ちょっと時間があったので浜松城へ行ったら石垣の石が凄かった。
訪問日は 2017-08-10。
この夏の旅行のメインディッシュの城は竹田城だった。野宿して立雲峡に登る計画だったので、終電までに竹田駅に着けばいいスケジュール。ならば、駅から近い城にどっか寄れるね……ということで選んだのが浜松城だった。
選んだ理由は、正月に松江城に行ったので、じゃあ、浜松城も見ようかしらと。
なにが「じゃあ」なのか。実は浜松城を石垣の城にしたのは、つまり今、見られる姿の大半を作ったのは松江城を築いた堀尾吉晴だからだ(確定はしてないが堀尾吉晴である可能性がきわめて高い、だったと思う。もしかしたら確定してるのかもしれない)
というわけで、浜松城が今年の大河(『おんな城主 直虎』)に乗っかろうと頑張ってるとはつゆ知らず、行って少しだけ、ああそうだったねえと驚いた。
視聴率に苦戦しているという『おんな城主 直虎』を責めないでほしい。私がドラマ全般にあまり興味を持たない人間というだけの話だ。テレビも持ってないのだ。
浜松城はJR浜松駅から北西方向に進めばすぐ到着する。が、城のある丘陵がさほど高くないので、遠くから天守が見えるわけではなく、近づいていく楽しさはあまりない。
丘陵は比高 18m くらいしかない。↓下図は高さを6倍に強調してこれである。
(国土地理院:http://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html )
元・天竜川(現在の馬込川)を防衛線にするとしたら、ここに築城するよね、ほかに高い丘もないし、てなもんだろう。
ウィキペディアによると、はじめは磐田に築城するつもりだったが、そうすると天竜川によって背水の陣になってしまうので曳馬に築城し、地名を浜松に改めたという。おいおい、背水の陣の使い方、間違ってるぞ。
>浜松城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%9F%8E
慣用句の使い方はともかく、国内における政治の首都と経済の首都は、必ずしも一致する必要はない。ワシントンとニューヨーク、キャンベラとシドニー、静岡市と浜松市みたいなものだ。おや?
いずれにせよ、武田氏に対抗するため防衛上の理由から磐田ではなく浜松にしたという点で、ウィキペディアの記述に間違いはない。家康が浜松に移動した 1570 年、もはや今川氏は滅亡一歩手前だった。
そして、予想通り家康と信玄は激突し、家康は破れ、恐怖のあまりうんこをもらしながら浜松城に逃げ込んだ。いやいや漏らしてるのに気づかなかったのだとか、そうではなくて逃げるのに必死でうんこしてる暇がなかったのだとか、馬の速度を上げるため重量を軽くするためうんこしたのだとか、まきびしの代わりのうんこだったのだとか、うんこはねつ造、真実はビヂグソであるとか、ともかく馬の上でうんこしながら浜松城に逃げ込んだのは周知の通り。
これがために、浜松城と言えばうんこ、うんこと言えば浜松城というほどの関係になった。 これまでも浜松城はうんこうんこと言われてきたし、これからもずっと、うんこうんこうんこうんこと言われるのだ。
これが、うんこの強さである。なんと素晴らしいことか。江戸の軍学者から縄張りを絶賛されながら、家康が例の天ぷらを食べた城でありながら、城好き以外にあまり知られていない田中城とはウン泥の差ではないか。
ああ、出世城?いうほど出世してないって。むしろ失脚したのも少なくないって。うんこ城と呼ばれるのがいやで、むりやり言ってるだけだろ。あきらめろ。うけいれろ。おまえはうんこだ。
……とか言ってると、そうか、うんこか!ってなって、自らうんこアピールを始めちゃったりなんかしたら、うどん県と同じく
「公式が言い出すと萎えるんだよなあ」
とか無責任にてのひら返すのが世の中だけど。
天然が天然を売りにし出すと面白くなくなるとか、えっらそーに。
てなことを考えながら歩いてると、城域に到着。かつての二の丸は浜松市役所になっている。これはこれで、なかなか城っぽい。
ところで、最初に書いた通り、浜松城へは
「ちょっと時間があるから寄れる城」
のつもりで来た。ねちっこく回る予定ではなく、本丸を見て天守見て家康像を見て鎧かけの松を見て、帰ろうかねという程度。
都市開発によって本丸以外、あまり残っておらず、二重・三重の石垣がデンと連なる風景は望むべくもなかったから。
が、堀尾普請とも呼ばれる黎明期の荒々しい石垣には予想以上に感激した。
岩!岩!岩!
