二十世紀梨誕生の地で二十世紀梨を食べたああああっ!
3回言った!3回言った!そう、つまり、すなわち、ようするに、私はこの夏の旅行の〆に
二十世紀梨誕生の地に行き、二十世紀梨を食べたのだ。
聖地巡礼であった。
というと、梨マニアのように思われるかもしれないが、そうではない。 あらゆる果物の中で、梨がもっとも好きであり、 食べたことのある梨の中では、二十世紀梨がいちばん好きだというだけである。 かつて和梨の代表と言われた長十郎梨を一度、食べたいと思っているが、残念ながら売っているのを見たことがない(取り寄せてまで食べたいほどではない)
追記:その後、2022年だったか2023年だったかに長十郎梨が売られてるのに遭遇。もちろん買った。
甘さはそれほどだけど、梨のシャリシャリした石室感は二十世紀梨を上回るほで、好きな梨でした。
もう、シャリシャリというレベルを超えてガリガリゴリゴリに近くて、万人受けはしないだろうと思いましたが(追記ここまで)。
この夏、旅行計画を立てて千葉や茨城の城址や史跡をネットの地図で漁っているとき、
「二十世紀梨誕生の地」
の文字が目に飛び込んできた。
二十世紀梨誕生の地!私のような浅い二十世紀梨ファンでも、”どっかのだれかがゴミ捨て場のそばに自生していた変わった梨を育ててみたら新種だった。それが二十世紀梨である”くらいの逸話は知っている。どこかの誰かというレベルで”知っている”と主張していいのかどうかは知らんが。
調べてみると、原木は枯れてしまったそうだが、記念碑があるという。その名も『二十世紀公園』に。
二十世紀公園!!!!!!!!!!!!
そんなかっこいい名前の公園は、千葉県松戸市の、どこにあるというのか。それは『二十世紀が丘』だという。
二十世紀が丘!!!!!!!!!!!!
なんというシビれる名前の街だろう。>二十世紀が丘 – Wikipedia
というわけで、旅行の訪問予定地のひとつとして、入れておいたのだ。
時間の都合がつけば行く、サブ目的地のひとつであり、当初は初日に行くつもりだった。 小金城を見たあと、雨が降らなければ、向かっていたはずだった。
が、雨になったので、そのまま北上し、帰路に増尾城を見たあと、あと1ヶ所、どこか寄れる。どこにしよう……と考え、連日の暑さで疲れていた私は
「そうだ!二十世紀梨誕生の地へ行こう!そして、二十世紀梨を食べるのだ!」
ということしか考えられなくなってしまっていた。
どうやら、かつて原樹が天然記念物に指定されたときの碑らしい。その原樹は今は枯死して存在しない。博物館に一部が残っているらしい。
>二十世紀梨の原木 まつどの観光・魅力・文化|松戸市
http://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/odekakemap/bunkazai-map/shishitei/si33.html
べつに、直系の子孫じゃなくてもいいから、二十世紀梨を公園内に植樹すりゃいいのに……と思うけど、果実は誰のものか、警備するのかしないのか、いろいろ大変になるから、無理か。
枯木も山のにぎわい主義で選ばれた観光〇×選って、ほんと、ノイズが多くて困る。主要なものはほとんど落選しないから、カドが立たないんだろうけど。
地元の女の子は、かなり気合の入った角度までブランコを漕いでた。
さて、あとは、二十世紀梨を食べるだけなんだが……
梨屋!梨屋はいずこっ!?
