2014 の都民の日に上野動物園の藤堂家墓所へ行った。
検索してたどり着くかもしれない人のために、結論から先に書こう。この記事に、他の人のブログにないような情報はない。私も他の人と同様である。墓所まで行って、塀越しに藤堂家一族の墓を眺めたが、どれが高虎の墓かはわからなかった。
と、前置きして、話をすすめよう。
お墓は私の守備範囲ではないのだけど、城づくりの名人として藤堂高虎関連の史跡はなるだけ訪れたい。しかるに、調べ始めたら、彼の墓が上野動物園の中にあるという情報には簡単にたどりつく。
この地には彼の大名屋敷があり、菩提寺である寒松院もあったからだ。寒松院は彰義隊の戦いで焼失し、その跡地に上野動物園が開園したが、藤堂家の墓所は園内に残ったというわけだ。
そんなわけで、私は藤堂家の墓所を見るべく、入園料がタダになる都民の日に訪れたのだった。
と話したときに、入園料くらい払えばいいのに……という反応を返されたことがある。
いやいや。
入園料を払うと、動物を見るので一生懸命になって、藤堂家墓所の訪問がおろそかになってしまうではないか。あくまで、目的は、高虎の墓なのだ。
入園料がタダの日なら、ろくに動物を見なくても心は痛まない。というのが私の理屈であった。
わかってもらえないだろう、という意識くらいは、ある。
さて、いよいよ 2014 年の都民の日。私は仕事を午前中で済ませ(都民の日は祝日ではない)、上野動物園に行った。
……という訪問記を 2017 年に書いているのは、最初に述べた通り、ネットで調べられる以上の情報を得ることができなかったからだ。不完全燃焼であり、落胆であり、ながらく記事にする気が起きなかった。
いま、こうして記事を書き始めたのも、撮った写真の供養のようなもので、時間が過ぎて書くことを思いついたからではない。
お墓は東園にある。私はモノレールに並んだ行列を見て、歩いていくことに決めた。
藤堂家墓所は園内マップに載っていない。だから、行くならゾウ舎の近くの動物慰霊碑を目指すといい。
ほら、もう見えている。動物慰霊碑の後方、写真の右上に写っている石塔が墓所だ。
鉄の扉の前までは草の刈られた未舗装の道があるが、写真を撮れるいい場所がないか一周しようとすると藪を漕ぐことになる。
そして、そのような(写真を撮るのに適した)場所などなかった。
私は江戸時代の石垣らしき基礎にグッとくる城クラスタの人間であるが、肝心の石塔は視界から隠れる一方だ。
墓所の主は先祖の墓を他人が参拝することを歓迎してないようである。
墓所のなかがいちばんよく見えるのは、鉄扉の前のところだ。一脚を使ったり脚立を使って塀よりずっと高い位置から撮れば、よりよい写真が撮れるかもしれないが、失礼であろう。ご子孫の意向を尊重するべきだ。
多くの慎重なサイトでは、この中のどれかが高虎の墓である、と書いている。
真ん中の石塔が高虎のものだ、としているブログ主もいたが、私も組みするなら慎重派の方だ。
大名一族の墓をいくつか回った経験があれば、必ずしも藩祖が真ん中だったり最大の墓石だったりしないものだと知っているものだ。
石塔は全部で14基だそうだ。いちばん小さくて粗末なやつかもしれないのだ。我々は、ご子孫がそれを明かす気になるまで待つしかない。
ただ、墓所の前から手を合わすのみ哉。
さて、上野動物園がかつての藤堂家の屋敷跡・菩提寺跡であるからには、関連史跡がもう少しある。私も例にもれず、他のブロガーと同様に閑々亭に触れて、この記事を〆よう。
閑々亭。高虎が貴人をもてなした茶室である。こちらは墓所とちがい、園内マップに載っている。
残念ながら、これも彰義隊との戦闘の際、焼失しており、明治11年に再建されたものだ。
この再建が、オリジナルに忠実な再建かどうかはわからない。写真や指図が残っていたわけではないだろうから(起こし絵は残っていたかもしれない)。
東京都に残る都指定・区指定になってる文化財の古民家や茶室は明治生まれのものも少なくない。 再建と聞くとナァーンダと軽んじてしまうが、築100年を越えた、同クラスの歴史的文化財だ。
ただし、残念ながら、いまのところ何の指定もないようである。
茶室としての出来がどうかは、門外漢の私にはわからない。
茶人としての藤堂高虎はどうだったか。
かの古田織部が切腹したあと、彼の屋敷を賜っているのだから、徳川愛され外様という点をさっぴいても、それなりの茶の心得はあったのだろう。
高虎は豊臣秀長の家老であるが、同じく秀長の家老に小堀遠州の父・小堀正次がいる。 おそらくは、高虎が浅井家家臣だった頃からの先輩・後輩の関係だ。小堀正次の茶人としての力量を私はよく知らないけれど、検地などの内政で出世した人物であるから、それなりのインテリではあったのだろう。
他にも利休に薫陶を受けた武将が秀長配下にもいたようだ。利休七哲や十哲に選ばれてはいないが、それは秀長の本拠地が大和国だったからだろう。
つまり、高虎も、まず大大名として恥ずかしくない程度の茶の湯の作法に通じていたはずだ。
ところが、だ。
言い伝えによれば、高虎のもてなしを受けた家光が
「武士が風流をたしなむとは世が平和になり武士が閑《ひま》になった証拠」
といって、この茶室を「閑々亭」と名付けたのだという。
家光は高虎を祖父のように慕っていた。相談役として頻繁に招いた。
言い伝えが事実なら、それほど親しい高虎に対して家光が
「おいジジイ!おめーが風流なんて似合わねーんだよwww」
と、からかっているも同然だ。
古田織部の屋敷を賜ったときも、自分から
「これで拙者も数寄の上手なり」
という自虐ギャグともとれる手紙を伊達政宗に送っている。
高虎は手の指の何本か失った、全身キズだらけの 180cm を越える大男だ。 利休も大男だったが、商人あがりの優男と戦国武将は兎と狼くらい、見た目がちがう。
伝説のギャングボスのようなコワモテジジイが茶の湯にご執心など、近しい人からしたら恰好のからかいネタであり、本人にしてもまんざらでない持ち自虐ネタだったのではないか。
もっとも、高虎に限らず武士が茶に熱心すぎるのをからかう風潮が家光の時代にあったし、”数寄の上手なり”という言葉も、茶会に人を招く定型句らしいので、まずはいつもの私の妄想であろうが。
白黒写真にしたのは、この日は曇りで、あんまり良い色の写真が撮れなかったからだ。ごまかしモノクロームである。