本格木造復元という看板に偽りなし。大洲城を見てきた。
先に草稿としてツイッターに投げて、ブログで推敲。いずれ加筆訂正マンガ化して電子書籍にします。しました
コンクリ天守は頭を垂れろ!本格木造復元天守 伊予国大洲城 – 桝田道也 | パブー
大洲はかつて大津と言ったそうだ。肱川水運の便がよく、南伊予の統治に適した場所だった。
大洲は松山の南、宇和島の北。いったん宇和島に入った藤堂高虎も、大洲を賜るとすぐにそちらへ引っ越してしまった。 現代の他県人である私の印象だと知名度で宇和島の方が勝っているのだけど、 江戸時代においては城の規模も街の規模も大洲の方が上だったんですな。 佐田岬のせいで宇和島は瀬戸内海側に出るのが大変だった一方、大洲には伊予の大動脈・肱川があった。
川越しに見る城は良い。
2004 年に本格的な木造復元天守ができて、城ムックなんかの扱いも大きくなった城だ。
特に説明が無かったから、遺構じゃなくてお城に合わせて新造した長塀かなぁ?
大洲城は城もいいけど町割りこそに見所がある……のだけど、時間が無くて回れず。臥龍山荘もスルーした。
宇和島城を見たあとの午後一時半。四時には駅に戻らねばならなかったから、正味二時間半しか余裕が無かった。
国の重文、芋綿《おわた》櫓。え?オワタ!?(説明版を二度見した)
芋綿の意味がわからん。辞書に載ってない言葉。検索してもわからない。戦国期につかわれた芋茎の縄か、縄にする前の繊維だろうと思うが。
壁に混ぜるすきみとして、稲藁なんか以外に芋がらを使うケースもあったらしいが。 わざわざ櫓に保存しなきゃならないものだろうか。
追記:謎がとけた。漢字をよく見ず、また「芋綿櫓」で検索してこの櫓が出てくるものだから気づかなかったけど、 芋(いも)じゃなくて苧(からむし)だった。
木綿が普及する以前は麻などとともに繊維をとるために使われた植物だ。 「苧綿」も大辞林には載ってない言葉だけど、意味はわかる。 なんのことはない、苧綿櫓はそのまま布や糸の材料となるカラムシの繊維の貯蔵庫だったのだろう。
ちんぱお @mitimasu 光の感じが綺麗ですね。角の黒っぽい所(名前は知らないんですが)から下に、何やら汚いものを落とすんですか?
桝田道也 @chimpao 石落《いしおとし》と言って下方向への攻撃用の出窓だったようです。石を落としたり弓・鉄砲で攻撃したと言いますが、この高さだと槍なんじゃないですかね。石落だけ漆喰が塗られてないのは、ちょっと珍しい気がします。
ちんぱお @mitimasu ありがとうございます。>漆喰が塗られてない、珍しい -すごい。数を見てるとそういう部分まで見えてくるんですね。むむむ。わざと色を変えて警戒を誘いつつ、実は無人とか、そういう過去があったんでしょうか。
写真、白トビしちゃったな……と思ったのだけど、わからんもんだな。
石落は名前と裏腹に射撃用としての目的が主体だったとも言われるけど、 この芋綿櫓もそうだし松本城もそうだけど、 射撃や投石が有用と思えない低い櫓にも石落があったりする。 ちなみにこの苧綿櫓は昭和の解体修理の際、肱川の増水に備えて石垣を高くしたそうなので当時はもっと低かった。
それで、石落は別名「塵落」とも呼ぶので実はダストシュートの役目もあったのではないか……?という思い付きをコラムマンガにしたこともあったな。
最近、また別の考えも浮かんだ。櫓の内部は窓が小さいので夏は相当、暑かったはず。石落しは防衛上側面に窓を設けにくい櫓の通気孔の役目もあったんじゃないかな?と。
いずれにせよ、単機能の設備では無さそうだ。射撃のためであり、投石のためであり、ゴミを捨てたかもしれないし換気のためだったかもしれないしひょっとすると採光の役目もあったかもしれない。
んで、苧綿櫓から進むと……
12/28 にもかかわらずこの紅葉。ちょっと感激した。
川沿いに遊覧用?のボートがたくさんあったけど、それ遊覧船の営業が商売として成り立つくらい綺麗な場所ってことか。
肱川。名前の由来は人柱になったおひじという娘説もあるけど、たぶん大洲で肘のように曲がってるからの方だろうと思う。話としては人柱説の方が面白いけど。
本丸。当時はぐるりと渡り櫓で囲まれ、本丸へは櫓の下をくぐる暗《くらが》り門を通らねばならなかった。最近、復元された熊本城が本丸御殿の下をくぐるようになってたけど、そんな感じだろうか。
今の大洲城の本丸は復元天守と櫓が二つだけだから広々としているけど、 当時は伊予松山城みたいなギチギチに詰め込まれた連結要塞城郭だったのかもしれない。
本丸井戸。本丸にある井戸としては国内最大級だそうな。
なんで、もっと引いた構図で撮ってないんだろう?>自分……と思ったけど、井戸穴以外は遺構ではない鉄柵があるだけなので、それを撮っても仕方がないと思ったのだろう。 3ヶ月もたつと記憶が薄れてくる。
復元天守。古写真と図面が多く残っていたおかげで、かなり正確と思われる本格的復元天守。お城好きの評価も高いと思われ。
私は適度に古びてる味わいが好きなので、まだ新品ピカピカの漆喰が微妙に残念。 いま、修理中の姫路城も数年後にはパリッとしちゃうんだろうなー。
2000 年ごろのお台場って、出来立てでまるで模型のような街並みで好きじゃなかったけど、最近は良い感じにサビ・雑草・ペンキはがれがあって、ようやく落ち着いてきた。ぉぉ、話が脱線。
とりあえずシェー。
オオズ☆ロケット団 ゆっくり大洲を楽しんでやー!17日18日には、大洲城でキャンドルナイトするけんのー!キャンドルナイトでも一緒にシェー!! RT @mitimasu: とりあえずシェー / 大洲城 復元天守前で bit.ly/ze2srR
桝田道也 @ozurocketdan ごめんなさい、訪れたのは昨年末だったのです。本当は城下町をゆっくり楽しみたかった!
