秀吉が勝手に戦線離脱した手取川に行った
訪問日は 2017-08-12。
当初の予定だと、この日、天滝を見て、午後は小代谷の小代城に行くつもりだった。
が、早め早めで予定を進めたため、天滝は前日に見てしまった(※見てなかった。詳しくは天滝のエントリ参照)
そして、大屋から八鹿駅までバスで戻って、小代までバスで行き、小代から八鹿まで戻るとバス代だけで¥3,500 かかるのだ。藤堂高虎が修築に関与したかもしれない大屋地区の城址とちがって、敵方の小代城に、そこまでの運賃と時間を使うのは、もったいないような気がした。
そう、小代の人には申し訳ないけど、それなら三泊四日の旅行で4日目の予定していた訪問先を3日目に繰り上げ、空いた4日目にもっとメジャーな城址に行こうと考えたのだ。
というわけで、4日目に予定していた手取川古戦場に向かった。
――上記の前置きを伏せて、ここはどこでしょう。とかやりたかった。が、タイトルに場所を書かないとSEO的によろしくない。やーねぇ、もう。
八鹿(兵庫県養父市)から小舞子(石川県白山市)まで、18きっぷで9時間半、かかった。途中、経路をまちがえてしまったからだ。ちなみにまちがえなかったら8時間半で着いたはずだった。
正解は「にしがわはし」でした。濁点の位置に違和感ありまくり。
河口に近いため、支流も集まってきている。手取川に到着するまでに西川と熊田川を渡らねばならない。
熊田川。少し下流に鮭見橋という橋があった。季節になれば鮭の遡上が見られるらしい。
さあ!熊田川も越えた!あとはこの堤防を登れば、眼前に手取川が広がってるはず!
川面が……見えてない……?わー!見えない見えない! 見えない見えない!
バードウォッチのための小屋。いや、わしは川の流れが見たいんじゃあ。
見えたー!手取川!戦国のころ、この川のために思うように退却できず、柴田勝家の指揮する織田軍が大敗した。すなわちここは手取川古戦場である。
もちろん、この手取川があるために退却できず大敗したのだから、実際の古戦場は川の右岸、小舞子側から見て対岸の、もう少し北のあたりになるはずだが。
>手取川の戦い – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
詳しく知りたい方は上のウィキペディアの項を読むといいだろう。雑に知りたい人のために、雑に三行でまとめよう。
(1)石川県民「新潟県の上杉謙信が攻めてきた滋賀県の信長さん助けて」 信長「わかった」
(2)謙信「七尾城を落としたぜー織田軍まだ知らないイエーイ」 秀吉「嫌な予感。帰る」 柴田勝家「」
(3)勝家「手取川を渡ったっどー(ニッコリ)」 謙信「さあ、虐殺の時間です」 勝家「」
という、たいへんためになるお話である。このあと、秀吉は勝手に戦線を離脱したことを咎められ、謹慎をくらうのだけど、秀吉が離脱してなくても大敗は間違いなかったはず。とすれば織田全体で見れば被害を少なくしたといえ、信長もそう強く罰することはできなかったようだ。
秀吉の離脱の理由を、ウィキペディアでは秀吉と勝家の不和に求めているけれど、どうだろうか。 そんなしょーもない理由での戦線離脱なら、そう簡単に許されようがないだろう。 秀吉には戦線を離脱した理由として、申し開きできる根拠があったと思う。
すなわち、七尾城の陥落は、おそらく柴田・秀吉陣営に届いていたのだ。
ただ、情報の裏がとれない。
ここで秀吉は、情報が真実なら渡河してからでは危険だから待つべきだと主張する。勝家は、情報が上杉方の流した偽情報なら、待ってる間に七尾城が落ちてしまう。渡河するべきだと主張する。
この七尾城援軍の主体は勝家軍だから、柴田勝家の決断が優先される。 しかし、秀吉はすでに一国一城の主だ。いわば、織田グループという企業連合の中の羽柴という会社の社長だ。 勝家の支援に来ただけでしかない秀吉にはグループ全体の総意に逆らってでも、社員の命を守る義務がある。現場判断の権限がある。
だからこそ、勝手に離脱する。七尾城落城の情報があった以上、部下を危険にさらすわけにはいかなかったと主張されれば、信長も強くは責められなかっただろう。謹慎程度の処分ですむはずである。
そのような空想はともかく、私が生で手取川を見たいと思ったのは、勝家たちの撤退を阻んだ、その水深と流速をこの目で見たかったからだ。
が、降りた河原の周辺は、ちょっと淵になっていて、あまり流れていなかった。
美しくはあるが、もっと早瀬が見たい。
(ここだって十分、流れは速いが)、浅い所に渡石を足して、慎重に中州へ渡る。
オチもなにもない、撮った動画をただつなげただけ。
(動画を再生するにはvideoタグをサポートしたブラウザが必要です)
手取川の名前の由来は、古墳時代とかそのあたりに、流されないように複数名が互いに手を繋いで渡ったからだという。
勝家たち、中世人は思ったのではないか。
「昔の人間は無茶しおる」
と。
私がここに来たもうひとつの理由は、はたして勝家・秀吉はこの川に船橋を架けたかどうか、目で見て考えたかったからだ。
船を浮かべるにしては、水深が浅すぎるようにも思えた。 それに、橋を架けるための舟は、おそらく数十艘は必要だろう。 まさか滋賀から持っていくわけにもいくまいし、どう調達したのか。
この疑問は、行ってみたら簡単に解決した。最寄り駅が小舞子駅であるため、心の中での地名が小舞子になってしまっていたが、実はここの住所は白山市湊町だった。かつては湊村だった。つまり、河口に港があり、水運の拠点だった。
通常の旅人の渡河は渡し船で行っていたのだろう。そして、軍用に船橋が必要になったとき、その船を調達できる場所だったということだ。まず間違いなく、勝家たちは当時、船橋を架橋したと思われる。
中州の泥地には犬の足跡、水かきのある鳥の足跡、水かきのない鳥の足跡が残っていた。ザ・自然満喫。
野犬が出るのなら、日が暮れる前に退散したい。
そうでなくとも、あまり安全な場所とは言い難かった。いつ足元が崩れるやら。
河口の方。北陸本線の鉄橋を電車が渡っていく。旅の風情があった。
川だけじゃなく、海も見たい
目的の川は見たが、そのまま駅へは向かわない。なんせ、この日は9時間半も電車移動してたのだ。 成果が古戦場ひとつではおさまらんのである。
呉竹水荘。平成の名水百選のひとつ、白山伏流水群の湧水のひとつらしい。
「平成の……?」
「ははーん、『日本の』には選ばれない、準100選なんやな」
とは思わなかった!まったく思わなかった!うん、思わなかった!
