なにかと話題の名古屋城にようやく行った。
訪問日は 2018-01-02。
お城を趣味にして8年。日本城郭検定で2級を取る程度には深入りし、胸を張って中級レベルと言えるようになった私。
だが、実は、どメジャー城である名古屋城には、今まで行っていなかった。
理由はいくつかある。
- 東京から長距離バスで片道 3,000 円程度。行こうと思えばすぐ行けるとタカをくくっていた
- どうせなら、空堀にタンポポや菜の花が咲き誇る春に見たいよね(桜はどうでもいい)
- 再建天守だしなあ……。あ、いや、コンクリ再建は許せるんだけど、まだ現存十二天守をコンプしてないから、そっちが優先だよね
- 城域だけでもくっそ広いし、行くなら秀吉生誕地とかも見たいし……1日じゃ回り切れない!
……等々である。そして去年あたりから、
「いかん!このままではいつまでたっても行けそうにない!」
と思い直し、理由2・理由4は妥協して、ともかく一度、訪問することを真剣に検討し始めたのだった。
そこへきて、名古屋城再建問題だ。
名古屋城再建問題とはなにか
まず、前提として、コンクリートの耐用年数は50年~70年くらいだという。うろ覚えだが、そう大きく間違ってないはずなのでソース探索は省略する。
したがって、昭和30年代に建てられた現在の再建天守はそろそろ寿命であり、耐震のことを考えても再建を検討する時期に来ている。
ここで、名古屋市長である河村たかし氏は名古屋の観光魅力度アップのため、木造による再建を方針として打ち出した。
これ自体は、悪くない考え方である。何といっても名古屋城は写真も史料も豊富だから、精度の高い復元が見込め、文化的意義は非常に高い。
コンクリとちがって木造となると、バリアフリー化が難しいので、そこをどうするかという課題はあろうが、やる価値のあるプロジェクトだ。
しかし、問題がある。現在の天守台は、太平洋戦争の空襲による火災で、強い熱を浴びている。
石は、強い熱を浴びるともろくなるという性質がある。はたして、現在の現存天守台で木造天守を支えることができるのか?せっかく現存している天守台を破壊してしまうことになりはしないか?
これが第一の問題だ。
現存遺構の保護と、本格木造復元。重要なのはどちらだろう?
でも、今のコンクリ天守は天守台の上に乗ってるじゃないか。と、お考えだろうか。
しかし、こちらはコンクリ基礎に鉄骨を立てて支えているので、現在の天守台への負荷は少ないのだ(むしろ昭和の再建では、被災した天守台を見て(木造再建では)重量に耐えられないと判断し、鉄筋コンクリでの再建に決まったという話をどこかで読んだ)
木造の場合、そうはいかない。本物の天守は、礎石建築だ。礎石の上に乗ってるだけであり、荷重はすべて天守台にかかる。
もちろん、文化庁および関係各所は、石垣が木造天守に耐えられるかどうか、慎重に調査している。
ただし、現存遺構の保存を重視する石垣部会と、本格木造天守復元の実現を重視する天守閣部会と、意識の齟齬があるようで、それが新聞の片隅を賑わせている。
>名古屋城の石垣調査、中断 発言巡り有識者会議が紛糾:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASKD43PPWKD4OIPE00B.html
10月の有識者会議で、天守閣部会の座長が「(石垣部会は)安全性を考えていない」と発言。石垣部会が撤回を要請して紛糾した。
この記事では、この発言が出た理由がわからない。
憶測するのはよくないので、言及は避けよう。
この問題については、石垣部会の有識者の一人、千田嘉博氏のツイートが的確かつ、申し分ないので、私もまったくこれに賛成だとしておく。
憶測するのはよくないと言った舌の根も乾いていないけど、つまり、天守部会から(安全のために)現存天守台石垣を壊す提案がなされたんですかね……
