城クラスタが多く訪れる古民家 一之江名主屋敷(江戸川区)
訪問日:2016-05-21
タイトルで、すべての城クラスタと江戸川区民を敵に回した(大げさ)。
一之江名主屋敷は、この地を開墾し、代々名主を務めた田島家の屋敷だ。
田島家の祖は豊臣家の家臣であった堀田図書と伝わる。屋敷跡地には土塁と濠の遺構が残っている。したがって中世城館の様式の屋敷跡として訪問する城クラスタは多い。
土塁も濠も残っているということは、つまり、移築ではなく屋敷や門も含めて、位置関係まで当時のままで残っているということだ。都指定文化財ではなく、都史跡なのも、そうした理由によるものだろう。
>史跡 一之江名主屋敷 江戸川区公式ホームページ
https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e_bunkazai/nanushi-yashiki/index.html
私は城も好きだし古民家も好きなので、両方の面で期待して訪問した。訪問したのは 2016-05-21。いま、記事を書いている時点から見て4ヶ月前だ。
この4ヶ月間、わたしもまた、中世城館だと思っていたのだけど、記事を立てるためにあらためて考え直して、表題のような考えに至った。
が、その件はひとまず置いといて、豪農の古民家として、見ていこう。
着いた。江戸川区や大田区まで自転車で行くと、23区はあんがい広いな、と思う。
母屋。出し惜しみする理由もないのでとっとと貼ろう。立派なもんだ。
歴史系か、建築系か。建築の方かな。よいよい。がんばって勉強したまえ。
……が、カメラを構えても一向にどこうともしないので、すぐに「●ね、クソガキ」と心の中で罵った。
こういうところにまで畳が敷いてあるのは、さすがに名主(庄屋)の屋敷。
だが、かろうじて六ツ間どりの「農家の様式」は原形をとどめていた。
代官屋敷や豪商に変貌した屋敷ではなかった。
古民家探訪なんて、こういう写真を貼ればええんやろ、と思っている。
予算の都合もあるだろうが、修理にネジを使うのはやめてほしい。
さすがに、和釘しか認めん!とまでは言わないけど、江戸時代に一般的ではない手法で修理しないでほしい。最低限、見えないようにはしてほしい。
隅田川沿いの低湿地のにある古民家にはよく見られる、非常時用の舟。
この舟を見上げては、子供が
「はやく洪水にならないかなー」
と言って、怒られたことだろう。
いまでももちろん海に近いが、堀田図書がこの地に落ちのびて、田島と姓を変えて帰農したころは、まだ江戸湾もそれほど埋め立てられておらず、海は目と鼻の先だったことだろう。
逆に言えば、敗れた側である堀田図書が生きて行くには、そういう場所を開墾するしかなかったわけだ。このことは大事なことなので、心に留めておいてほしい。
屋敷畑は麦秋を迎えていた。当時も作物は麦中心だったのだろうか?
6月オープンと書いていたから、もう開いているはずだ。え?もう一度、行かなきゃあかんの?
育ちすぎたソテツ?ノジュロ?が倒れて建物を壊さないか、ちょっと心配。
というわけで、土塁があり、濠があり、わたしもこのときは特に疑うこともなく、中世武士居館だと思って、史跡を後にしたのでした。
城として見たら防御機構が物足りないし、農家としてみたら素朴さが足りないし、じゃっかんパンチに欠けるとは思いました。でもまあ、屋敷畑・屋敷森もあり、入場料分(100 円)は楽しめたかなー、くらいの気持ちで
しかし、本当に、武士居館なのだろうか?
