東日本大震災から二年の時点で、考えてたことを記しておく
震災から二年。人並みに、この二年つらつらと考えたこと感じたことを書いておこう。
震災前までは、やんわりと反原発派だった。原子力発電のメリットは住民の命をかけてまで享受するようなものではないと思っていたからだ。
しかし、震災直後の首都圏の停電と、その年の夏の電力不足で一時的に原子力発電容認派になった。
医療をはじめとした現代日本の提供する科学技術やインフラが原発無しに成立しないのならば、 原子力発電は必要なんじゃないだろうか?と思ったからだ。
IT技術の普及により、大都市のみならず発電所周辺の住民もその恩恵に授かっているはずなのだ。被曝という目に見えやすいリスクを避けて、医療・福祉サービスの低下という目に見えにくいリスクを選ぶのはいかがなものだろうか?と考えたのだ。
しかし、結局はゆるやかな脱原発派にもどった。理由は単純かつ唯一で、
「もう一度、同規模の震災が起きたらとどめを刺されるから」
だ。そして、それが明日こないともかぎらない。歴史的にも、大震災が数年おきに起きたケースは多いのだ。
ネットの様々な議論のおかげで色々な視点から原発を考えられるようになった。
結局のところ、被曝による原発のある数十キロ圏の早くて確実な死と、国力低下による日本全体の緩慢で高確率の死の、どちらを選ぶかという論争だ。
私はゆっくりした死を選ぶ。時間があれば、わるあがきもできる。
震災直後、私が首都圏から逃げ出さなかったのは、単に金銭的な理由からにすぎない。逃げた人の判断が間違っていたとも思わない。数十年後に逃げた人が正解だったなんてこともありえると思っている。
とどまることを選択して、
「福島-東京なんて、広島-大阪くらいの距離あるし、ヒロシマのあと大阪で健康被害が出たなんて聞かないしな……」
などと自分を安心させるための薄っぺらい根拠を距離測定ツールなどを使って探していたのを記憶している。
最初の夏は、節電して協力してやろう、と思った。みんなで力を合わせて、この国難をのりきるのだ!みたいな。
二年目の夏は、すこしでも東電を儲けさせたくないという気持ちから、なるだけ電気を使うのをやめた。
結局やってることは変わらないのであった。
防災グッズ的なものを備えたりということはしなかった。
震度7規模の地震が起きたら、多少の備えじゃどうにもならん。震度6以下の地震なら、大都市の場合は数日しのげばなんとかなりそう。
そんな気持ちで。あるいは間違っているのだろう。ちょっとの備えで生死がわかれるなんてことは、おおいにありうることだ。だが、主に金銭的な理由とめんどくささが勝ち、防災グッズの購入にはいたらなかった。
震災以降、群馬より北へは行っていない。(※注 2013 年 3 月時点の話。2018年には戊辰戦争関連史跡をめぐるため、福島県を旅行した。この注釈は 2019 年に追記した)
正直に言えば、被曝が怖い。
私は被災者ではないが、正直に言えば、現実から目をそむけたい。
正直に言えば、壊滅した地域をこの目で見たいという好奇心がない。
正直に言えば、壊滅した地域を取材したりすることで、野次馬のように見られるのではないかと気になったり、事件にのっかってひともうけしようとしている…と思われるのではないかとおそれているのだ。
だから、財布の小銭をたまにコンビニの募金箱に入れる以外には、なるだけ震災取材や被災地域救援ボランティアからは距離を置いた。
そんな私でさえ、巨大な
「なにかしなくては」
な群集思念にあてられて、連載の終わった城マンガの描き下ろしとして地震に見舞われた飫肥城の話(『どっから見ても波瀾万城』)を描いてしまったわけだが。
がれき処理は、宮崎県には受け入れてもらいたかった。口蹄疫のとき感情的に他県民から拒否された宮崎県は、汚染されてないがれきは感情的にならず受け入れてほしかったと思う。
震災から二年。ひとつ、意外だったことがある。
この国の人間は、粘り強かった。