安芸のみならず山陽・山陰を代表する名城 安芸広島城を見てきた。
訪問日は 2018-01-01。
俗に、日本三名城なる格付けがある。その選出基準は様々である。美しさか大きさか戦闘能力か。
モノサシは様々であろうが、城郭研究者にとっての基準は
「学術的な価値」
であろう。
ということはつまり、規模や城主が誰だったかも大きな要素であるが、もっとも決定的な要因は、正確な建築年が特定できて、かつ古ければ古いほど貴重ということだ。なぜなら、この世界の掟では、古いものほど失われやすいからである。
というわけで、多くの城郭が空襲で焼失する直前、1945 年時点での現存天守の中で、研究者目線でもっとも重要な城は広島城か岡山城であり、おそらく広島城天守の方がちょっとだけ古い。なので、広島城こそが1944 時点における現存最重要天守だったと言える(はず)なのだ。
丸岡城、犬山城、松本城の天守は、もっと古い可能性があるものの、
「広島城天守より創建年が古い可能性は高いが、確実な証拠(史料)がない」
ため、そういう意味では、やや劣る。
というほどの名城であるが、なかなか訪問する機会がなく、ようやく 2018 年になって初日の出を岩国城で拝んだついでに、ようやく広島城も見に行ったのである。
いや、ついでと言うと語弊があるか。私はいま、城についての個人的な趣味の研究をひとつ抱えており、広島城はそのサンプルに最適な城のひとつだったのだから。研究内容については、まだ研究途中で発表できる段階にないので言及はしないが、つまりはそんなこんなで、岩国城 – 広島城のコンボセットを 2018 年の元日の予定としたのであった。
到着。元日らしく、城址公園にある広島護国神社に向かう初詣客の列。
この神社が護国神社という名前に変わったのは昭和 14 年だそうだ。つまり、客観的に見て護国できてないじゃないか、なのであるが、それでも贔屓の客は途絶えもせず、ほんと宗教ってのは良い商売だな、と思う。
歩兵第十一連帯跡。明治以降、日本各地の城址は軍隊の基地になったケースが多く広島もそのひとつ(だから狙われたとも言える)。
太鼓櫓(復元)。平成の復元なので、木造だし(おそらく)それなりにまっとうな復元だろう。広島城は古写真など史料も豊富だ。
高さが無くて水平方向に広い、パノラマ映えするお城であることよ。
人が多くていいことだ。城なんて、ふつうは国宝の城でさえ閑散としているものだ。
表御門。復元。城内の建築は石垣以外すべて原爆で吹っ飛んでしまった。
爆心地から天守まで 950m 。爆撃機から、天守はさぞや良い目印に見えたことだろう。
音速とは 340.29 m/sである。つまり一秒間に 340m くらいしか進まない。
するとどうなるかってーと、爆心地から 340m 以上離れた人間からすれば、爆弾が「ピカッ」と光ってから1秒~数秒してから「ドンッ」と音と衝撃波がやってきたわけだ。
なるほど。いままで深く考えたことなどなかったが、理屈は合ってる。なんでも考えてみるものだ。 ついでに、アメコミの爆発の擬音が「ka-boooom!!!」なのも合点がいったよ。あれも、光と音の複合型の、擬態擬音語だったわけだ。なるほどね。
塀と鉄砲狭間。古写真通りの再現であろう。とすると、少なくとも幕末時点には矢狭間はなかったのか。
三角と四角の狭間が交互に並ぶのは、単なる美的な理由なのか、三角派と四角派の宗教戦争の結果の折衷案なのか。はたして。
が、どのように全国的に特異なのかの説明が無かった。
おそらくは、二の丸としては小さすぎる、二の丸なのに出丸である、ということだろうか。そして、出丸にしては大きいのだ。
現在では三の丸は開発されておるので意識しにくいが、当時はこの二の丸より巨大な三の丸が輪郭状にぐるりと巻いていたのである。とすると、大きさが変というだけでなく、三の丸の内側に出丸?それあんまり意味なくない?という疑問も出てくる。なるほど謎であり、特異である。
この辺の設計思想は、当事者が何か記録を残してない限り、なかなか解明は難しいだろう。少なくとも、証拠がない限り自分の信じたい答えを信じる信仰合戦にしかならんのではないか。