冒頭の疑問に戻ろう。
そんな疑問を抱いたのも、この地を切り開いた田島図書(堀田図書)の経歴を知ったからだ。
(なお、大坂の役ではじめて会った従兄弟(東軍)の手にかかって死んだ、堀田図書助という武士もいるらしいが、どうやら別人らしく、ややこしい)
先祖が武士だ。土塁がある。濠がある。ならば、武士居館だろう……。うん、わかる。
私も含めて城クラスタは土塁と濠があれば、
「すわ、ここはもしかして城址ッ!?」
と思ってしまいがちだ。
しかし。しかしだ。しかしのかかし。
武士とはいえ、堀田図書は豊臣方の、それもそこそこ名のあるらしい武将なのだ。
>江東4区ゆかりの人物(25) 田島図書 | 東都よみうり
http://t-yomiuri.co.jp/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%EF%BC%94%E5%8C%BA%E3%82%86%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A925%E3%80%80%E7%94%B0%E5%B3%B6%E5%9B%B3%E6%9B%B8/
大坂の役が集結したことで、こんどこそ世に平和が訪れたと庶民が喜び、元和偃武と呼ばれた時代なのだ。武を偃《ふ》せると書いて偃武だ。
そんな時代に、帰農した元・豊臣家臣が武家様式の、つまり戦うことを意識した建物を江戸城から10里も離れてない場所に作ったら、どうなるか。
大名達がこぞって、天守を壊したり低くしたり、山城を廃城にしたり、とにもかくにも、江戸幕府に対して自分は戦う意思がありませんと言っていた時代だ。
田島図書の子孫らが、うちの先祖は武士なんやでえ、ってことで江戸後期になって、建物を武家の屋敷のように立派にしていった…ということはあるかもしれない。
だが、初代の田島図書が帰農するにあたり、この土地を開墾するにあたって、わざわざ武士の居館としての防衛設備を築いたとは、私にはとうてい思えないのだ。
でも、現に、土塁と濠があるじゃないかって?
防衛設備としてじゃなくても、堤防として人は土塁を築くし、土塁を築くために土を掘れば、そこが堀(濠)になるのだ。
思い出してほしい。屋根裏に備えられていた舟を。
江戸川の河口に位置するこの地は、普通に開墾しては水害にやられてしまったことだろう。
だからこそ、田島が住み着くまで開墾されずに残されていたわけだ。そしてまた、田島はこの地を開墾する技術を持っていたから、ここに住み着いたのだ。
そう、豊臣の家臣だった田島は、おそらくは濃尾の出身で、氾濫する川から土地を守る術を知っていた。
教科書に出てくる、濃尾の特徴的な堤防施設、輪中 – Wikipediaである。
また、本質的には三河民である江戸幕府も、それが武士居館なんかではなく輪中だとわかっていたから、田島の作った土塁と濠を問題視しなかったのではないか。
実際のところ、一之江名主屋敷には枡形もなければ食い違い虎口もない。江戸時代に作られた武士居館にしてはシンプルすぎるように思える。
そして、単に残ってないだけかもしれないけれど、薬医門がない。私の経験では代官屋敷や陣屋の正門は、やっぱり薬医門が多いように思う。武家屋敷にも長屋門はあるのだけど(というか、もともと長屋門は武家屋敷から発展したものらしいけど)、正門を長屋門にしちゃうのは、やっぱり豪農の家に多かった気がする。もっとも此れは、単なる印象だから間違っているかもしれないけれど。
最後にとどめを。
これはウィキペディアで輪中の項を呼んでて知ったのだけど、輪中内に作られる土を盛り上げて作った水田とクリーク(水路)を堀田《ほりた》と呼ぶそうだ。
田島図書。帰農して改名する前は、堀田図書と呼ばれた。
――と、まあ、妄想をつらつら垂れ流して満足したところで筆を置きます。
門が西側にあるところを見ると、江戸城の東の出丸としての機能を託されていたのかもしれませんし、土地を開墾することで元・豊臣方であったことを許されていたのかも。
一之江名主屋敷が武家屋敷の様式だろうとなかろうと、その価値は変わりません。武士というひと殺しの職業を止めて、農業という、ひと生かしの職業を選んだ男の、輝かしい歴史の痕跡。
いずれにせよ、都の史跡にふさわしい屋敷跡だと思うのです。