藤堂高虎の出世の足掛かりになった城 但馬国 大屋谷 加保の田和城へ行った。
訪問日は 2017-08-11。
世に知られていない名城は、まだまだあるもんだ。
知られていない、というのは程度の話だ。行ってる人は行ってるし、私はその、行った人のブログなどを参考に訪問してるのだから。しかし、客観的に言って、2017 時点ではマイナーな城と言っていいと思う。
なにせ、山頂まで登山道こそ整備されているものの、説明板などは一切ない。文献資料に乏しい。 この城を田和城と呼んで間違いなさそうだ、となったのも近年のことらしい。
私がこの城について調べだした4年くらい前は、便宜上、城山城と呼ばれたりしていた。
どういう城かというと、養父市のウェブサイトに詳しい。
>まちの文化財(144) 田和城と藤堂高虎/養父市
http://www.city.yabu.hyogo.jp/10341.htm
え~。4年前の「まちの文化財」は 50 番くらいまでしかなかったのに、いつのまに……と愚痴ってもしかたがない。 いつからこのページがあるかインターネットアーカイブで検索したら、まだアーカイブされてないくらい新しいのだから。
話を田和城に戻そう。つまり、羽柴秀長は織田ではなく毛利方についた小代(兵庫県美方郡香美町小代)を制圧したい。
建前上は、小代の一揆を鎮圧するとなってるが、一揆という表現は勝った織田視点の記述であって、小代住民にしてみりゃ侵略者に対し当然の反抗をしてるだけで一揆ではない。行政に対するテロを伴うストライキという意味での、一揆ではないのだ。歴史は勝者の都合で記録される。
(追記 2017/9/23)織田軍が生野・竹田・八木あたり制圧した後、そのあたりを根城とした太田垣氏の残党が逃げ込んだのが小代谷だったらしい。本領を失った彼らは、当然に小代周辺の集落で強盗を繰り返した。太田垣の残党にとっては侵略者から但馬を取り戻す正義の戦いでも、小代やその周辺の(極端に言えば平和に暮らしていけるなら領主なんて誰でもいい)住人から見たら、間違いなく太田垣残党は困ったテロリストであり、一揆の徒だった。
秀長配下の藤堂高虎は小代制圧の出撃基地としてこの加保村(兵庫県養父市大屋)に駐留した。このとき八木谷・大屋谷の土豪は織田方についていた。加保村の土豪・栃尾祐善も織田方についた一人である。
小代谷へ攻めた藤堂軍は最初は優勢だったが、猛反撃にあい、加保村まで逃走した。
逆に小代方の武将、小代大膳はこの機を逃すまいと、逆に大屋谷に攻め込んできた。ここで藤堂高虎軍は加保城・田和城・栃尾城(栃尾氏館)に立てこもり、戦い、逆転し、ついには下蔵垣という地で逃げる小代勢を残らず虐殺したのだという。
この勝利は藤堂高虎が大大名へ出世する、糸口になった。ついでに藤堂高虎は栃尾祐善の紹介で嫁もめとり、数年をこの大屋谷で暮らしたらしい。
おそらく藤堂高虎が指揮したのは加保城の方で、田和城の方は別部隊が籠ったものと思われる。戦後、田和城を与えられた居相孫作が指揮していたのではないか。
実際、田和城は城と言うよりは砦、出城の規模の小さな丘陵なのだ。藤堂軍の主力部隊が籠れるほどの敷地はない。
大屋川の湾曲部分にある比高 34 m の小さな丘陵だ。(出典:国土地理院)
6畳間~12畳間くらいの平坦地が4つほどあり、さらにもっと小さな曲輪がちょぼちょぼと連なる連格式の小さな土の城でしかない。しかし、大屋川が天然の濠としてぐるりと囲んでおり、ここより東の栃尾氏の居館を守るのに、これほど適した場所はない。
田和城は藤堂高虎から居相孫作に与えられ、さらに栃尾祐善に与えられたというが、築城者が誰かという情報は見つけることができなかった。思うに、もともと栃尾祐善の砦で、藤堂高虎に献上され、藤堂高虎が大屋谷を去る際に元の持ち主に返されたということではないか。
そんな小さな城であるから、特に期待せずに訪問したのだけど、登ってみたら驚くほどに素晴らしかった。個人的には名城・名砦と呼びたいほどに。
私は自分で縄張り図を書いたりしない。測量なんてしないんだし、それは学者の仕事だと思うので。しかし、この城に関しては必要だと思って、おもわずメモを取り始めた。
