ひとつくらい近世城郭も見たかったから土浦城まで行った
この夏の旅行のメイン目的地は牛久大仏。その途中にある城址や寺社へ、時間のゆるす限り寄り道する。そういう旅だったが、ひとつ問題があった。
マイナーな城しかないのだ。
土の城でも近年有名になった杉山城クラスのものがあれば華もあろうが、まあ、土塁と空堀があるだけ、みたいな城ばかり。それはそれで楽しいものだけど、ひとつくらいは石垣のある城も見たい……ということで、土浦城まで足をのばすことにした。
2日目、トータル走行距離が 100km は確実に越えてたあたり。疲れもピークであり、手ブレ写真も連発してしまった(むろん、手ブレ補正はオンにしてある)。
どういう城か、説明すんのめんどい。
>土浦城(茨城県土浦市)の見どころ・アクセスなど歴史観光ガイド | 攻城団
https://kojodan.jp/castle/408/
よく公園化されていて気持ちいい。が、城址としての整備はどうかな。この時点では、やや不安を感じていた。
動物園のニホンザルはサル山にいてこそ、楽しんで眺めていられる。せまい檻に2匹づつ飼われていても、悲惨なだけだ。天寿をまっとうしたら、新しいニホンザルは補充しないでもらいたいな……と思った。
ちなみに土浦城、別名を亀城という。
だからか、亀のオブジェのついたベンチが公園内にあった。あら、かわいい。
……などと、ホームレス排除ベンチであることに気づかないと思ったか!甘いわああっ!
土塁も低い。その低さは土塀で補っていたのだろうが、明治初期の古写真では、もう土塀が無くなっていた。
“本丸にある“、”江戸時代の現存櫓門としては“、”関東地方では“、おどろくなかれ、なんと唯一なのだそうだ。
これには”モーニングでデビューしたギャグマンガ家で“、”宮崎県出身としては“、”板橋区在住では“、おどろくなかれ、唯一のマンガ家である私もびっくりだ。
復元土塀。発掘調査や絵図から、本格的に復元されたというが、丸・三角・四角の狭間に根拠はあるのかしら?安易に姫路城クローンしてない?
正直、姫路城の丸・三角・四角の狭間って特殊ケースで、そうそう他の城と被るとは思えないんだけどな。
轆轤鉋《ろくろかんな》という、漆器を作る木地師の使う和製旋盤器があるにはあったから、江戸時代でも作成可能だろうが……。ただ、防衛のための壁の穴に土浦藩がそこまでコストをかけられたかどうか。
というわけで、ここまでは、土浦城は私のなかでガッカリ城だった。
だが、ここから評価は大逆転したのである。
復元したからには、できるだけ公開して活用してくれなきゃ困るんである。
「宇都宮城の復元櫓の2階は、毎月第3日曜日に限り定期開放しています」
じゃ、それ以外の日に行った人間はキーッ!くやしい!なんである。
しょせん復元でしかないものを出し惜しみしてどうすんの?なんのために復元したの?である。 おい聞いてるか宇都宮市。
そりゃあ、コンクリ模擬天守で 1000 円とるっていうんなら、てやんでい誰が入るか!ってもんだけど、まっとうな復元で維持費をくださいってんなら、105 円ぽっち、喜んで払うのだ。
しかも、この入場券で隣接する市立博物館へも入場できるという太っ腹(残念ながら時間の都合で私は博物館はパスした)。
……ん?105 円。なぜに?茨城県は消費税率が据え置きなのか???そんなバカな。
ともあれ、少し、気分が良くなった。
入場料を支払うと、受付のおじさんが言った。
「なにか質問があったら聞いてください。答えます」
と。
これで、さらに気分がよくなった。
古民家園でよくある、シルバー派遣センターで雇われた解説員の、頼んでもないのに勝手に始めるガイド(しかも内容はパンフレットや説明板に書いてあることと同じ)のような押し付けがましさはまったくない。
あくまで、聞かれたら答えるという、私のような非コミュにはありがたいスタイル。
しかも、
「聞かれたら答える」
という。これは、控えめだが並々ならぬ自信だ。
おそらく、ただの雇われたモギリのおっさんではなく、市立博物館の学芸員とかなのではないかと思った。
そのほか、太鼓櫓にあった太鼓や、古写真など、狭い櫓の中に内容の濃い展示がなされていた。
「質問があったら答えます」
という静かな自信に感動したので、当り障りのない質問からちょっとだけ雑談をした。
桝田「この城で現存建築ってなるとどれなんですかね」
係員「それがですねー、太鼓櫓しか残ってないんですよ」
(※実際には、霞門と前川口門も現存建築なのだが、一般観光客向けの回答ということだろう。これはしかたない)
桝田「あー、やっぱり。(太鼓櫓は)展示してある古写真に写ってましたね」
係員「この東櫓は明治に焼けてしまいまして」
桝田「あらら。それは戊辰戦争ですか?」
係員「いや、ただの火災ですね」
桝田「もったいない」
係員「でも、明治になってたから写真も残ってたし、資料も豊富だったから復元できたんです」
桝田「なるほど。本格的な木造復元ですよね、この櫓」
係員「ところが、階段だけ元のとはちがうんですよ。本当はもっと急な階段だったんですが、消防法の都合で許可がおりなかったんです」
桝田「はー。そうかー。ですよねー。現存天守の階段はだいたい急ですけど、あんなん火事になったら逃げ遅れますよねー」
ということで、大変有意義な情報を得ることができた。大洲城は本格復元に際し、二年以上粘り強く交渉してようやく許可をえたと聞いたことがある。おそらく、相当しっかりした火災対策を施したのだろう。それに大洲なら、そこまで観光客でごったがえすこともないだろうという判断もあったのかもしれない。
だが、名古屋城だとどうか。
私には、ガチの本格木造復元だと大量の観光客の安全を保障できるようには思えない。おそらく、土浦城東櫓のようなアプローチにせざるをえないんじゃないだろうか。
昭和二十四年のキテイ台風(説明板ママ)によって小破し、復元を前提として昭和二十五年に解体したのち、
「復元すると言ったのはウソだ!ばかめ!」
と市長が言ったかどうかはさだかではないけれど、その後ながらく復元されず、放置されてしまった。
復元されたのは平成四年、1992 年のことで、市民の浄財によるという。多少なりとも解体時の古材が残っていれば現存櫓と言い張れたかもしれないのに、惜しいことだ。
前川口門。なんでこんな写真かって?門があることに気づかず、見なかったし撮り逃したからだよ!(怒)
ここまででだいぶ土浦城の印象はよくなっていたのだけど、さらに感激できるものがあった。
ゴジラ的なものが見たくて来た茨城県だったが、ここでキングギドラ的なものを見た。
一瞬に、疲れが吹き飛んだ。巨栽体ここにあり。樹齢は約500年だそうだ。
さらに。松。こちらは天然記念物でもなんでもない。巨樹というほどでもないが。
駆け足で回って見落としもあったけど、期待以上の満足が土浦城で得られた。この夏の旅の折り返し地点として最高の思い出になった。
まったく下調べ・前知識無しで来てるので、城下に残るの遺構は(あったとしても)他には見ていない。
経済を優先するか防衛を優先するか。土浦城は後者だったようだ。