被曝石垣石。なんでもかんでも被曝をつけて記念にしなくてもよい。
被曝ユーカリ。ある意味、私は今回の訪問でもっとも強烈な印象を抱いたのはこれかもしれない。妖怪のようである。
被曝して生き残ってるユーカリはこの木だけです、と書いてあったが、当時、ユーカリが何本もあったということだろうか?コアラでも飼ってたのか?(ないない)
が、透明度が低くもともとあった犬走なのか、広島大本営時代の補強なのか、実際にもともと犬走があったが、それを大本営時代に補強したのか、外観からわからんちん。調べれば判明するかもしれんが、調べるほどのことでもないかな。
河口の中州の城である。水はけの悪さは折り紙付きで、排水にかける工夫の数々は他の城よりも多い。
そもそも水害で城が壊れたのが、福島正則の失脚の原因だった。歴代藩主も、苦労させられたことだろう。
広島城の選地
簡単に言えば、戦国が終焉し群雄割拠が終わると、肥大化した武士団の拠点として山城は不便であり、平地の丘城や平城へと移行していったという、通り一辺倒の説明にほかならない。すなわち、初期の近世城郭の代表選手みたいな城である。
>広島城(広島県広島市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/32/
なぜ広島に築城するのかについて、毛利輝元は陰徳太平記の中で次のように述べている。
国君の居所は萬人の都会所也。さるに今の吉田は其地偏狭にして。備芸両州などを領じたる将の爲は相応也。八州の太守居可地に非。山中にして海路を隔たれは。敵の推来を防拒せんに便り悪く。又他国へ軍を出すにも不自在也。
(現代語訳)国王の居場所はさー、都会じゃなきゃいかんのよ。今の居城の吉田郡山城は、せっまいじゃん。いやいや、岡山と広島の二ヶ国くらいの支配だったら、吉田郡山城も悪くないよ?でも雲・伯・石・隠・防・長・芸・備後の八州を治める太守の居場所としてふさわしい場所じゃないじゃん、吉田郡山城は。山奥だしさ。海路から離れてるから情報戦でも出遅れて防衛上、問題あるわけよ。逆に、攻めに出るときも山奥だと不自由するっしょ。
この陰徳太平記、江戸中期に成立した本であり、どの程度信頼していいのやらという面がなきにしもあらず。
しかし、近年の研究で広島城では、それまでの毛利氏が独自に発達させた石垣術を封印し、畿内の石垣の積み方となっているのが判明している。
すなわち、秀吉政権からの技術供与があったことは明白である。陰徳太平記では上記の談話のあと、黒田官兵衛にお墨付きをもらって、指導を仰ぎながら築城しているので、少なくとも広島城の選地に関するくだりとしては信頼して良さそうだ。
ちなみに昔の城郭本では、広島城を豊臣政権に対抗するための城と解説していることが多かった。前述の通り、豊臣と毛利はこの時期、敵対関係になかったため、これは誤りだ。
広島城は、朝鮮半島や大陸進出の中継基地を期待されて豊臣氏の技術協力のもと築かれたと見るべきだろう。
ともあれ、広島城ができたから広島が都会になったのではなく、広島がすでに都会だったから広島城を築いたのだと、江戸中期の伝承をそのまま信じれば、そういうことになる。この点は留意しておきたい。
広島城は聚楽第を参考にしたと言われている。天守外観は、当時の秀吉の城の系譜に近いと考えられる。
瓦だの石垣だの剥落・崩落の危険があるらしく、ところどころ立ち入り禁止。
ただし一段低く埋められてる礎石は、現在も天守台に残っている石を示しているそうだ。
いつものようにシェーをしてないのは、前日に左足をくじいていたから。
赤塚先生は、シェーは左右逆でもOKと述べられていたらしい。知らなかった……
復元天守内部はやや残念
他の天守と同様、博物館として利用されている。外観復元、内部は鉄筋コンクリなのは、さして問題視しない。本格木造でも復元は復元だ。維持費もかかる。ならば再建天守は内部コンクリで、予算を他に回すのもひとつの考え方であろう。
が。
