『ディアスポラ』の雑感
まっとうな感想文にしようとすると対象が対象だけに大変なので、 読んでて感じたことの断片を羅列してお茶を濁します。 つーか、考えがまとまらないし。
ちなみに『ディアスポラ』は図書館から借りて読み。 私の買ったイーガン単行本は『祈りの海』『しあわせの理由』の2冊。 読んだ長編は『順列都市』で、図書館から借りて読み。 この情報を元に、この雑文を読むかどうか判断してくださいませ> ALL。
以下、ネタバレありあり。
物語的には『順列都市』ほどには面白くなかった。 でてくるアイデア・ガジェットはいつものごとく眩暈がするほど、ではあったけど。 私が天文や物理にさほどそそられないせいもあるだろう。 ぶっちゃけ半分以上が理解不能だったし。 カンフーに興味のない人間がカンフー映画を見たような感覚と言えるか。
盛り込まれたアイデアその他を抜きにしてみてしまえば、 お話は一本道 RPG なみに単調で〝進む → 何か発見〟の繰り返し。 イーガンの短編に見られるような、唖然とするストーリー展開は 第二部「ガンマ線バースト」と第八部でしか感じられなかった。 この二箇所(特に第八部)でそれなりに楽しめたのは確かだけど、 イーガンの長編ということで望んだほどのリターンは無かった。
なんでハイフン入るん?
4部まで読み終えたあたりで生じた疑問と誤解のきっかけ。 カーター – ツィマーマン。略して《 C-Z 》。 なんでいちいちハイフンが入るんだろうな、と。
ヒューレットパッカードだって、略称はHPだ。ハイフンが入るからには、そこに意味があるんじゃないだろうか?という疑問。
重要な登場人物の名前〝イノシロウ〟といい、 《コニシ》ポリスはなんとなく日本がモデルっぽい。 ならば《 C-Z 》はどこだ?イーガンはオーストラリアの作家だ。
CからZまで。つまり、AとB以外。 アメリカ(A)とブリテン(B)以外?……って、Australia じゃねか。 アホか自分。首都は Canberra だけどな。ちょっとコジツケにしても無理ありすぎか。
で、ふと思った。 CからZまで。つまり、AとBの不在。 アシモフの短編ミステリに、Aの不在から〝No A〟→〝ノア〟という名前を導き出すくだりがあった。 じゃあ〝No A,B〟は?ノアのB? BはボックスのB?
で、
「あ~、やっぱこの話はノアの箱舟型創世SFなのか~」
とか思ってしまった、と。
そう思うと、トカゲ座バースト・コアバーストが洪水の比喩に思えてきて、
- 長炉の失敗は陸地を見つけられなかったカラスになぞらえているように思え、
- ガブリエルだのフランチェスカだの登場人物に聖人の名前が多いし、
- パオロはパウロっぽいし、
- トカゲ座バーストを報せるヤチマ達に対する肉体人の態度は洪水を予言するノアに対する人々の態度を連想させるし、
- 孤児ヤチマは《創出》の処女懐妊によって生まれたように読めるし、
考えれば考えるほど、『ディアスポラ』のネタ元が聖書であるような気がしてしまった。
そう思うと、ややガッカリじゃないですか。
もちろん、移民船モノはどうしたって箱舟型、あるいはアダムとイブ型の創世SFな結末を予想されてしかたがない。 実は主人公たちは新世界のアダムとイブ(あるいはノア)だったのでした。チャンチャン……というオチ。
「最後まで読者に気付かせることなくそのオチにつなげられれば名作になるが、
たいがい途中でバレてしまう」
という主旨のことを書いたのは故・星新一氏だったかな。
それで、『ディアスポラ』はバレちゃってる方の作品なのかと思ったんですよ。
ところが、結局コアバーストは物語中では起らなかった。 物語はものすごい放り投げられ方をして終わった。 聖人めいた名前や肉体人の態度は、 箱舟型創世SFを疑われるのを逆手に取っての演出だったのかもしれない。
それでも、強引に解釈すれば 《 C-Z 》は新しい陸地に等しい U*に辿りついたのだから、 ノアの箱舟型創世SFだったと言えなくもない。
「もっと同行者が欲しければ、いつでも何人か作れますよ」
パオロは笑って、 「きみのアイコンはほんとうに美しいけれどね、ヤチマ、ぼくらふたりがいっしょに精神胚を作っているところというのは、想像できないな」
引用は第八部より。この部分をして、パオロとヤチマを宇宙の果てのアダムとイブだと見ることもできるかもしれない。 巻末の解説によればヤチマはスワヒリ語の〝孤児〟という意味で、 アフリカでは女の子につける名前だそうだから。 物語はパオロとヤチマが精神胚を生み出さずに終わったけれども、 二人には永遠に等しい時間があり、読者がそうした未来を空想する余地は残されている。
が、それらはいずれも〝ノア、またはアダムとイブ型創世SF〟と見たいならば見てもいいよ ……程度の意味だったのだろう。 物語の本質はそんな所にはなかった。 じゃあ本質は何だったのかというと、よくわからないからこうして思考の断片を書き散らしているわけだけど。
わからないところは置いておいて、引っかかっている部分の再考。 《 C-Z 》のハイフンの意味は?
