浜離宮恩賜庭園に行ったら思いのほか城郭っぽかった。
杉作センセと、
「花見でもしましょうや」
ってことで、ソメイヨシノは散ってても庭園に行けば何かしら花があるだろうと、
東京に来て長いくせに行ったことのなかった浜離宮へ行きました。
ちなみに杉作センセは原稿が押して入園時刻までに来られず、ひとりで見ました。
まー、私も新橋駅から歩いて行こうとして少し迷って、駆け足で見たので見落としが多いのですが。
15:30 頃に到着。大手門橋。ビビッドモードで撮る意味はなかった。失敗。
大手門の石垣。江戸城にも匹敵する立派すぎる石垣に度肝を抜かれた。
当時はこの石垣に渡り櫓がかかる櫓門だったのだろう。いくら、かつての将軍の別邸とはいえ、庭園にこの門はものものしすぎやしないか?
……と、ここでハタと気づいた。ここは有事の際には江戸城の史城・出丸として使うことを見越した場所なのだと。
とにかく、初期の江戸幕府は海防に神経質だった(後期の幕府が林子平の意見を無視して海防に鈍感だったのが不思議になるほどに)。
仮想的である西国諸藩が東征することがあったとしても、陸路は日本アルプスと箱根があるから、そう簡単にはいかない。関東の攻めにくさは秀吉が北条討伐よりも九州制圧を先にしたことからも明らかだ。だから、陸路は街道の要衝に親藩・譜代を配置しておけば、かなり安心できる。
しかし、海路はそうはいかない。防ぐ手立てが無い。 だから、江戸が攻められるとすれば海路からだと考えていたのだ。 ゆえに、諸藩には巨大な軍船の建造を禁止し、幕府自身は動く城とも言える安宅丸という巨大軍船を造った。
安宅丸が解体されたのがいつ頃だったのか思い出せなかったけど、浜離宮のこのいかめしい大手門を見て、浜離宮が将軍家の別邸になった時期とそう前後しないのだろうと考えた。あとで調べたら、浜離宮の改修は安宅丸廃船から約20年後。この推測が合ってるのかどうか、微妙な年数ですな。
この公園について|浜離宮恩賜庭園|公園へ行こう!
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/about028.html
この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相 の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
安宅丸 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E4%B8%B8
しかし、あまりに巨大であったため大艪100挺でも推進力が不足であり、実用性がなく将軍の権威を示す以外にはほとんど機能しなかったとされる。
しかし、これは浅い喫水も併せて、江戸防衛の為の移動要塞としての任務が主なためとの意見もある。また、建造を命じたのは徳川秀忠であり、その後に将軍職を襲った家光によって絢爛豪華な装飾が付けられたという。
維持費用が大きく、奢侈引き締め政策の影響もあり、天和2年(1682年)に幕府によって解体された。
家宣の将軍就任は 1709 年。
さて、園内へ。恥をしのんで正直に言うと、私には庭園はどれも同じように見えて、手入れが行き届いててきれいだなー、という感想しか出ない。
東海道線からちょこっと見える浜離宮の木々のひとつは、こやつだろうか。
入場料は一般 300円。私が見た東京都の庭園の中ではいちばん面白かったので、値段分の価値は十分にあると思います。
三百年の松。六代将軍の家宣がここを改修したときに植えられた松だという。中々の枝ぶり。
しかし、説明板にあった、
「都内でも最大級の松」
という表現については、
「おめー、善養寺・影向の松の前でもそれ言えんの?」
なのであった。
もう葉桜だけど、とりあえず花見に来たので、サクラ、サクラ……と。
日頃の行いがいいので写真を撮ってると蜜蜂が現れるサプライズが。
この近くに菜の花畑があったらしいのだけど、気づかず。残念。焦っていたのは、浜離宮の最大の特徴である海入りを見たかったから。
いままで、手入れする予算がないのかなあ……などと思っていた自分が浅慮だった。 手入れの行き届いた「広場」があり、自然そのままに近い「森」があり、 海を模した「池」がある。その他もろもろ。敷地の中に「世界」を再現してるんですな。 リアル箱庭ゲームなんですな>庭園。
灯台跡。おそらく幕末~明治にかけて灯台が建てられたのだろう。
日本の、ここが変だよ御先祖様な要素のひとつとして、島国の人間でありながら常夜灯台の設置が遅かった(おそらく幕末になってから)ことがあげられる。
高い櫓を立ててかがり火を焚いて目印にするという行為自体は、古墳時代やその前まで遡れるかもしれないのだけど、なぜか
「毎日、一晩中、365日ずっと火を灯す公共施設があれば海で働く人たちが助かる」
という発想にはいたらなかったらしい。
これはまあ、江戸後期まで危険な夜の航海、それも陸地から遠く離れた沖にまで出る人がそんなにいなかったせいでもあるけれど。