供なんだから。遺族の気持ちはわかるけど。
涙をのんで、白虎隊資料館には寄らず。行きたいところが山ほどあると、どうしても博物館系はスルーになってしまいます。
せっかくなのでと、桃を買いました。おいしかった!これでこそ夏旅行!