最近は、とくに関東では二十世紀梨は、ほとんど生産されてないと聞いたことはある。
しかし、なんつったって、二十世紀梨誕生の地なんである。
梨売りの露天商が大勢いて、
「なし~、ありのみ~、二十世紀に豊水、幸水、ラ・フランスもあるよ~」
などと声が飛び交い、大きな店構えの八百屋が数件、それぞれ
「元祖・二十世紀梨 フルーツまつど」
「本家・二十世紀梨 千葉果実」
などと看板で鎬を削り、実は仲良し……というようなことは、
まあ、ないだろうなとは、うすうす思っていたけれども、それでも、ひょっとしたら梨の無人販売所くらい……という期待はあった。
でも、やはり、そんなものはなかった。
ので、二十世紀梨を求めて周辺をぶらり。地元の小さな八百屋でもあればよかったのだけど、結局見つからず、ライフがあったので、そこで購入した。
二個で 498 円もした。ちょっと引いた。
ついでに言うと、翌日に自宅近くのスーパーでは二十世紀梨が一個 500 円だった。ガチで引いた。
いま、二十世紀梨の主要な産地は鳥取県。ふなっしーの活躍で千葉県も梨の産地であることは有名だが、現在、千葉県ではほとんど栽培されていない。
値段は、そのせいもあるのだろう。ものの値段は希少性で決まる。
私が子供のころは、二十世紀梨なんて、そんな高級品ではなかった。むしろ、いちばん安い梨であり、豊水・幸水こそ高級品だった。私が二十世紀梨が大好きなのも、子供のころ、親しんだ味だからだ。
まあ、二十世紀梨が安かったのは、西日本(九州)だったから鳥取に近かったせいもあるか。
二十世紀梨。その由来は、先に書いたとおり、うっすらとは知っていたけど、くわしくは知らなかった。
今回の旅行で、すこし詳しくなったので、右から左へ紹介しよう。
明治 21 年のことである。千葉県松戸市に住む、松戸覚之助少年(13歳)は、親戚のゴミ捨て場の近くに、梨の幼樹が自生しているのに気づいた。
覚之助少年は、その幼樹がふつうの梨とちょっと違うことに気づいて、それを育ててみることにした。
桃栗3年、柿8年、梨のバカヤロ15年……のフレーズが有名なように、幼樹が実を結ぶまでは何年もかかる。
両親はそのころ、果樹園経営にトラバーユしたばかりであり、家業に興味をもつのはいいことだと、もしくは、覚之助も自分達のトラバーユの力になろうとしてくれている……と、嬉しく思い、温かく見守ったのだろう。
おそらく、覚之助自身もそれが新種とは思っておらず、たまたま自分が見つけて、もったいないから育ててみた……くらいの気持ちだったのではないか。
ところが、10年後の明治 31 年。19世紀末。まゐくろそふとがウヰンドウズ九拾八を出さなかった 1898 年。 ついに実をつけた覚之助少年の梨は、あきらかに新種だった。
緑の果皮に、あふれる果汁。なにより、梨の梨たる特徴、石細胞のシャリシャリ感が強かった。
23歳になっていた覚之助青年は、その梨を新大白と名付け売り出した。
明治37年。二十世紀に入った 1904 年、当時ひろく読まれた『興農雑誌』に新大白を激賞する記事が載った。曰く
「実に完全の梨果と称するを得べし…」
と。
覚之助青年は、ここが勝負とばかりに、新大白を『二十世紀梨』と改名した。その後の人気は、世に知られる通りである。
雨に弱い品種であるため、多雨の千葉県では生誕の地でありながら、残念ながら今ではほとんど栽培されていないが、鳥取県では今なお盛んに栽培されており、日本の梨生産量の第3位につけている品種だ。
というようなことは、おおむね、下記のページを参考に、私なりの想像と脚色を少しだけ加えて書いた。
>ごみ溜めから生まれた「二十世紀」ナシ/日本の「農」を拓いた先人たち — 公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会 —
https://www.jataff.jp/senjin/nasi.htm
そうして、ライフで首尾よく二十世紀梨を購入できた私は、二十世紀公園に戻り、梨をむいたのである。
ピーラーは所持していたが、果物ナイフは持っていなかった。銃刀法違反になるからだ。なので、四つ割りにできない
なしを丸かじりするのは、少年だったころ梨狩りに連れて行ってもらって以来だ。
お味はどうだったかというと、さすがに二個 498 円…普通の二十世紀梨より少し甘いかも……という気がしないでもなかったけど、まあ、普通の二十世紀梨だった。
だが、それでいいのだ。なぜなら、
二十世紀梨誕生の地で二十世紀梨を食べたああああっ!二十世紀梨誕生の地で二十世紀梨を食べたああああああああーーーーーっ!……のだから。
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ひとくち食べたときの自分の顔、食べ終わったときの自分の顔を撮ってないあたり、こういう記事を書きなれてないな自分、と反省した。