現地に説明板や縄張り図がなかったので、自分で書かねば後日、わからなくなると思ったからだ。
実際には、平成19年度から21年度にかけて調査が行われ、縄張図も完成しているらしい。
城名が田和城だと確定したのも、縄張り図ができたのも、近年のことなら、説明板などはこれから整備されていくのだろう。
整備された暁には、田和城は名砦跡として、これから有名になると思う。決して凝った城郭ではないけれど、単純な中に強さの光る、そんな城だから。
なにより、藤堂高虎ゆかりの城は、それだけで城クラスタをひきよせるから。
簡素な図であるが、作図には地理院地図3Dを利用した。
国土地理院
自分のメモをベースにしたので、養父市の作成した縄張図と細かい差異がある。が、主要な部分は、まずまずおおむね一致しており、自分のメモもなかなかだった。養父市の作成した縄張図は次のブログで見ることができる。
>田和城 旧養父郡大屋町|山城攻略日記
https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12174557192.html
また、書籍化されているので入手も可能だし、国会図書館に収蔵されてもいる。
まちの文化財(68) 図説養父市城郭事典/養父市
http://www.city.yabu.hyogo.jp/3546.htm
図説養父市城郭事典の存在を知ったのは、出発の3日前だった。無念。
登城
田和城という名前が確定したのも最近のことらしく、登城口には「城山」としか書かれていない。あと、なんだ、この表情。
虎口らしきものはない。急斜面ゆえにもともとなかったのか、開発で失われたのか、わからない。
登城口から南に 20m ばかし行った地点から見た、城の防衛線である大屋川。
堰堤より上流では水面は穏やかだが、当然にそんなものは当時はない。浅瀬を歩いて近づけそうに思うものの、あれよ。腰まで浸かったら、もうまっすぐ歩けない。押し流される。今回、暑さのあまりここで泳いでみてよくわかった(泳いだんかい)
登り始めて小さな曲輪をいくつか過ぎると、最初の、そこそこ大きな曲輪に出る。図1のDだ。
あまり平坦じゃないな、と思ったが正面の盛り上がった部分は図説養父市城郭事典では土塁だとされている。 土塁だと思わなかった。不明を恥じるばかりなり。
思うに、土塁が曲輪の西側にしかないのを見ると、図1のDとCをつなぐ木橋があり、橋を水平にするためにDに盛り土が必要だったということじゃなかろうか。
ここまでは、
「おー、ちゃんと曲輪曲輪してるじゃん。言ったら失礼だけど、まずまず城じゃん。りっぱりっぱ」
程度にしか思っていなかった。
評価が劇的に高まったのは、次の、この城の曲輪以外では唯一とも言える防城設備遺構である堀切を見てから。
これがその堀切。南側はそのまま竪堀につながっている。北側は竪堀なのか本来の地形ママか判断つかず。
高さは 2m ~ 3m くらいか。落ち葉などで埋まる前、400年前の当時は、もうすこし深かっただろう。
堀底には水平な部分が、ほぼ、無い。ここに蹴落とされたら左右の竪堀が滑り台と化し、下まで一直線だ。
この堀切 – 竪堀 – 大屋川の連携には感動せずにいられなかった。苦労して登っても、蹴落とされたらゴロゴロドボン、下流へドンブラコなのだから。実にオートマチック。ピタゴラスイッチかな?てなもんだ。
パノラマにするつもりで撮ったわけじゃなかったけど、つながりそうだったのでやってみたらつながった。
大屋川に落ちて、右岸に流れついたら、そこは栃尾氏の軍勢が待ち構えてて、ハイ、ソレマデヨ。運よく左岸にとどりつけば、おめでとう!スタート地点からやり直し!もう一回遊べるドン!である。
仮に堀切の北側に転げ落ちても、栃尾氏の軍勢が待ち構えてるのは同じだ。田んぼの水路にでも落下して身動き取れないところを仕留められるオチだろう。
このきわめて優秀な殺戮トラップにうちふるえ、思わずメモをとり、こうして 2017 年夏旅行のトップバッターとして記事を起こすことに決めたのだ。