次に第二の問題。
復元がちぐはぐになる可能性が出てきた
>名古屋城:黒色か、赤褐色か 屋根瓦の色どうする? – 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20171225/k00/00m/040/113000c
つまり、1750年代の大修理時の姿に戻すとなると、銅瓦に錆止め剤が塗ってあったので黒だったはずだ、と。 黒にするにせよ、銅板をそのまま葺くにせよ、時間がたてば緑青色になることには変わりない。
問題は、現在、復元工事中の本丸御殿。これが、江戸時代初期の史料に基づき復元されてしまったこと。 だとすれば、1750年代の大修理時に合わせて天守を復元してしまうと、歴史上存在しなかったちぐはぐな組み合わせになってしまう。
このへん、結局のところ、観光優先ですすめてきた名古屋市の浅慮というほかないし、文化庁も見逃してしまったんだなあ、と。
もう昭和じゃないし、文化庁が正しく仕事してれば天守台石垣が壊されたりウソんこ天守になったりはしねえだろ……と安心してたんですが、そうも言ってられなくなったぞ、と。
万が一ということもある。こりゃ、いまのうちに天守台石垣を見ておかなくては……と思い立ったのが、ようやく名古屋城に初訪問した理由です。
長文ご苦労様でした。
なお、現在の天守閣は 2018 年 5 月より、調査と工事のため、閉館になるそうです。 ここまで読んで私と同じ気持ちになった方は、お早めにどうぞ。
名古屋城天守閣の入場禁止(閉館)について:名古屋城公式ウェブサイト
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/17_topics/291212/index.html
で、天守台石垣を見たわけですが
本丸側の高さの低い面(自重による荷重が低い方)でも所々にヒビ。
これもう、エメラルディア(ナムコ)だったら大連鎖起きるからね。たとえが古くてすまんの。
いやはや。石垣のヒビは姫路城とかでもあるにはあるけど、ここまですごいのは見たことないな。
石は焼かれるともろくなる。広く知られているかどうかはともかく、そうなのだ。
空手家や修験道者やクンフー使いが石割りの試技をときどきやるけど、あれは、この性質を利用したトリックだ。あらかじめ焼いて脆くなった石を使うのである(そうじゃない真面目な拳法家も稀にはいると信じよう。いや、信じたい)。
もちろん、上の写真たちは特にひどい場所を恣意的に選んだものなので、実際の天守台はムラがある。それほどヒビのない部分もちゃんとある。
が、「特にひどい場所」が簡単に何か所も挙げられるという事実に、現状をお察しいただきたい。
はたして、石が割れたらガラガラと崩れてしまうかどうかはなんともわからないが。それを含めて、専門家の調査が必要というのが今の状態だ。
焼夷弾はただ燃えるだけではない。高温で燃焼する物質をまき散らしながら、長い時間、燃焼する新型(当時の)化学兵器だった。
天守内部の博物館では焼夷弾を
「木と紙でできた日本の家屋を燃やすため開発された……」
とあったが、これは被害者意識から出た誤解だろう。
焼夷弾が大々的に使用されたのはゲルニカ空爆が初だから、
石でできたヨーロッパの家屋を高温で無理やり焼き尽くすために開発された悪魔の兵器、
と見るべきだ。
というわけで、天守台石垣の、素人目には
「これ、アカンやつや……」
な状態を見た私は、木造天守を再建するなら、現在の天守台とは別の場所に築くべきであろうと感じた。
史跡・文化財は現状維持が大原則だ。
壊すのは一瞬でできるが、元に戻すのは一生をかけても不可能だから。