なんで、非現存天守の博物館ほど展示品の一部を撮影不可にして出し惜しみしちゃうんだろうなあああああっ
広島城は、撮影可の展示品も多く、そこまでケチくさい感じではなかったけど、そうはいっても、やっぱり、
「天守が現存じゃないのに、せめて展示品くらい入場料分、楽しませてよ」
と感じたのは事実。
水越えの策。敵が近づいてきたらわざと堤防を決壊させて敵を水没させる策だと。ダイナマイトのない時代に、そんな作戦が机上の計算通りいくとは思えない。
車いす。ここまで、天守以外の城域のどこも、バリアフリー化は見られなかった。天守自体、エレベータが無かった。でも車いすは用意している。
安全はわかるが、もうちょっとなんとかならなかったのだろうか。嗚呼。
せっかくの古写真にもとづいた外観復元も、これでは台無しなのである。
しかし、おおむね「さびれた地方のバスセンター待合所」みたいな天守最上階なのであった。
広島ぜんぶをねちっこく回れはしないけど
時間の都合で、市内に残る城郭関連遺構のすべてを回るのは無理だったけど、さりとて天守を見てすぐに駅に帰るわけでもない。
広島大本営の写真を撮っていたら、にこやかな初老の男性に声をかけられた。
「こういうの、お好きなんですか?」
「いえ、べつに興味はないです」
と冷たく突き放す私。
「だが、いろいろ持ってらっしゃる」
と、私が小脇に挟んだ紙の地図やチェックリストを指さし、食い下がる男性。
「もうしわけありませんが急いでますので失礼します」
と、とりつくしまもない態度で答え、足早に去った。
旅先で話しかけられても笑顔で応対するのが私の基本なのだけど、 こちらが歴史好きであると認識して寄ってくる人には冷淡に対応すると誓ったのだ。
もし、その人が真の歴史好きでフィールドワークするガチ勢なら、地図とチェックリストとスケジュール表を持って撮影旅行している人間がどんなタイムテーブルで動いているか、察することができて、邪魔なんかできないはずなのだ。
だから、話しかけてくる時点で彼はこちらの時間に気配りできないヌル勢であり、彼から本で得られる以上の有用な話が聞けることはない。しかも出てくるのはたいがい巷説本のネタ。
一度、応対して、ただの話好きな寂しい男性でこっちの都合などおかまいなしなんだと思い知らされて以来、罪悪感を抱きつつも冷酷に対話を断つことにしている。
向いのマンションから見るのもよさそうに思えたが、問題があった。住人じゃないのでマンションに入れないのだ。
さてさて。まだ見たいものがあったので、ずんどこ北上。
これは北の郭の石垣を移築したもの。ちがう、これが見たかったんじゃない。
広島城の築城当時、太田川放水路は存在していないので、広島の巨大な三角州の最初の分岐はここから始まっていたと言っていいんじゃなかろうか。なかろうかというのは、詳しいことは知らんので間違ってる可能性があるからだが。
広島。広い島。ここで言う島は勢力地という意味でのシマか、物理的な水域に囲まれた島か。両方が含まれていようが、三角州である以上、後者の意味が強いか。
しからば、こここそが広島発祥の地(物理的に)なわけである。
だからなんだというわけではないが、まあ、見たかったのだからしゃーない。
京橋川。Google Map 平面地図上だと猿猴川となっていたので悩んだ。ストビューの看板で京橋川だと確定。
中州が二本見える。奥の中州は水流を弱めるための分流堤で、一本木鼻の水制という史跡だそうだ。よく見ると石垣も残ると言う。
これらは旅行後に検索して知った知識なので、よく見てない石垣見てない、のであった。
これで、見ようと思っていたものは見た。半日ではすべてを見られない。これで十分だ。
バスセンターマスコット。シカノスケ。尼子派を起用する毛利の度量の深さ。
三の丸。城址公園として残っていれば、輪郭式縄張りの輪郭な部分が楽しめただろうが、今では美術館などになっている。
いまとなっては、その姿から山陽・山陰の八州を代表する名城らしさを見出すのは難しい。が、研究したり城下を回ることで味わいが深くなる、スルメ系城址なのだろうな、という気はした。