湧水が止まってしまったのか、それとも止めたのか、施設は枯れ果てていた。
そして、その近くに呉竹文庫がある。なにせ小舞子に着いたのが 17:00 を過ぎていたので、中を見ることはかなわなかったが。
大正時代の建物なら、和室や茶室が国の登録文化財や市の指定文化財になっててもおかしくなさそうだが、 そういった指定はないようだ。平成2年に再興しとあるので、当時の部分はあまり現存してないのか。
>白山市 呉竹文庫
http://www.city.hakusan.lg.jp/kankoubunkabu/ishikawa-rutu/rootkuretakefile/kuretakebunko/kuretake/kuretake.html
呉竹文庫この土地で生まれた実業家・熊田源太郎氏の私設図書館だ。大正期の出版物を調べるには良いのかもしれない。 ともあれ、この地の文化度の高さをうかがわせる、指標であろう。
この呉竹文庫の駐車場に、「手取川古戦場遠望の地」の碑があったらしいが、見逃した。
トキと言えば佐渡、佐渡と言えば新潟なのだが。ひろく、越後も越中も越前も、みんなまとめて越国だよ~ということであろうか。ん?ああ!ここ、加賀だ。越国じゃない。
金沢出身の知人も、じぶんたちが越国の一部という意識はない。加賀は加賀、能登は能登だよ……と言っていた。めんどくせえな。
トキは輪島の市鳥でもあるらしいので、能登半島ひいては石川県つながりだろうか。
この湊保育園の向かい側に塚があり、呉竹文庫創設者の熊田源太郎氏の墓があった。
保育園のわきを過ぎ、海へと向かう。河口に近いと、先に書いたのは覚えているだろうか。 小舞子海岸まで、目と鼻の先なのだ。せっかくなら、海を見たい。それに、事前の調べで海岸に芭蕉の句碑があると知っていたので。
明治時代、ここの風光明媚を気に行った餅田半次郎が、松韻亭という店を開き海水浴場を整備したのに、小舞子海水浴場は始まる。半次郎は兵庫県の舞子浜に似ているとして(個人の見解です)、ここを小舞子と名付けたのだ。小京都や〇×銀座、チバリーヒルズみたいなもんだ。最後のは自分で名乗ったわけじゃないか。
思惑は当たり、駅名になる程度には、この地が小舞子として周知されてにぎわったのである。
肝心の腰掛石はというと、行方不明で、碑だけ残っているのだそうだ。なんじゃそれwww
近くに座りやすそうな石が置いてあるのが、未練がましいというかなんというか……。
句碑があった。説明板がないので、これが芭蕉の句碑であってるのかどうかがわからないw
句碑の右下に、(読めない崩し字)、せ、(読めない崩し字)があったので、「はせを」だろうと思い、他に句碑もないので、これが芭蕉句碑だろう、ちがっても、ええわい。と見切りをつけた(結果的には、芭蕉の句碑であっていた)。
ぬれて行く人やおかしき雨の萩
という句で、意味は
「雨の萩って風流だよねえ。わざわざ雨の中おはぎを持って私をたずねて来て、俳句談義をしたがるあなたたちも、雨の萩に負けず劣らず風流な人たちだよねえ。わたしたち、ズッ友だね!」
くらいのもので、もっと簡単に言えば「ほんとは自分からあなたたちのところに行く予定だったのに、雨くらいでドタキャンしてごめーんね。おはぎありがとう」みたいな挨拶の句だ(個人の見解です)。
残るは海だけだ。
北陸自動車道の向こうに、見えるではないか。多幸感あふれる景色が。
夕焼け補正がかかっているが、美しさに絶句した。手取川だけ見て帰らないでよかった。
ちなみにこの小舞子海岸、日本の渚百選に選ばれている。
元の、オリジナルの、和歌にも歌われた「舞子の浜」は今では「アジュール舞子」という、発案者には悪いがどう見ても糞糞アンド糞としか思えない愛称にされてしまったので、小舞子の方はその名前を末永く守り続けてほしいものだ。アジュール舞子も小舞子も、観光のための命名という点でまったく同じなのだが。
風はおだやかで沖に白波もないのに、打ち寄せる波は(消波ブロックがあってなお)泳げぬほどに高い。これが日本海か。
土用波ってな、ありゃ、太平洋側のものだよな?だよな?
この夏の旅も終わりぬ……あ、いや、予定を繰り上げたんだった。まだ明日があった。
そして、私は金沢城と七尾城をあきらめ、愛知へ向かったのだった。
北陸新幹線が延伸して、18きっぷで北陸方面を回るのがすっかり難しくなってしまった(嘆息)。