読み終えてから思ったことは、Zはおそらく無間数次元宇宙の果ての果て。 トランスミューターの目指したところ。パオロとヤチマのたどり着いた場所を指す、 隠しメッセージだったのではないかと。なぜならZはアルファベットの最後の文字だから。 最後の怪獣が〝ゼット〟〝ン〟と名付けられたのと同じ理由で、 《 C-Z 》と名付けられたのだと思う。そう考えるのは単純すぎるだろうか。
ではCは?アルファベットの3番目。 太陽系第三惑星のことだろうか。それとも三次元世界のことか。 ヤチマ達は元々の自分の宇宙を四次元宇宙(三次元+時間軸だろう)と言っていたから、 後者は無いかな。 地球から宇宙の果てまでという線はありそうな気がする。
でも実を言うと、ただなんとなくハイフンを入れただけという可能性の方が高い気がしないでも……。 だって《 C-Z 》が進んだのは U** までで、U*n に進んだのは、 《ヤチマ – ヴェネティ》ポリスだし……。
まぁ、そういうことを考えながら読みました、という話ですわ。 ぜんぜん見当違いのたわごとかもしれんけど、それはそれ。
追記。第6部あたりまで読み終えた所で、 Wikipedia(english) でノアを検索したら、 Noah’s Boxship じゃなくて、 Noah’s Ark でした。ふがふっふー。 ボックスシップって。なにその直訳思考。我ながらアホアホすぎるわ。
百億千億
『ディアスポラ』のラストは、 『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍)を連想した。
この、いたたまれない不毛感・虚無感・無力感の漂うラストで、 ヤチマには真理への旅がまだ残されているという描写によって救われているのが良かった。 張られた伏線が長いページを経て意外な形で収束する。 これが物語の面白さだよなぁ。
数学
数学が唯一不変の真理、というのにはいまひとつ同意できなかった。 非ユークリッド幾何学とか、虚数とか、〝ゼロで割ってはいけない〟、 とか数学だって人間の作り出した認識やルールの上で成立してる部分は多いんじゃねーの? と。え?偏見ですか間違ってますかそうですか。
まー、高校数学で虚数・複素数が最後まで理解できずに挫折した私だから、 そう思ってしまうのかもしれませんが。
この世に人間の認識に関係なく不変なる真理があるとすれば、それは物理だと思うな。 なんとなく。勘で。
なんか負けっぽいけど
展開される科学理論が半分以上理解できないと、
「〝わからないからつまらない〟と言ってしまうと負けなんじゃないか?
自分はこれを面白いと、面白いはずだと思い込みたいだけなんじゃないか?」
という疑念が頭をもたげてしまい、
物語を純粋に楽しめなくなってしまう。そんな風なことを考えるのは自分だけなんだろうか……
追記: ディアスポラ – ウィキペディア
ディアスポラ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%A9>ギリシャ語で「散らされたもの」という意味の言葉で、特にパレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人のことをさす。
あー、なんだ。全体的に聖書がモチーフくさいのは、 タイトルからして明示されていたのか。 つまり、いちいち言うまでもないことだった? うわ、恥ずかしい。