復元はどこまでいっても復元でしかない。現存というブランドの足元にも及ばない。名古屋城天守台は、現存なのである。
移設された天守礎石のひとつ。バラバラにくだけ、コンクリで固められていた。
ここから時系列で訪問レポ
というわけで、名古屋城問題に関する話を終えて、ここからいつも通り、時系列に沿って訪問レポをば始めます。
まず、レンタルサイクルを借りました。
自転車貸出サービス(レンタサイクル)|名古屋・栄・矢場町・大須の駐車は 24時間年中無休の若宮大通地下駐車場 | 若宮パーク
http://www.wakamiya-p.jp/mogurin
本来、駐車場(若宮パーク)を利用する人へのサービスでやってるものという感じ。駐車場利用者は無料で借りられるけど、そうじゃない人は有料。
電チャリでもないシティサイクルが4時間 1,000 円、それ以上は 1,500 円というのは、ちょっとお高め。
正月に確実にやってると判明してたので利用したけど、そうじゃなかったら……。
ブレーキはきかないってことはなかったけど、整備はいまいちでリアブレーキはキーキーとうるさく、タイヤの空気圧は前後とも甘い感じだった。
そして、テレビ塔やロサンゼルス広場を楽しみつつ、北上して名古屋城へ。
ぼく「お!天守が見え……お前だれだーっ!」
愛知県庁「わしじゃよ、わし」
我々はガチ勢なので。再建天守より、土塁と堀が優先度高いのです。
名古屋城の堀がなぜ空堀か。水濠と違って、空堀は身を隠す場所がないので防衛に強い!……という説明を読んだことがあるけど、じゃあなんで江戸城や広島城や福岡城は水濠なの?というね。
私は名古屋城の空堀を、遊水地または雨水排水池の役目も兼ねて空堀にしたと思っている。尾張なのである。輪中である。城とて木曽三川の水害に備えないわけにはいかなかったにちがいあるまい。
伊勢湾台風の記憶もまだ新しい皆さんは、きっとわかってくださるだろう。
まてよ、伊勢湾台風(1959)? あ、新しくなかった!記憶、新しくなかった!そういや自分も生まれてない!遠い過去の出来事だ!
万が一、殿さまになにかあったとき、手引きして逃がす極秘任務を帯びた十八名(世襲)が、ここに住んでいたのだ。
極秘任務であるから、文武にすぐれたスペシャリストで、しかも本当の任務は同僚に隠して、平凡ないちサムライとして日々の雑務を送る毎日。うわー、厨二心くすぐられまそりー!
名城公園。明治に埋め立てられるまでは沼地だった。いわば、天然の濠だったのだろう。
明治になって軍の練兵場とかあったらしいけど、さほど重要な遺構でもないし、ここに天守台もろとも木造天守を復元すればいいと思うんだよね。個人的に。
元・沼地だから相当な軟弱地盤だろうけど、今の日本の技術力なら、ここに高さ20mの復元本丸を築くとか可能じゃないの?
本来の位置に再建されない天守は城ヲタの忌み嫌うものだけど、それが現存天守台を守るためなら、大多数は納得すると思うんだよなあ。
ようやく天守が見えた。なるほど、隣が沼地だったと、よくわかる。
二の丸側の入城門。やはり正門から入りたいと思ったので、ここはスルー。
二の丸の虎口。建物がなくなってるため折れがよくわかる。いいことなのか残念なことなのか。
江戸城や大坂城に比べて、名古屋城は笑い積みの鏡石が多いと感じた。
二の丸大手二之門は修復中。大きな城は、どこか修復中なことが多いので、気にしない。
一度でコンプリートさせないために、常にどこかを修理してるわけではあるまいな……(陰謀論脳)
西の丸では夜のイベントの準備物が。同様のものを福岡城でも見た。安上がりなんでしょうな。
こういうのあると、資料写真として使いづらいんだけど、年始だからしょうがないやね。城址公園は城ヲタのためだけにあるわけじゃない。わがままばかりも言えん。
名古屋城の大カヤ。焼夷弾の炎を浴びて生き延びた、ど根性巨樹。