これから有名になると書いたが、実を言うと、この城は有名にならねばならないと思っての表現だ。
堀切の先に図1のCがあり、さらにその先に、この丘陵の最高地点、主郭がある。
文献的に主郭と決まったわけじゃないけど、いちばん高い場所のいちばん広い曲輪なので、主郭ってことでいいだろう。
主郭の南側斜面なんて上から見ると絶壁どころかオーバーハングにすら見えた。
図1のB。主郭の西の、舌状段丘の先っぽだとわかりやすい曲輪。
この曲輪か主郭のどちらかに物見のための建物があったのではないかな。
さらに先、斜面の下に小さな平坦部が見えたけど、藪を漕ぐ時間も体力も想定していなかったのでスルーした。
図1のCとBをつなぐ通路。私は帯曲輪と思ったけど、図説養父市城郭事典は曲輪ではなく通路としたようだ。
この辺で撤退。大屋谷にいろいろ見て回りたい場所が点在してて、それを可能な限り回ろうとしたため、ひとつひとつがおろそかになった。
デジカメの設定も、車窓写真用にフォーカスを無限遠に設定し、解像度を3Mに落としていたのを忘れ、そのまま撮ってしまっていた。写真がガラケーみたいな画質なのはそういうことだ(私の腕がヘボなせいもある)
加保城、行きたかったよう(夕立のため断念した)
なお、田和城ではヤマトゴキブリを見た。山に住む、木の洞や落ち葉の下で生活する、ノソノソとしか歩けないというゴキブリらしからぬスピードのために、まったく怖くない、むしろ愛嬌のあるゴキブリだ。
山城へ行くと、ちょいちょい目にするニクイやつなのだけど、ゴキブリNGな人は気をつけたほうがいいかもね。
対岸から
さて、下山しても、まだ終わりではない。
川が防衛線になっている城は、川の向こうから撮らねばならない。基本なのだけど、面倒な基本であり、実を言うと今まで何度か省いていた。
当然に、後悔することになる。お若いの、ジジイの遺言じゃと思って、聞きなされ。
しかし、自分で痛い目に遭わないかぎり、アドバイスなど役には立たないのだろうという確信はある。誰だって面倒なことは避けるものだ。それが人間だラララ。
ちなみに対岸は『あゆ公園』という水遊びやバーベQのできるレジャースポットになっている。
>あゆ公園【兵庫-ファミリー-川遊び】
http://ayupark.com/
すぐ食べられるアユの塩焼きがあれば……と思ったけど、自分で焼くシステムのアユしかなく、レストランは閉店時刻を過ぎていたのであきらめた。
あまりに暑く、水遊びに興じる人々を見て我慢できなくなったので、水着に着替え、泳いでしまった。わずかに一分程度の水浴だった。
ウン十年ぶりの川泳ぎだったけど、川の湾曲してる部分の外側は深くて流れが速いということを、身にしみて実感した。 あれは、鎧なんか着てたら本気でやばい。
近世城の濠、それも現代に入ってからの近世城の濠の多くは雨水が溜まるだけの流れの無い濠だから、簡単に渡れそうに誤解してしまう。でも、河川とつながっていたころの濠は、いわゆる水路だ。雨がふったあとの農業用水路のように、ああこれ落ちたら死ぬわ的な流れがお城のお濠にもあったはずなのだ。濠は簡単には泳いで渡れない。思い知らされた。
なんでも、やってみるもんだ。
ちなみに、あゆ公園には加保が藤堂高虎ゆかりの地であることを示す碑がある(対岸へ渡ったのは、それを見るためでもあった)。
まちの文化財(18) 加保村の藤堂高虎/養父市
http://www.city.yabu.hyogo.jp/3489.htm
↑のページでは杉の丸太が立っていると書いてあるが、2017 現在は石柱に変わっていた。野ざらしの杉の丸太が数年でどうなったか、想像に難くない。
そもそも、直線距離でさえ 18km も離れてる、兵庫県最高峰地域の山と谷がひしめきあう地域なのだ。 比高 200m を越える登山なんて一日に一回でも十分なのに、山を越え谷を越えを4回も5回も繰り返して戦争しに行かなくても……と思ってしまう。
誰か、どっかで、
「やめようしんどい」
って言わなかったのか。
と、地球を半周して戦争に行くことが絶えなかった 20 世紀生まれが言っても、説得力ないか。
人間って、戦争って、欲望って、ラララ。