防人の拠点 遠の都
訪問日は 2017-12-31。
筑前国大野城を見た流れで、この日の締めくくりとして訪問。水城→筑前大野城→大宰府政庁跡、という白村江でボロ負けぶっこいた天智政権が慌てて用意した防衛ラインのセットを見て回ったことになる。
いちおう天満宮も行ったけど、こちらはついでであり、如水の井と飛梅を見たくらいで軽く流した。メインは上の三点セットだったのだ。それとて、電チャリがレンタルできなかったので、かなり端折ったのだが。
さて。
この筑後平野を死守するために、天智政権は全力(といっても、動員できる人材や物資の相当を白村江で失っていた)を投入したのだ。
つまり、この時代は博多ではなく筑紫平野の上流域というか、やや盆地のように見えなくもない、筑後平野こそが九州の大都会であった。
奈良の大和政権からも、「遠の都《とおのみやこ》」と尊称され、事実上「我が国の No.2 都市」の扱いだった。
逆に言えば、ここを占領されたり、あるいは九州民が裏切って九州独立国家を作り、新羅に味方されたら、大和政権としてはたまったものではなかったのだ。
したがって、大和政権は水城を作った。筑前大野城を作った。すべては遠の都を守るためであった。
そして、その、水城と大野城に守られた筑後平野の三角形の北の頂点あたり、大野山のふもとに、政庁かつ防人たちの拠点、指揮機関、その他もろもろひっくるめた「大宰府」を据えたのである。
いわば、多賀城みたいなもんだ。大宰府が城と呼ばれていないのは、なぜだろうか。私は単に当時はまだ城と言えば万里の長城のような防塁壁を指し、都城を意味する使い方が普及していなかったからではないかとおもう。
機能的には、後世の城とまったく変わらない。
さて。岩屋城から、高橋紹運墓への道をずんどこ降りたら、大宰府跡である。
えーと、どこだろ……あ、目の前のこれがそうか!みたいな。最初、普通の公園と認識してた。
城址とちがって、建造物を復元しようとしないのがいいね。復元しようにも史料に乏しいってことはあるだろうけど。
正直、全国にある国府跡、国分寺跡のでっかいやつ、みたいなもんで、学者でもない私にとってロマン以外は特にないのであった。
九州国立博物館
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筑前国分寺
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水城跡
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_人人人人人人_
> 公衆便所 <
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うむ。切羽詰まった人間には、国の特別史跡よりも重要な案内であるからな。
つまりは、城なのだ。濠、柵、塀があり、防人が駐屯し、防人を指揮し、敵の来襲に備えた、定義的にまごうことなき城なのだ。
いま、大宰府政庁跡が城として扱われないのは、その後の平和な時代になってから、軍事拠点としての機能が失われた時代が長かったからではないか。
ほんと、帰農した元武士の屋敷に1mほどの濠と土塁が残ってるだけで、ここは武士城館なり!とか言うくらいなら、大宰府のように確実な史料で防衛のための設備だとわかってるものこそ、城として研究するべきなのだ。
と、言いつつ、私ものんべんだらりと眺めただけで終わったのだが。
昭和 40 年ころまで水田だったと書いた。これほどの広さの土地だ。住民や地主は宅地や商業地としての活用を望んだという。そりゃそうだろう。観光誘致としては天満宮があるし。
いま、こうして大宰府政庁を訪れてウムムできるるのは、当時の文化庁の粘り強い交渉と、歴史遺産に理解のあった地主や住民の意識の高さの賜物だ。ありがたく見学せねばならない。
あー、こりゃ、自分が住民でも、ここにコンビニでもありゃなあ……と思うわ
まこと、過去のものを残していくことは難しい。