明治から昭和初期にかけて、本丸は宮内庁の管轄で、東南隅櫓は離宮として使われた。その名残の菊紋。
なんぞこれ?と思ったが、本丸搦め手馬出し修復中とのこと。石垣の石が入ってるようだ。ご苦労様というほかない。
二の丸。くっそ広く見えるが、庭園と体育館がなかったら、もっと広く見えるはず。
俺みたいな天守を差し置いて南蛮たたき鉄砲狭間を見てる腐れ野郎、他にいますかっていねーか、ははは(いなかったorz…)
尊敬する塀 姫路城 油塀(朝鮮出兵はNO)
砂利はおそらく防弾目的なんだろうけど、結果として河原の砂利を骨材にした昭和のコンクリにクリソツ……
埋門跡。有事の際には殿さまがここから堀底に降り、先の御土居下同心がワンダバして、とりあえず犬山城へ逃がし、そこから木曽路で脱出する計画だったようだ。
が、結局、明治維新までそんな事態は起こらなかった。起こらなかったのだよ尾張くん! 代々、秘密をまもり苦労してきた御土居下同心たちが明治維新を迎えての、なんじゃそりゃああ!を思うと泣ける。
旧二の丸東二之門。現存遺構であるけど昭和47年に現在地へ移築。
清正石の横で記念のシェー。ちなみに石は実際は黒田長政の普請によるもの。目立つ鏡石だったからか、いつしか石翁こと加藤清正の名が冠せられた。長政カワイソス。
ちぐはぐな再建の御殿なんか見たくないよ!……というわけではない。 今回の訪問では、最初から見たいもの全部が見られるとは考えてなかったので、 お正月の人出で行列ができてるのを見て、内部見学はまたの機会に回すことにしただけ。
本丸御殿は、まだ一部が未完成だから、完成した暁にすいてる時期を見計らって見に行きたいねい。
このまま天守内部に行くと思ったか!ばかめ!イベントが進む前に取りこぼしがないか、行ってない所を一通り回るのがJRPGの鉄則じゃろうが!(老害)
おわりなごやの殿さまも、むかしはとても通れない、不明門《あかずのもん》、不明門
ぼくは殿様じゃないけれど、不明門を通ります。
チータカ タッタッタッ うれしいね
天守礎石。前述の通り、割れているものが目立ち、火災の熱の凄さを語っている。
さてこれが困ったちゃん。古墳時代の石棺式石室。なぜこんなものがここに?
これが、尾張名古屋で見つかったものならともかく、こいつは島根県松江市で発掘された石棺式石室なのだ。
小さく「〇〇氏より寄贈」と書いてあったので、経緯はわからんが、ともかく個人が所有してたものを名古屋市に寄贈したらしい。
ああ、これ、善意で寄贈されたものだからむげにできず、しかたなくここに展示したパターンだ。
松江のものは松江に寄贈してやれよ……
フレームにおさまらないなら、あとで合成しよう!というのがラクにできるようになったのはいいが、湾曲しちゃうと、資料としては(というかトレス元としては)使いづらいと言うオチ。
備中高松城天守、丸亀城天守、彦根城天守、宇和島城天守を高さで上回る、巨大櫓なんだが、なぜかそう見えない(個人の感想です)、謎の櫓。
清州櫓の場合、櫓台が御深井丸の石垣に一体化してて、境目の見分けがつかないから、ついつい櫓台を除外した高さで見てしまう。これが、いまいち高く見えない原因かと思う。舟で櫓の下から見上げたら、大きいと感じるかもね。
陸軍時代の何かでしょうかね……。
乃木倉庫。たまたま乃木将軍が名古屋滞在中に完成したので、その名がついたという。おもねり、へつらいもいいかげんにしろ!
金の鯱にカラスがときどき停まるんだけど、その瞬間はついぞ撮らなかった(待てなかった)。
金鯱にカラスの数羽まとわりてこれがホントの黒金《くろがね》の城 #哥
そして西の丸に戻ってきたァアアア!おまえはいつ天守に登んねーん!……て、おや?
わああああああいたああああああああ鹿ちゃあああああああんんんっ!!!