漆喰が真新しいけど、こちらは復元ではない現存遺構の台所櫓。国の重文。
こちらも国の重文で現存遺構。高欄櫓。廻縁っぽいものがついてるけど、歩くことはできない。
台所櫓から中へ。長年の灯明、蝋燭で煤けたこの柱と床の色を覚えて置くように。
こちらが復元された部分の木材の色。ぜんぜん違うwww / 大洲城 復元天守と台所櫓をつなぐ廊下
とりあえず復元天守より先に高欄櫓へ
良い城下町だ。
連結っぷりに同じ伊予国の松山城を思い出した。
模型。
復元天守内部。お城作りの様子のジオラマが。大丈夫か?一般の観光客はついてきてるか?
お役所仕事とは思えないギャグ満載の模型。すばらしい!一般の観光客も大丈夫だ!
お城の展示物はどうあるべきか、求めるものは各人それぞれで正解はないと思うけど、 個人的には、この大洲城のようなものが良い。
他所のお城の写真が飾ってあってもなんだかなぁ、と思うし、 文化財であっても武士と関係ない農具・民具なんかが天守にあると、しらけてしまう。 地域の特産品なんか置かれた日にゃ、もう、ね……。 わしは城を見に来てるんだっつーの。
その点、大洲城復元天守の模型は、天守の復元に興味のある人に向けた良い展示になっていたと思った。
宇和島城の敷居が高いのは畳を敷いたからという説明があったが、ここも高いな。当時の一般的な工法だったんでないかい?
熊本城宇土櫓の案内の人は「ふつうは櫓の中は暗い。足元がよく見えない。進入した鎧武者を転ばせるために敷居を高くしてあるのだ」なんて言ってたけど、どうだろうねえ。
というか、模型に気を取られて大洲城天守の特徴である、吹き抜け構造の写真を一枚しか撮っておらず、それもピンボケしてた……orz。(ピンボケしてたので写真は上げてない)
もともと、安全上の理由から木造巨大建築は許可がおりにくいのだけど、大洲城天守は吹き抜け構造のために強度に難があり、ますます復元許可を得るのが難しかったという。
こういう模型は結構いろんな城で見るが、表記の細かさっぷりは今まで見た中でで一番。
城好きの城好きによる城好きのための復元天守。
大洲城天守を復元させた 2004 当時の大洲市市長は桝田興一氏と言うらしい。おなじ桝田として誇らしい…と言っていいのかどうか。
そりゃ、これだけ本格的な復元天守は、お城好きとしては誉めざるをえない。
ネットで当時のインタビューを読んだら、
「良いものを作りたかった」
と答えている。うん、たしかに、これは良い物だ。
昭和ほどではないとはいえいまだに村おこし的に各地にいいかげんな模擬城が作られている昨今、
考えられる最高の、まっとうな復元天守であることには間違いない。
でも税金の投入に見合うリターンがあるかどうかと考えると、複雑だ。よそ者が口をはさむことじゃないけどさ。 年末とはいえ私が人目を気にせずシェーができるくらいたったし。つまり、私以外の観光客はいなかったし。
当時のまちBBSも読んだけど、市長の息のかかった建築業者への利益誘導だという冷めた見方が多かった。 ソースが匿名な分を差し引いても、ハコモノ行政にはちがいない。
ただ、古写真と図面が残るという、本格復元天守を作るのに好条件の揃った城だったのも事実。 大洲市にできることをやってのけた、良い事業でもある。
願わくば、お城好きの間での大洲城の復元天守の評価が高まり、そのうち一般の観光客増加につながってほしいものだと思う。
お役所仕事とは思えないユーモア注意書き
ああこの組手が継手がほんほんほんほん。
墨書まで当時と同じように入れてる。凝りっぷりが半端ない。
現存天守だと柱も天井も煤けて黒一色になって、写真じゃ細かいところがわからなかったりするけど、さすが新築わかりやすい!
下城。下台所櫓。県指定文化財。だが、このまま駅に向かってはいけない。市街地にあとひとつ重文が残っているのだ。
三の丸南隅櫓。大洲城の遺構の中で最も古い。国の重文。明和期に建てられたってことは安政の大地震に倒壊しなかったってことか。
櫓からは大洲高校の生徒がテニスをする様が見える。薄暗さと太い格子のせいで、なぜか覗き見してる気分に。
大洲は直線的な町割をしてるので城下のいろんな場所からお城が見える。ヨーロッパの都市設計法のヴィスタの影響という説も。私は懐疑的だけど。
おしまい。