後の時代に打込接や切込接で修復されたりしかなったのか。崩れることはなかったのか。
もっとも、堀尾氏が入国したときの浜松は12万石だったけど、江戸時代になって松平忠頼が入国したときには5万石だったというから、分国されて石垣の拡張・修理どころじゃなかったのかもしれない。
浜松城の天守(堀尾期に建てられた)は江戸時代初期にはなくなっている。なくなった理由は定かではないけれど、石高に見合わない分相応であるから自ら取り壊したとか、維持費がかかるから取り壊したとか、そういう可能性もある。
しかし、石垣全体の醸し出す戦国の空気の前では、さすがの鏡石も形無しだった。
↓これは松江城。石材に加工ががっつりみられる。20年くらいで、この技術的進歩。
積んでみたら、なぜか崩れちゃうので、泣く泣く傾斜を緩くしたという感じだろうか。穴太の野面積みとて、最初から完成された技術ではなかった。彼らとて、ほんの 40 年前までは、比叡山が使う石仏だの石塔だの、基壇だのを作るのが主な仕事だったのだ。戦国末期は彼らにとっても試行錯誤の時代だった。
さて。
これほどまでに私が石垣に目を奪われた理由は、ヨセフのコートよりカラフルな(笑)、岩の多種多様ぶりにあった。
「岩のことはよく知らんけど。タモさんみたいに、安山岩か玄武岩か見てもわからんけど。ああ、でも砂岩はわかるかな。浜松城の石垣に砂岩はないっぽい。でも、さぞや岩石の種類が豊富なんだろうなー」
と、そう思いながら見ていた。
しかし、である。浜松城の石垣の石は、ほとんどが珪岩だというのだ。な、なんですと~。
石材は浜名湖北岸の大草山や根本山で切り出され、船で運ばれた。
(国土地理院:http://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html )
この大草山や根本山、ギリギリで赤石山脈(南アルプス)の尾根筋と見えなくもない山だ。
>珪岩 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AA%E5%B2%A9
珪岩(けいがん、英: quartzite、クォーツァイト)は、チャートや珪質砂岩が熱による変成(接触変成作用)を受けた変成岩。元の岩石に含まれていた石英(SiO2)が再結晶して大きくなっている。ホルンフェルスに含める場合もある。
そうか!珪岩とは変成岩か!……で、変成岩って、なに?
>変成岩 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%88%90%E5%B2%A9
変成岩(へんせいがん、英: metamorphic rock)とは、既存の岩石が変成作用を受けた岩石のこと。変成岩の原岩は火成岩、堆積岩など種類は問わず、変成岩がさらに変成作用を受ける場合もある。
ようするに、二酸化ケイ素を含む堆積岩が変成したものが珪岩という雑な理解でいいのかな?
とすると、その色や表情は、二酸化ケイ素以外の鉱物によって、様々に変化するわけだ。
名画は15分飽きずに眺めていられると言うが(:-P)、この岩は3分くらい飽きずに眺めていられると思う。
というわけで、私は鉱物のことはてんで門外漢ですが、浜松城の石垣の石には非常に見とれました。
石垣以外は、まあ、ふつう。
あとは、まあ、悪くなし。思ったより市内に遺構が残ってそうで、もっと時間を割いて見に来るべきだったかもねえ。でもまあ、いいか。……というくらい。
天守は江戸初期になくなった。史料に乏しいため、同じ堀尾吉晴の築いた松江城を参考にした、言わば外観クローンコンクリ天守。まあ、わかる。悪くはない。
天守台は本物の遺構だから、地階に残る天守井戸も、当然に本物の遺構。この風呂桶みたいな装飾はどうかと思うが。
松江城の地階にも屋内井戸があるので、浜松城の天守外観を松江城クローンとしたのは、まずまず理にかなっている。すくなくとも根拠レスで姫路城クローンにしたあっちこっちにある模擬天守よりはよっぽど。
天守からは、復元天守門もよく見える。復元天守門は、平成らしい史料に基づく本格木造復元。金網の目はもっと粗くてよかったんじゃないですかねえ。
ビニールがけしてイーゼル展示って、中学校の文化祭以下っていう意識を浜松市はもってほしい。 オープンカフェのおしながきじゃねえんだぞ。 ちゃんと額装して目線の高さに展示しろやボケ。マンガ家なめんな。
復元天守門の内部、スペース余りまくりなうえ採光も十分だったので、そっちに展示すればいいのにと思った。
模型。ちゃんと天守がない江戸時代の浜松城を模型にしてるのが好感。高さの無さを出丸・出城・二重堀で補うような感じですかね。
最近、実は家康じゃない説が飛び出した、しかみ像(複製)。意外に小さな作品だった。
展示物では、鞍がふたつあったのが良かった。他の城ではあんまり見た記憶の無い物品。資料や!資料や!
『おんな城主 直虎』に合わせた顔出し。作画は竹山祐右先生。なにしてはるんですか(Wikipedia を見たら、静岡県出身だった)
家康像。手に乗ってる鳥のような天使のような謎の生き物が謎。家康のウンコもらしを表わす心象表現だと思うことにした。
三方ヶ原の敗戦からウンコを漏らしながら帰った家康は、城門を閉じさせず、そのままぐうぐう寝てしまい、これでかえって家臣は落ち着きをとりもどしたという。それはともかく、うんこまみれのまま眠るわけにもいかないから、うんこまみれの鎧を脱いで松の木に掛けて寝た。その松の三代目がこの松で、初代は別の場所にあったそうだ。なお、初代はうんこ鎧を掛けられたショックで枯れた(下線部は嘘)。ちなみに初代の鎧掛松のそばに、うんこまみれ馬を洗った清水があった。住民は忖度できる人達だったので、そこをうんこ洗い場などとは呼ばず(下線部は妄想)、戦で火照った馬を冷やした場所として、馬冷《うまびやし》と呼んだ。この地名は現在も松城町内に残っているという。
浜松市市役所からだと比高 18m の丘陵。ガンダム程度の高さだ。お台場ガンダムのおかげで想像しやすい高さだ。
それはそうと、旅行から帰宅して3日ばかし、下痢になりました。うんこうんこ思いながら城を見たバチが当たのだと思う。