空堀にいるとは知っていたけど、外堀か内堀かは知らなかった。見ることができて満足。もし見られなかったらガッカリだよなあ……と思ってた。この日、いちばんテンションが上がった瞬間だったかも。
むかしはもっといたけど、今は2匹にまで減ったとか。鹿の食害に悩んで捕獲したところからもらってくるわけにはいかんのですかね。正直、木造天守より鹿の補充を優先してほしい。メスだけもらうようにすれば数のコントロールはできるでしょ。
黄金水井戸木枠。濁りが取れないので黄金を投げ込んで清正が天に祈ったら水が澄んだという伝説があった。
ガイドが
「清正は朝鮮出兵の際の籠城戦で苦労したので天守内に井戸を……」
と、ありがちな説明をしてた。それもあるだろうけど、これだけ大きな天守で井戸を外に作ったら不便だからってのが主たる理由だと思うぞ。ええ、独自研究、要出典です。
ロマンにケチをつけたくないけど、みんな、お城の設備をなんでもかんでも戦闘に結び付けすぎ。
仔豹の尻尾が鴨の頭に見えて、悪趣味な障壁画だなあ……と誤解した。
ちなみに時間がおしてたので、天守内部の展示物はチラ見ですませた。
内容は他の城とくらべても充実してて、撮影不可のケチくさい感じもなかったので、
次の機会にじっくり見たい。
再建天守で良かったのは、なんといっても階段だった。
>栄螺堂 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%9E%BA%E5%A0%82
近代以降の建築だから、螺旋階段がめずらしいってことはない。が、再建天守・復興天守・模擬天守で栄螺堂になってる所を、私はほかに知らない(現存以外の天守はあんまり行っていないという事実はある)。
コンクリの耐用年数が近いからしかたないけど、あーこれ壊すのもったいねええええ、もったいねえなあああっ!とだけは叫んでおこう。
名古屋城天守閣の入場禁止(閉館)について:名古屋城公式ウェブサイト
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/17_topics/291212/index.html
見るなら 2018 年 5 月までに!
鵜の首と呼ばれる堀。入り込んだ敵を三方から攻撃する設備だそうだ。
なるほど、これは効果が高そうだ。馬鹿正直に、ここに突っ込んでくる雑兵や、それを指示する敵の武将が相手だったら。
ロマンにケチをつけたくないけど、みんな、お城の設備をなんでもかんでも戦闘に結び付けすぎ。
すぐそばに沼地があるってことは、この大地の下に粘土層があるってことだろう。だとすれば、鵜の首は(曲輪を隔てる堀切の機能をもたせたうえで)排水を促し液状化を防ぐための設備も兼ねていた……と思いますけどね。ええ、独自研究、要出典です。
篠島の矢穴石。さすがに、このへんでは石材が得にくかったらしい。
堀川堀留跡。熱田浜(当時はそこが海岸だった)から石材など物資を運ぶために開削された川。福島正則による。
辰野口水道大樋跡。水濠の水はここの水門・暗渠で調整されていたようだが、いまは埋まってて機能していない。
しかし、ぐるっと回ると北西の角に水門があり、堀川まで暗渠が通じていて排水されていたので、
「あたらしいのん作るくらいなら、古いの使い続けりゃよかったのに……」
と思った。明治人~戦前人に文句を行ってもしょがないか。
鷹匠橋。このあたりに鷹匠が住み、鷹匠にエサの鳩肉を売る人も住んでたらしい。
西北隅櫓(清州櫓)。この方向でも、やっぱりそんなに大きく見えない(個人の感想です)
Google Map によると、このあたりに北暗渠跡とあったのだが、発見できず(対岸、二の丸側は、もう出てしまったあとだったので戻れず)。ま、しゃーない。看板もなさそうだしな。
ここらでタイムアウト。那古野城跡、秀吉・清正生誕地などは行けず。
いや、さすがに天下三名城のひとつ。こうして羅列するだけでもいっぱいいっぱいで、考察なんか挟む余裕もないし、不要。お腹いっぱい苦しい助けて―!な名古屋城でした。